聖書講話「神われらと共に」詩篇46篇

今、世界情勢は風雲急を告げ、東欧では考えられないような戦火が勃発しました。わが国にも、そうした事態が起こらないとは言い切れません。
思いもよらない困難がやって来るような時にも、神と共にあれば恐れることはない。そんな確固とした信仰を詠(うた)ったのが、詩篇46篇です。
この講話は、第三次中東戦争直後にイスラエルを訪れた手島郁郎が、帰国して語ったものです。(編集部)

詩篇 第46篇  聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌

1 神はわれらの避け所また力である。
 悩める時のいと近き助けである。

2 このゆえに、たとい地は変り、
 山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
 そのさわぎによって山は震え動くとも、
 われらは恐れない。〔セラ

4 一つの川がある。
 その流れは神の都を喜ばせ、
 いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。

5 神がその中におられるので、都はゆるがない。
 神は朝はやく、これを助けられる。

6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、
 神がその声を出されると地は溶ける。

7 万軍の主はわれらと共におられる、
 ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

8 来て、主のみわざを見よ、
 主は驚くべきことを地に行われた。

9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、
 弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
  わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
  全地にあがめられる」

11 万軍の主はわれらと共におられる、
  ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

日本聖書協会 口語訳

この詩篇46篇は、私が最も愛好する詩の一つです。どんなに落胆して、苦しいどん底に落ちたような時でも、この詩をうたうと元気と力がわいてまいります。私だけではありません。16世紀に宗教改革に立ち上がったマルティン・ルターは、この詩を主題にして『神はわがやぐら』という有名な賛美歌を作っております。

この詩篇は一説には、紀元前8世紀、中近東地域を支配したアッシリア帝国の大軍に、ユダヤの国が奇跡的な大勝利を得た、という史実を背景に詠われたものといわれています。

大軍を率いたアッシリア王セナケリブに、都であるエルサレムは十重二十重(とえはたえ)に包囲されました(紀元前701年)。エルサレムは山の上にある都ですから、兵糧攻めに遭い水源を断たれたら、住民はすぐに参ってしまいます。そのような絶望の時、ユダ王国のヒゼキヤ王は恐れ狼狽(ろうばい)し、エジプトに頼ろうか、どこに頼ろうかと地上の何かにすがろうとしましたが、預言者イザヤ(注1)は立って王を叱りました、「神が共にあるならば、何を恐れようか。万軍の主が救いたもう」と。(列王紀下18~19章、イザヤ書36~37章参照)

ヒゼキヤ王が悔いて生ける神に真実に祈った時、主の預言のとおりアッシリアの18万5千の兵が全滅し、エルサレムは守られたと記されています(イザヤ書37章36節)。そのような歴史的境遇を通して学び、教えられた人物が、この詩篇を書いたのです。

(注1)イザヤ

イスラエルが南北の王朝に分かれていた時代、紀元前7~8世紀ごろに南のユダ王国を中心に活動した預言者。彼の預言の書とされるイザヤ書には、アッシリア帝国の勃興や北イスラエル王国の滅亡、バビロニア帝国による捕囚、捕囚からの帰還などの預言が記されている。

いと近き助けの発見

神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。

詩篇46篇1節

1節は、直訳すると「神は(エロヒーム) われらにとって(ラヌー) 避け所(マハセー) また(ヴァ) 力(オズ)」となります。「ラヌー」というヘブライ語は、「われらにとって、われらに味方して、われらの側の」という意味です。また、「力(オズ)」という語は「要塞(ようさい)、城」とも訳せます。神はわれらの逃げ込む場所、一時の「避け所(マハセー)」であるのみならず、城砦であり力であるという積極的な意味をもっています。鋼鉄のように力強い要塞、これがわれらの神であります。

「神はわれらの側に、われらに味方して」とは、預言者イザヤの根本思想です。神がわれらの味方である、われらに与(くみ)しておられるときに、われらは要塞の中にいる者のごとく、まことに嵐の避け所を得た者のごとく平安である、というのです。

さらに詩人は、神は何であるかを宣言しています、「悩める時のいと近き助けである」と。この直訳は「助けは(エズラー) 逆境の中で(ヴェツァロット) 見いだされる(ニムツァー) 殊のほか(メオッド)」となります。苦難に悩める時に見いだされる助け、これ神であります。人は逆境にないとき、神を大してありがたく感じません。逆境において助けられて初めて、神の発見、不思議な力の発見があるものです。

