聖書講話「ダイナミックな宗教」マルコ福音書2章1~17節

マルコ福音書を原文で読むと、活き活きと福音を宣べ伝えておられるイエス・キリストのお姿が髣髴(ほうふつ)としてきます。イエス・キリストの語られる言葉は、普通の言葉ではありません。実際に人々の病をいやし、暗い運命から救う、神の生命がこもっていました。
今回は、手島郁郎のマルコ福音書2章の講話を掲載いたします。

先日は、夏期聖会の下見のために奈良まで行き、2日で1000kmほども走りました。これまでは、道を求める者は学びに来たらいいではないかと思い、あまり皆さんの所へ出かけておりませんでした。でもこれからは、こちらから皆さんをお訪ねしようと思いました。

それで、新しくモデルチェンジしたトヨタ・マークⅡという車を買い、奈良や伊賀上野、浜松、清水などを訪れてきました。マークⅡとは英語で「MARKⅡ」だからマルコ福音書2章だ、などと道々考えておると、この箇所には信仰において大事なことが書いてある、と改めて思いました。それで今日は、その第2章を読みたいと思います。

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。すると、人々がひとりの中風の者を4人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。

マルコ福音書2章1~5節

3節に「人々がひとりの中風の者を4人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた」とありますが、原文のギリシア語では「連れてくる」と現在形になっています。また4節の「イエスのおられるあたりの屋根をはぎ……床をつりおろした」も「つりおろす」と現在形で書かれています。もちろんこれは過去のことですが、「歴史的現在」といって、状況が活き活きと伝わるように、過去のことを現在形で書いているのです。

マルコ福音書にはまた、「ευθυς ユースュス(すぐに、直ちに)」というギリシア語がたくさん出てきて、イエスの伝道がスピーディーに展開してゆくようすが描かれています。

菜の花とカペナウムの遺跡

驚くべき御業

ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

マルコ福音書2章6~12節

ところが、そこで幾人かの律法学者が「心の中で論じた」とあります。それに対して、イエスは「自分の心ですぐ見ぬいて」とありますが、原文のギリシア語では「直ちに彼は彼の霊で見抜いて」です。心でなく、霊です。心よりももっと深い精神作用を営むものを、霊といいます。イエスは霊の人でしたから、頭で考えるのではなくて、霊で見抜かれたのです。これは私たちも心掛けなければならないことです。そのために絶えず霊的修錬をしていないと、私たちの心が曇って心の奥底にある霊で見抜くということができません。

ここで、中風の者に「あなたの罪はゆるされた」と言っても、律法学者たちに対してそれを証明するのは難しい。しかし、「起きよ、床を取り上げて歩め」と言って、動けない病気の者が立ち上がって歩くならば、結果としてだれでも罪のゆるしをも承認せざるをえないでしょう。それでイエスは、「わたしが地上で罪をゆるす権威をもっていることを、あなたがたに知らせるために」と言って、中風の者に向かって「なんじに言う、起きよ、なんじの床を取り上げよ、なんじの家に行け」と命じられました。

すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げてみんなの前を出ていったので、一同は大いに驚いた。この「驚く εξιστασθαι エクシスタスサイ」という言葉は、魂が抜け出すほど驚くこと、びっくり仰天してたまげた、というようなショックをいうのです。

今回、奈良からの帰りに浜松の集会に行った時、一人の若者が連れてこられました。7年前の静岡県・可睡斎(かすいさい)での聖会の時にいやされた若者でした。その父親が、「可睡斎に行くまで、この子は立つことも、手を動かすこともできない全身不随でした。しかし、聖会の最後の日に、先生から『立て!』と言われたら、ほんとうに立って歩けるようになりました。12年間、寝たきりだったんです。今は21歳になり、その時の出来事を回想して、ほんとうにありがたくてなりません」と言われます。

私は福音を説くのが使命で、病気治しは好きではありません。しかし、ほんとうにびっくりしました。私は単なる道具ですから、自分でそんなことができるものですか。

「主よ、あなたがお働きになったんですね。12年間立つことも歩くこともかなわなかった者を、こうやって歩かせなさる神様!」と、心から御名を崇めました。

霊のこもった言

なぜこのようなことが起こるのか。イエスはいつも、寂しい所で祈っておられました。そして、2節に「イエスは御言(みことば)を彼らに語っておられた」とあります。ただ語るだけならば「イエスは話された」でいいはずなのに、「御言を語っておられた」と表現しているところを見ると、イエスの言には不思議な力があったということです。

イエスご自身、ヨハネ福音書では「わが語りし言は、霊である、生命である」などと言われているように、イエスが語られる言には霊が、永遠の生命が脈打っていたから不思議なことが起きたのです。ただ教えを説かれたのではない、「御言を語られた」という表現のしかたを聖書がしているところに、特別な意味があります。

