聖書講話「ダビデの戦い(後編)」サムエル記上17章37~49節

―― 歴史を動かす宗教の力 ――

聖書の民イスラエルが、強敵ペリシテ人の猛将ゴリアテに一騎打ちを挑まれて窮地に陥った時、一人の少年が現れました。それが後にイスラエルの王となった、ダビデです。少年ダビデは、いかにして重武装のゴリアテに立ち向かったのか? その信仰の秘密は何か、を聖書は教えています。
前回に引き続き、旧約聖書サムエル記上の講話を掲載いたします。(編集部)

国や時代が行き詰まってきますと、神は必ずそれを乗り越えるための備えをなさいます。

イスラエルの歴史においても、サウル王の時代に、神は預言者サムエルを通し、一介の羊飼いの少年ダビデに油を注がれました(注1)。その日から、彼に激しく神の霊が臨みました。

さて、イスラエルを長年苦しめていたペリシテ人(注2)が攻め上ってきて、重大な危機を迎えました。両軍はエラの谷を挟んで陣取り、戦列を敷きましたが膠着(こうちゃく)状態が続き、ついにペリシテ人の陣営から、身の丈3メートルに及ぶゴリアテという猛将が一騎打ちを挑み、「負けたほうが、勝ったほうの家来となって仕えなければならない」と言ってきました。頭には青銅の冑(かぶと)、身にうろことじの鎧(よろい)、足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げやりを背負っている。それに対して、イスラエルの陣営からはだれも応ずる者がおりません。

その時、ちょうど兄たちの陣中見舞いに来ていたダビデがそれを見て、「神の民イスラエルが、こんなに侮られ、馬鹿にされてよいものか。私が彼と戦います」と言って戦線に出ようとしました。

どうしてダビデはそう言うことができたのでしょうか。それは、自分は神の人サムエルに執り成されて神の霊が注がれた者である、という自覚があったからです。名乗りを上げたがサウル王にたしなめられた時も、羊飼いをしつつ獅子や熊を打ち倒した話をします。

(注1)油注ぎ

旧約聖書の時代、祭司や王などの任命に際して、頭上に油を注いだ。油は神の霊を象徴するもので、これによってその人を聖別するためであった。

(注2)ペリシテ人

旧約聖書の時代、イスラエル南部の海岸地域ガザ、アシケロン、アシドドなどに勢力をもっていた民族。海洋交易によって栄え、鉄製の武器を有し、イスラエルをたびたび悩ませた。

信仰は勝利への力

ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」

サムエル記上17章37節

神の霊の働きは困難において証明されるものであって、困難から逃げる者にはその働きは虚(むな)しく終わります。もし困難があるならば、「神よ、この問題を通して、あなたの霊が私に臨んでいることを実証する機会としてください」というのが、私たちの祈りでなければなりません。

神は働いてくださるだろうと思っているだけなら、ただの知識です。そんな単なる知識の信仰は、私たちを救いません。「まあ、やめておこう。危ない、危ない」といって、せっかくの思いが腰砕けになります。信仰は力です。信じてこそ、ついに勝利を得るのです。外側の最悪の状況に心が呑(の)まれてしまうならば、信仰のない証拠です。

最悪の時にこそ神の霊が働くと信ずる者に、勇気がわきます。信仰の力が働きはじめます。信仰とは、世に勝つ勝利の力です。私たちが、こうして毎週日曜日に集会に集って、信ずる心を沸き立たせなければならない理由が、ここにあります。魂は信ずる心に刺激されて力を発動するのであって、信じようとする心のない者には、内に潜んでいる力を爆発させることは、ついにありません。どうしても魂がフラフラしまして、信仰が実りません。

ダビデはサウル王に、「私がゴリアテと戦って勝ちますから、王よ、ご心配はいりません」と言いました。戦う前から「私は勝ちます」と言って出かけています。彼は、自分たちの状況は武器や技術において劣っているけれども、神の霊が自分を通して働くときに、イスラエルは勝つことができる、という大きなビジョンをもっていました。

エラの谷(イスラエル)

勝つために戦う者が勝つ

明治37年(1904年)、日露戦争が勃発しました時に、世界の国々は、小国日本は負けるだろうと予想しました。そして、その勝敗を大きく分けたのが、翌年の日本海海戦、ロシア最強のバルチック艦隊との戦いでした。

日本の連合艦隊は、東郷平八郎大将が率いていました。対馬海峡にロシア艦隊を発見したという知らせを受けた時、大本営に「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども浪高し」と打電して戦いに赴きました。そして5月27日に戦火を交えて、その信ずるごとく、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊に圧倒的な勝利を収めました。

私たちに必要なことは、初めから勝つために戦うことであります。ここに勝利の秘密があります。戦って勝つのではありません。「まず勝って後に戦いを求める者は勝つけれども、まず戦って後に勝ちを求める者は敗れる」と中国の兵法家・孫子も言っております。

