聖書講話「もったいないと感じる心」マルコ福音書6章30節~6章43節

「もったいない」という日本語が十数年前から見直され、今や世界でも使われるようになりました。環境や地球資源の問題に関して語られることが多いですが、元は神仏のような尊い存在への畏敬の念からきた言葉ともいわれます。
本講話ではマルコ福音書の、イエス・キリストが荒野で5000人を養われた奇跡の記事を通し、宗教において大切な心が説かれています。(編集部)

今日はマルコ福音書6章を学びます。一昨日の夜でした。私はこの箇所を読みながら、興奮して一晩眠れませんでした。その昔、イエス・キリストという、人間でありながら神のごとくに生きた不思議な人がいた。そのキリストのなさったこと、歩かれたこと、また不思議な、奇跡的な問題の解決をいつも目の前に繰り広げられたことなどを思うと、人類はいつの日になったら、イエス・キリストのような境地に達するだろうか、と思います。

やがては達するでしょう。しかし、今の科学文明によってそこに達するとは、私にはどうしても思えない。達するように見えるけれども、かえって遠のくように感ぜられます。

魂の休息の大切さ

さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、(原文では「めいめい」が入る)人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに(徒歩で)駆けつけ、彼らより先に着いた。

マルコ福音書6章30~33節

イエスは伝道から戻ってきた弟子たちに、「おまえたちはめいめい人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休め」と言われました。伝道が成功した時には興奮して語ってやまないけれど、精根尽き果てるほど疲れています。それでイエスは、このように彼らに命じられたのでしょう。

この「寂しい所」というのは、原文のギリシア語では「ερημος エレーモス 荒野」という言葉です。荒れた、草ばかりで木がほとんど生えない場所です。寂しい、荒れた所では休まらないと思うかもしれません。しかし、福音書の至るところに「イエスは寂しい所に行って祈っておられた、寂しい所に退かれた」などとあるように、私たちの宗教生活にとっては、めいめいで時々そういう所へ行って、しばらく休むということが大事なのです。

肉体を休めるということをしなければ、精神力はわき起こってきません。伝道のためには働かなければいけませんが、心静かに寂しい場所に行って祈るということは、私たちの霊的な力を、宗教心を高めるのに非常に大切です。また、寂しい場所でとっぷり祈ることを喜ぶ、そういうような人間にならなければ、信仰はなかなか向上しません。

ところが、イエス様はそっとしておいてほしいと思われて、弟子たちと一緒に寂しい場所に逃げられたけれども、また多くの群衆に取り囲まれてしまったという。

私は、特別集会をした時などは非常に疲れます。けれども、私がどんなに疲れていても、皆は「先生、先生」と言って、そばにくっついて離れない。私から何かが出るわけではないけれども、神の力を搾ろうというような気持ちなのでしょうが、困る時がある。それで私は、いつもそのような集会の後は、逃げるように隠れます。ですから、寂しい所に退かれたイエス様のお気持ちがよくわかります。

それほど、真に霊的な伝道は重労働です。ただお説教して、きれいごとを言って済むならば、だれも追いかけはしないでしょうし、搾りもしません。しかし、難病や苦しい家庭問題を抱えている人たちは必死です。また、必死にしがみついて、蛭(ひる)が血を吸うようにも、キリストの御血(おんち)をすすろうと期待して肉薄する場合に、キリストもまた不思議にその人を救いたもうということも事実なのです。これは不思議な現象です。

時を忘れるまでにも

イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが200デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」
するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「5つあります。それに魚が2ひき」と言った。

マルコ福音書6章34~38節
ガリラヤ湖畔の教会の床に施されたパンと魚のモザイク(5世紀ごろ)

ここに「はや時もおそくなった」とあります。イエス様は時間がたつのも忘れて、聖書講義というか、神の国の消息を語って尽きることがない。それで弟子たちは「これは大変なことになるぞ。ここでとっぷり日が暮れてしまったらえらいことだ」と心配しだした。そしてイエス様に、「もうたいがいで集会はおやめになったらどうでしょうか」と言った。

私はたびたび特別集会などで感じることですが、集まってきた兄弟姉妹たちが、空腹も忘れ、うっとりとして福音に聴き入っておられる。ところが、世話役の人たちはそわそわして、「先生、どんなでしょうか。食事はいつでしょうか」と、第一に大切なことを忘れて、そんなことばかり言いに来ます。そして、何が足りない、かにが足りないと言って、神経衰弱みたいになっていることがあります。

まず自分が捧げよ

弟子たちが食事の心配をしだした時、イエスは「おまえたちが彼らに食事を与えよ」と言われた。ところがそう言われても、自分たちには5000人分のパンを買うだけのお金がない。また、こんな寂しい所に5000人分のパンがあるはずもない、というのが弟子たちの言い分です。しかし宗教は、こういう困難な生活問題に触れながら学ぶのです。