ヨハネ福音書1章に、「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)とありますが、そういう神そのものという意味での言を語っておられたのですね。ですからイエスが、御言を、ロゴスを発したもう時に何かが起きる。今まで心の痛みに耐えかねて苦しみ悩んでいた者が、急に希望を見いだして立ち上がる。また、ある人の病んだ肉体にこの御言の力がしみ入ると、たちどころにいやし、立たしめるのです。

救われた現実があるならば

奈良に行く途中で伊賀上野に行きました。鈴鹿(すずか)山脈の爽やかな緑、素晴らしい景色です。そこの集会に行きますと、40人くらい集まってきておられたが、皆さんが喜んでいます。

いちばん中心になっているS君は、大陸からの引揚者で豆腐屋さんです。彼は、「日本が戦争に敗れて希望を失っていた、自分のようなぼろぼろな人間が原始福音に出合って今、こんな喜びをもっています」と言われます。また、Hさんという学校の先生は、腰椎(ようつい)カリエスを患っていましたが、キリストの福音に触れて立ち上がられました。私たちが行きますと、いそいそとして喜んでご奉仕くださる。青年たちも皆、喜んで信仰しています。

こんな山奥に、このような集会ができている。しかも、だれといって伝道者はおりません。だが、立派に信仰生活を繰り広げておられるのを見た時に、私はほんとうに感謝しました。これが本当だと思いました。それはどうしてかというと、そのS君にしろHさんにしろ、皆キリストに現実に救われた証しがあるからです。過去形ではない、現在形で自分が経験している恩寵(おんちょう)を証しするような信仰があるからです。同信の友が少ない田舎でキリスト教の信仰を保ってゆくことは、ほんとうに難しいです。しかし素朴な田舎だけに、その信仰の証しが事実であるならば、かえって人々が信じてやって来られるのです。

このようにキリストは、今も私たちを通して御言を語りたまいます。御言を語るのは、伝道者だけの仕事ではありません。専門に伝道している者であれ、信者であれ、キリストの聖霊の息吹を受けた者は皆、不思議な御言を語らねばなりません。

御言には生命があり、力があります。その力が、生命が、言葉の殻を破って働きますから、不思議な救いを得させるのです。

取税人レビの回心

イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人(つみびと)たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」

マルコ福音書2章13~17節

イエスがガリラヤ湖のほとりに出てゆかれると、群衆が彼に向かってやって来たので、彼らを教えられた。歩いておられると、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になった。収税所とありますが、ガリラヤ湖に面したカペナウムの町は、交通の要衝でした。それで、物品をラクダなどに積んできますと、ここで税金を取ったものです。

当時、取税人というものは非常に民衆から嫌われました。ローマ帝国の代わりに同胞から税金を取るのですから、「売国奴」と罵(ののし)られながらでなければ仕事ができませんでした。

アルパヨの子レビ、またの名はマタイです。後にマタイ福音書を書いたマタイのことです。イエスは彼が収税所に座っているのをご覧になって、「われに従え」と言われた。「従え」というのは「弟子になれ」という意味です。すると彼は立ち上がって従った。この「立ち上がって」は「αναστας アナスタス」というギリシア語で、すっくと立ち上がるという意味です。それまで座って税金取りをしていたレビが立ち上がって、忌むべき職業を捨てたありさまを巧みに書いております。

イエス・キリストが語りかけたもう御声が私たちの胸に響くと、決然と一つの決心ができる。そのありさまを、「立ち上がって」という表現で記しております。このように、直ちに決然と立たしめる生命が原始福音である、ということがわかります。

こういう言が、今なお私たちの耳に響いているでしょうか。もし響かないならば、私たちの霊の耳がふさがれているからだと言わねばなりません。どうぞ、キリストが目交(まなか)いに立って、私たちに激しく迫りたまい、私たちを立たしめて聖なる御業に呼び出したもうように、と願わされます。

罪人をも立たしめるもの

15節に「それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである」とありますが、取税人のレビが、今度はイエスという大工の子の弟子になるという。社会的にいうなら恥ずかしいことです。しかしレビは、その名がイスラエル十二部族の一つ、神に仕えるレビ族と同じ名前ですから、神の氏族らしく決然と立ち上がって宴会の席を設けました。

「多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いて」とあるように、そこに集まった者は多くの取税人、また多くの罪人たちでした。そういう人たちが直弟子たちに交じっていたというのです。この「罪人たち αμαρτωλοι ハマルトーロイ」というのは、犯罪人という意味ではありません。日本語で「罪人」と訳しているので誤解されることが多いですが、モーセの律法にかなわない、宗教的と見なされない人々のことです。ヘブライ語で、「アム ハアレツ 地の民」と呼ばれた下層の人々です。