当時のイスラエルには、祭司や宗教信者も、将軍もいたでしょう。だが、だれ一人としてゴリアテに対抗するために、自分の国の困難に立ち向かおうとはしませんでした。「神の民」と言いながら、神の力を知らず、ただの儀式を守っているだけの信仰でありました。

それと同様に現代でも、キリスト教は無力なものである、と思っているクリスチャンは多い。しかし、聖書の信仰は無力なものではありません。私があえて「原始福音」と言う理由は、「もう一度現代に、イエス・キリストとその弟子たちの時代と同様の信仰が燃え上がり、神の生命が沸き滾ることが起こるように」と願うからです。

ダビデは「生ける神の軍に挑む馬鹿者はだれか」と言う。皆、死んだ神を信じているから、立ち上がる勇気がないんです。「神は生きている、神は必ず祈りにこたえたもう」というのがダビデの信仰でした。これが、ダビデとほかの人との違いでした。

若いからこそ常識にとらわれない

さてサウル王は、何も武器を持たないダビデに自分の愛用の甲冑(かっちゅう)を与えて、戦いに遣わそうとしました。王様が「貸すから着て行け」と言ったら、着るのが普通です。しかし、ダビデは「要りません。使い方を知りませんし、重たすぎます」と答えました。

あまりに重たく不相応な物を着せられたら、自分がつぶれてしまうからです。ダビデは、重武装の者が勝つ、というような常識的な考え方をもちませんでした。だから時代の勇者となったのです。多くの場合に、今までの考え方や常識が道を誤らせ、進歩を止(とど)めてしまいます。もちろん人生の先達たちの古きよき経験、嗣(ゆず)りは必要ですが、私たちが現代を超えるためには、現代人と違う感覚をもたなければ、新しい世紀を勝利する人間にはなりません。私は21世紀まで生きませんが、ぜひとも若い皆さんたちは、21世紀において勇者となってください。そのために、あなたたちには秘められた未開発のものがあります。それを自ら開発してゆこうとすることが大事です。

よく今の年寄りが、「若い者は年寄りの言うことを聞け」と言います。しかし、諸君! 年寄りの言うことなど聞くな。どんどん時代は変わりつつあるからです。だが現代の普通の若者のような考えをもっていたのでは、時代と共に流されてしまいます。

少年ダビデは、神学者や祭司でありませんから、難しい理屈や教理は知りませんでした。けれども、普通の人とは違う質の信仰、生ける神の臨在をビリビリと霊感できるような信仰をもっていました。それは、神の人サムエルに接触したからこそ、不思議なことが始まったのです。こういう質の違う信仰をもつことが必要です。その信仰が時代を超えしめるのです。民族を救うのです。本当の信仰は、知的にたくさん学び、たくさん研究したから与えられるものではありません。そう思うならば大間違いです。

若くて無学であることは、その人の歩みを思い切って飛躍させます。もし、ダビデが固定した伝統的信仰をもっていたならば、ゴリアテに立ち向かうことができたでしょうか。

同様に、ガリラヤの無学な漁師でしかなかったイエス・キリストの弟子たち。しかし、なぜ彼らが世界に出ていって、新しい文明の基礎を作っただろうか。それは、彼らが普通の伝統的な考え方にとらわれなかったからです。普通の信じ方でない信じ方をしたからです。

私もそうです。今のようなキリスト教の正統派でありたいと思わない。聖書の時代そのままの信仰をもつことが最も大事です。ただナザレのイエスに似る弟子でありたい。私たちは、「あれは正統派でない」と言われることをお互いに誇りたい。ダビデはそういう人でした。ダビデ一人が出たことによって、ユダヤ民族は救われたのです。

神の御名を呼んで

ペリシテびと(ゴリアテ)はダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。……またこの全会衆も、主は救いを施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」

サムエル記上17章43~47節

さて、ダビデは戦いに臨むために、谷間から滑らかな石を5個選び取って袋の中に入れ、石投げと杖だけを持って進み出ました。それを見たゴリアテは、「おまえは何だ。青二才じゃないか。しかも無防備で、棒切れ一つしか持っていない。おれを犬と思っているのか。それなら、おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」と怒りました。こうして腹を立てるというのは、もう負けている証拠です。

それに対してダビデは、「おまえは私のような少年に対して、剣とやりと投げやりを持って向かってくるが、私はイスラエルの神、万軍の主の御名を呼びさえすれば勝つことができる。ゴリアテよ、逆におまえが空の鳥のえじきになるだろう」と言います。自分は何も武器は持たないが、一つの秘密がある。神の御名を呼ぶことである。それが武器である。そうすれば神の霊が発動し、打ち勝つことができる。これが生きた信仰です。

イエス・キリストの弟子ペテロがエルサレムの宮に上った時、美(うるわ)しの門の前に足なえの乞食がおりました。乞食が施しを願った時、「金銀は我になし、されど我にあるものを汝に与う。ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め」と命じたら、立ちどころに病がいやされてしまいました。キリストの御名を呼ぶことによって、御霊が発動したからです。