弟子たちは、集まった人たちを解散させて、めいめいで食事を準備させようと思っていたけれど、キリストは「おまえたちの分をやったらいい」と言われるわけです。

何か偉大なことをしようと思う者は、自分がまず犠牲になるということをしなければなりません。他人(ひと)のふんどしで相撲を取ろうといった、他人の懐を当てにするような人には大きな仕事はできません。まず自分が身を挺(てい)して捧(ささ)げるだけ捧げる、後は神様がなさることです。

自分たちが持っているのは、5つのパンと2匹の魚でしかないかもしれない。しかし、まずそれを提供しようとすることなくして、奇跡は起きません。与えるのは神です。受けるのは人間です。神の道を講ずる者は、まず与えることを知らなければだめです。こういうことを、キリストは弟子たちに教えなさった。

これはただ、率先して模範を示せよというのではない。それだけ与えたところで、実際はどれだけの足しになるでしょう。ところが、人間の心がけというか、私たちが真っ先に自分の持っているものを差し出そうとしますと、後は神様が欠乏を補い、豊かに祝福したもうものです。神の無限力を信じて行動を起こすことが信仰です。自分のものはしまっておいて、いいことをしようとしても、それはだめです。

パンくずをも惜しんで

そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは100人ずつ、あるいは50人ずつ、列をつくってすわった。 それから、イエスは5つのパンと2ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、2ひきの魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、12のかごにいっぱいになった。

マルコ福音書6章39~43節

弟子たちが「金も足らぬ、パンも足らぬ、魚も足らぬ」と言うのに対して、主イエスはそのパンと魚を祝福し、神に感謝された、とあります。何というコントラストでしょう。

信仰とは、見ゆる現象界の不足を見ずに、見えない神の無限の力を仰ぐことです。見ゆる世界は有限で、見えない神霊の世界にこそ無限の富があるからです。

主イエスは天を仰ぎ、5つのパンと2匹の魚を元にプラスにプラスが加えられることを予見して、感謝したもうた。すでに「得たり」と感ぜられたので、おのずと感謝の祈りとなりました。これこそ、信ずるごとく成る、祈りの極意であります。

「パンくずや魚の残りを集めると」(43節)とありますが、同じ時のことを記したヨハネ福音書6章を読むと、人々が十分に食べた後、イエスは「少しでもむだにならないように(※注)、パンくずのあまりを集めなさい」(12節)と言って、弟子たちに残りのパンくずを集めさせています。「むだにならないように」は、「滅びないように、廃れないように」という意味のギリシア語です。そのことを私は前から知っておりましたけれども、このたびここを読みながら、実はこれが宗教に通じる重大なことだ、と改めて知りました。

普通、物質と宗教は関係ないように思う。それで矛盾を感じる人もいるでしょう、「宗教は精神的な問題だ」と。ましてキリストは、荒野において奇跡的な方法で5000人にパンを食べさせられたのです。困ったら、また無から有を生じさせるように奇跡で解決すればいいのだから、パンくずを拾い集めなくてもいいじゃないか、と思いやすい。けれども、キリストは「食べ残したパンくずが廃れないように、余さず拾え」と言って集めさせた。

ここでキリストが「パンくずを集めよ」と言われたことは、今の世相とだいぶ違います。

(※注)
「むだになる」と訳されている 「αποληται アポレータイ」 は、ヨハネ福音書3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」の中の「滅びる」と同じ言葉。

宗教的な気持ちの表れ

現代は大量消費社会です。長もちする物を作ったら商品が売れなくなってしまい、経済が回ってゆかないといって、数年で買い替えるような物を作る。ですからこのごろの人は、物を粗末にするようになりました。そして、物に対する感謝がなくなりました。しかし、物を粗末にする間は、宗教はわからないと思うのです。

昔、学校でよく言い聞かせられたものです、「お米はお百姓が粒々辛苦して作ったものだから、ありがたく、もったいなく思って1粒も残さずに食べよ」とか、1枚の布も、「これは女工さんが辛苦して織ったものだから大事にせよ」と。

また、天地の恵みがなければ、米も、綿も、蚕(かいこ)も育ちません。こう思うと、物を大事にするということは、神に対する感謝、天地の恵みに対する感謝から来ているのです。

明治・大正年間に育った人たちは、けちと見えるくらい物を大切にしていました。

だが今の人は、物質をありがたがり、物質の効用を知っているかのように見えますが、実際には物質を軽視し、粗末にしているのです。昔の人が1粒のお米に対しても、「ああ、もったいないなあ」と言って感謝したことは、宗教上、大切なことだと思います。