それで、宗教家ならば、このような階層の人々や取税人たちとは交わらないのが当然で、それが当時の観念です。しかし、イエス・キリストは、このような下層の者たちや取税人たちと交わり、彼らを神の逸材に仕立てたもうたのです。

こういうことを考えますと、私たちはたとえ生まれが悪くとも、そんなことは関係ない。キリストの御言に触れ、キリストの生命が私たちに働きかけさえすれば、この愚かな者もほんとうに変わってしまう。

イエス・キリストはこのように、罪人と呼ばれるような人たち、自分に愛想を尽かしておるような者と共に食事をされた。共に食事をする、というのはいちばん親しい交わりの表現です。このことは人ごとではありません。自分を見ると、ほんとうにつまらない。だが、こんな者をイエス様は愛して、私に近づいてくださった。この歓びの生涯に入れてくださったと思うと、ありがたくてたまりません。

静的宗教と動的宗教

今でもこの律法学者たちのように、宗教とは道徳や戒律を守ることのように思っている人がいます。しかし、宗教には2つあります。1つはスタティックな宗教。静かな、固定的な宗教という意味です。それに対して、ダイナミックな、躍動的な宗教があります。

ベルクソン(※注)という哲学者が、『道徳と宗教の二源泉』という有名な本を書きまして、その中で次のようなことを言っております。道徳にも宗教にも2つの種類がある。それは、人間の心に2つの段階があるからだ。1つは静的な、伝統や秩序を守るばかりの宗教であり、もう1つは動的で、神的な存在に直接触れた人が、現在の時勢に満足できずに革新しようとする宗教である、と。現在がスタティックで、儀式的、戒律的な宗教の状態であり、そんな現状ではたまらないという場合、どうしても2つの間にたたかいがあります。

2章22節に「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない」とあるように、ダイナミックな生命が働くときに、古い戒律や道徳では間に合わない。私たちの原始福音は、新しいぶどう酒がブクブクと発酵しているように、活きのいい生命です。それを決まった枠の中に入れようとしても、それはイエス・キリストが言われるように、新しいぶどう酒は古い皮袋をはり裂いてしまう結果になる。ここに、ベルクソンの言う問題があります。

このマルコ福音書2章を読みますと、活き活きとしてダイナミックな生命にあふれています。イエス・キリストがいでたもうところ、劇的な展開をスピーディーに次々と見せておられます。決して静かな教条主義的なものではない、儀式的なものではない、ということがわかる。福音書を読んでも、イエスが今のキリスト教のような儀式を行なわれたということは、どこにも書いてありません。いつも固定的な、教条主義的なものと戦い、それに挑戦しておられたのが、イエス・キリストでした。

(※注)アンリ・ベルクソン(1859~1941年)

フランスの哲学者。自然科学や神秘主義的な見地から人間、社会について考察。進化のエネルギー、エラン・ヴィタール(生命の飛躍)や静的宗教・動的宗教の問題などを説いた。

ダイナミックなエネルギーを与える

宗教とは、元来、ダイナミックなものです。しかし、2代、3代と年代がたつにつれて、静かな、形式的なものになってしまうのです。その時が宗教の死です。ミイラのようなものです。しかし、得てしてそんなミイラのような、死んだ、形式的な宗教を担ぎ回る。そういう宗教がどれだけ行なわれましても、人が救われるということはありません。

日本の仏教にも、静かな宗教、戒律的な宗教があります。しかし日蓮宗のように、預言者的なダイナミックな宗教もあります。戦中戦後、たくさんの人を集めた宗教団体の多くは、この日蓮宗から出てきています。また1200年前、弘法大師は真言宗を説きました。真言宗の人たちは今でも、「お大師さん、お大師さん」と言って弘法大師を慕い、お遍路さんになって旅を続けます。これは、ダイナミックな宗教的生命がまだあるからです。

イエス・キリストがマルコ福音書2章で説きたもうた福音は、病める者をいやし、人生に転落している人たちを救い上げて、活き活きとなさしめるものでした。

人々がそれを非難すると、「健やかな人には医者は必要ではない。必要なのは病人である。わたしがやって来たのは義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言って、キリストは病める人、悩み苦しめる人をご自分のそばに招かれました。招かれることによって皆が生き返る。そういうダイナミックなエネルギーを提供するところに、キリストの宗教の目的があります。ただお題目を唱えて儀式を行なっても、病める人が健やかになったり、救われたりはしません。強力なダイナミックな生命が働かなければ、病める人たちが救われるということは現実にありません。

どうぞ、私どもはここにぬかずいて、イエス・キリストが今も御言を語りたもうて、私たちの悩みを解決し、病をいやし、運命に泣いている者を解放したまわんことを願います。

(1969年)


本記事は、月刊誌『生命の光』840号 “Light of Life” に掲載されています。