主の戦いを戦う

また、ダビデは思いました、「この戦いは主の戦いである。自分一個が戦うと思うならば、負けるに決まっている。しかし自分は、生ける神、万軍の主の手先となって戦うのだ。この戦いは自分の戦いではない。神様の戦いだ。すなわち、神様が戦われる戦いに参加しているから、勝つに決まっている」と。

戦いですから、ダビデも命がけです。神のためにはこの身は死んでもかまわない、と思いました。でも、神はペリシテ軍を自分に渡されると信じていました。

私たちは、自分一個の意識で生きている間は一個のままです。しかし、自分が神のしもべとして神と共に生きていると思うならば、事ごとに「神様、私はあなたのしもべです、婢(はしため)でございます。神様、私はあなたの御心を行ないます」と言って生きることができます。そのような者は、神が共についておられるので、考え方からやり方まで違ってきます。

このことは、皆さんが事業をしていて、資金がない、人に邪魔をされるなどといって行き詰まっておられるならば、考えねばならないことです。そして、「神様、ここで私が負けるようなことがあったら、あなたの御名が汚(けが)れます。あなたの御名によって勝利したいです」といって御名を呼びさえすれば、神の霊は発動し、不思議な助けを賜ります。

私たちは、自分一個のためだけに生きている間はつまらないものです。また、力もわかず、惑い苦しむものです。しかし、神のために生きようとしはじめると、驚くべき力がわいてまいります。ちょうど母親が子供のために、また、人がその愛する者のために生きようと思うだけで、不思議な力がむくむくとわいてくるのと同じです。

そのペリシテびとが立ちあがり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。

サムエル記上17章48~49節

ゴリアテは、全身を甲冑で固めておりましたが、何事にも盲点というものがあります。ダビデが走り出て石投げで投げた石は、ゴリアテの眉間(みけん)にガツンと命中しました。

普通なら角のゴツゴツした石のほうが痛いですし、殺せるはずだと思います。しかし、ダビデは、勝つに決まっていると思うから、滑らかな石を取りました。実際、滑らかな石のほうがピューッと一直線に飛ぶので、一発でゴリアテを倒せました。「精神一到、何事か成らざらん」であります。事はたった一つ、石を投げるということでした。その石一つが決め手となりました。

私たちは、祈りをしなければなりません。しかし、祈っているだけではいけない。一つ簡単なことであっても、祈って行動しなければ問題は解決しません。

精神力の勝利

ゴリアテが倒れたのを見て、ペリシテの人々は敗走しました。もし、ダビデに神の霊が注がれなかったならば、イスラエルは強敵ペリシテ人に攻め込まれて、砂漠の一部族として葬り去られていたかもしれません。しかし、ダビデが登場したがゆえに困難を切り抜け、やがて輝かしい歴史を誇るに至り、ダビデの子ソロモンの時代に黄金期を迎えます。

最も近代的な装備で完全武装していたゴリアテでした。しかし、ダビデに負けました。生物の進化の歴史を見ても、亀や貝のように身を守るために甲羅や殻を発達させたものがおります。ところがその結果、自由に身動きができなくなって、進化が遅れてしまいました。巨大な牙をもったマンモスも絶滅しました。

ダビデの尊さは、物質的な武器とか防備を重要に思わず、信仰を、精神力を問題にしたところにあります。ここがダビデの真骨頂です。ゴリアテのように武器を信奉する者は滅びます。今、ソ連やアメリカなどは原爆を後生大事にして誇っておりますが、やがて原爆の重みで彼らがつぶれる時が来るでしょう。もちろん自衛のための防備をもってもいいけれども、頼るものがない時にこそ、神を頼む、精神力を頼むようになります。

私たち大和民族がもっと精神力を働かしたら、必ず世界の歴史に偉大な貢献をします。21世紀の文明を開くのは、われわれ大和民族の使命だと思う。

新しい世紀、今までの普通の人間では、とてもこれからの原子力時代、宇宙時代は担えません。神の霊を注がれた人間が続々と現れるのでなければ乗り切れません。今までと違った、新しい霊的な世紀が来る時に、私たちは霊的に目覚めなければなりません。

私たちは外側には何もないかもしれない。しかし大事なことは、まず神の霊が注がれることです。神の霊を注がれる喜び、そこから始まることは小さなことと見えるでしょう。しかし、やがて完成します。完成に向けて、私たちは信仰を伸ばさなければなりません。

ダビデの物語には、サムエルがダビデに油を注いだ時から、神の霊が激しくダビデに臨んだ、神の霊がダビデを祝し、またそのことによって民族が救われた、ということが書いてあります。私たちは少数であるけれども、普通のクリスチャンと違って、どうか神の霊が注がれた者らしい歩き方をしとうございます。信仰を消極的にただの考え事にしている場合、神の霊はものを言いません。必要なのは、祈りつつ積極的に事をなすことです。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』834号 “Light of Life” に掲載されています。