また、「もったいない」とは、目上の人や尊敬すべき人に対して抱く感情です。「私のような卑しい者が天皇陛下の御前に出るなんて、もったいない」と言ったりします。

昨日のこと、ある方に「これはエルサレムのオリーブ山のオリーブの実です。これをお宅の庭に記念に植えてください」と言って差し上げると、「まあ先生、もったいない」と言いました。なぜかというと、オリーブ山には昔、イエス・キリストがいつも祈っておられたゲッセマネの園があります。そこのオリーブの実と思ったら、もったいなくてしょうがない、というのですね。このように、小さなオリーブの実でも、キリストに因(ちな)んだものだと思うと、「もったいない」という気がする。

同じように、1粒の米、1枚の布ぎれに対しても、「もったいない」と言うときには、これは天地の恵みが凝ってできたものだから、という宗教的な気持ちの表れです。

天地一切のもの、これ神が造りたもうたものです。それに対して、もったいないという気持ちは、宗教的な人間が抱く物質に対する感覚です。ところが今は、もう何でも使い捨ててゆく時代ですから、「もったいない」といった宗教的な感情は育ちにくくなりました。

物質と宗教

また、「もったいない」という言葉に対して、「もったいぶる」という言葉があります。

たとえば、教会の牧師さんなどには、聖書を読むのにもったいぶって読む人がいます。また、もったいをつけて儀式をいたします。もったいをつけないと儀式にならないからです。すると、人々はそれをありがたがる。それは宗教家の偽善です。

偽善というのは、価値がないのに価値があるかのようにもったいぶってやることです。もったいない気持ちにさせるために、もったいぶるのです。これが「もったいない」という言葉と「もったいぶる」という偽りとの対照的な姿です。

宗教は精神的なことであって、物質とは関係ないというけれど、キリストのなさり方を見ていますと、いかに物質を大切にしておられたことか。パンくずに対しても、これは神の力によって集められたものであるから粗末にしてはいけない、というお気持ちでした。

禅寺などに行きますと、坊さんたちがお粥(かゆ)を食べるにしても、粥の最後の一しずくまですする。さらにお茶で溶いてすすります。もう茶碗(ちゃわん)を洗う必要がないくらい、きれいに食べ上げてしまう。そのように、簡素な、粗末な料理でも、ありがたくもったいなく、感謝いっぱいの気持ちで食べる。物質を非常に尊重しています。

この「物を大事にする、ありがたがる」という気持ちは、物に執着し、ちょっといい物でもちらつかせると、いちころに参ってしまうような人の心とは違います。

ですから、「物質、物質」と言って物を多く持っている人が、かえって物質の奴隷であって、しかも物質を大事にせず、むしろ少しの乏しい物質でもほんとうに感謝している人のほうが、物質のありがたみというか、値打ちを知っています。

小さいパンくずといえども、神の贈り物、いささかも粗末にできずもったいないと思う感情こそ、イエス・キリストのお心です。苦労して作った米1粒でも、お百姓はもったいながります。同様に、私のようなパンくずのごとき人間がキリストに拾われて、神に愛(いと)おしまれる理由が、「パンくずを廃らせるな」との聖句にわかるような気がします。

神と共に生きる幸福

パンはたった5つ、魚は2匹しかありません。それでどうなりましょう。足りない食物を見て、「足りない、足りない」と言う者を「餓鬼」といいます。「餓鬼道」という言葉があるように、現代は「あれが欲しい、これが欲しい」と欲望にきりがない時代です。どれだけあっても、「足りない、足りない」と言う。お金のある人は豊かに満ち足りた心で暮らしているように思うけれども、むしろ餓鬼のような心しかもっていない場合が、いかに世の中に多いことか。

しかし、このキリストの福音に生きている者たちには、実に乏しい生活をしているけれども、心豊かに生きている人たちがおります。私はそれを見ると、なんと尊い人たちだろうかと思う。心の中に満足感がいっぱいある。乏しいけれども、乏しいと思わない。空腹であることも忘れて、キリストの御前にひざまずいている時の幸福感というものは、物質が豊かで、食物がいっぱいあることに勝(まさ)って幸せなものです。

キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」と言われましたが、宗教的な満足感というか、魂の満腹感を神様から与えられない限り、どんなにパンがたくさんあっても人間は幸福でありません。

どうぞ、私たちは自分を見直して喜びとうございます。神様に触れて生きるもったいない、ありがたい生涯、なんと幸せであろうか。神の御名を賛(ほ)めたたえとうございます。

(1963年)


本記事は、月刊誌『生命の光』844号 “Light of Life” に掲載されています。