原文の「ニムツァー メオッド」は、口語訳では「いと近き」と訳されていますが、「殊のほか見いだされる」と訳せます。この「メオッド」には「大能、力」という意味もあり、「力強くも、確かに、すぐれて、素晴らしくも、速やかに」などと訳されることもあります。こんな意味を総合してこの句を読むと、神の助けがありありと読めてきます。

たとえ現在は苦難のどん底で絶望的であっても、もうすぐそこに救いが見えている。「力強くも、確かに、殊のほか近い」救助が待っている。必ず見いだされる助けがあるといって、これをイザヤは知っていました。さすがに彼は、第一級の信仰の心路(すじ)を知っている人でした。

私たちには、人生苦というか、さまざまの困難な問題があります。自分にはない、と思っている人は、それをごまかしているのであって、多くの場合、難しいことには真正面から取り組もうとしないだけです。しかし聖書の神は、苦難の中において「助け(エズラー)」として発見される実在の神です。苦しみを回避したり、そっとして考えまいと思ったりする人には、ついに見いだすことができません。救われてみて、神はわかるのです。

城砦の町エルサレム(黄金のドームがある所にかつて神殿があった)

いかに人間が高ぶっても

このゆえに、たとい地は変わり、山々は海の真ん中に
よろめき移るとも、われらは恐れない。

詩篇46篇2節 (私訳 以下同)

中近東地方は激しい地震の多い所で、有史以来、どれだけ多くの文明都市が崩壊し、滅亡したかわかりません。しかし、全宇宙を支配している万軍の主が、われらの側に味方しておられるなら、何も恐れることはない。使徒パウロは言いました、「神がわれらの味方であるなら、だれがわれらに敵しえようか」(ローマ人への手紙8章31節)と。一流の信仰者が共通にもつ言葉はこれです。どのように敵の大軍があっても、天の万軍には敵わず、原水爆よりも強いのは、われらの神である。眠っても覚めても、神と共にある人間は強い。

この詩人は、信仰の秘訣(ひけつ)を知っています。もし自分が御意(みこころ)に添っていないならば、神は味方になってくださらぬから、いつも御意を求める。自分の我(が)を張らずに、自分の過誤に気づいて、神に悔い改めさえしたら、神は味方になってくださる。悔い改め、心砕けて神の懐に入ってさえおれば、天の下に何ものも恐れることはない。

この真理は逆境の日に験(ため)され、苦難の日に発見して悟るものです。たとえ生活の根底から根こそぎにされても、神は愛と最善をなしたもう。かく信じておればかく成りゆきます。

たといその水は鳴り轟き、泡立つとも、
その騒ぎによって山は震い動くとも、われらは恐れない。〔セラ

詩篇46篇3節

原文に従うならば「鳴り轟けよ、泡立てよ、その水は。山々も震い動けよ、彼の高ぶり(ガアヴァー)によって」とも訳せます。この「ガアヴァー」というのは「高慢、傲(おご)り、高ぶり、誇り」の意です。

私は今度の戦争(注2)で、この句の言わんとすることがよくわかりました。エジプトのナセル大統領が、戦争の前に「イスラエルを地中海に叩き込んでやる」と豪語した高ぶりを見よ。同様に、ここではアッシリアの大王セナケリブが18万5千の兵を率いて、エルサレムに包囲作戦の陣を敷いて傲然たるようすであります。

エルサレムが危機の日、詩人は傲り高ぶる者に対して、心中で「もっと傲(たか)ぶれ、山々が震い動くほどに高ぶれ」と言ったのです。セナケリブの傲慢によって、山々よ震い動け、水よ鳴り轟けよ。しかし、どんなに人間セナケリブが、人間ナセルが高ぶっても、われらには生ける神がある。人口270万の小さいイスラエル国が四面楚歌(しめんそか)で、1億人以上のアラブ諸国から睨(にら)まれている。ソ連という大強国からも絶縁状を叩き付けられた。さあどうなるか。このような状況の時に、もしイザヤが生きていたら「ナセル大統領の高慢よ、全地球を震わしめよ。だが、われわれには神がある」と言い切ったでありましょう。

否、このことは戦争だけではない。私たちの周囲の問題においてもそうです。いろいろなトラブルがある。敵が誇らかにも勝つかに見える時に、なお「誇るものは誇れ。周囲は泡立ち震い動け。されど、わが主キリストよ、あなたは私と共にある! インマヌエル!(神われらと共にいます)」と、かく言い切れたらイザヤ級の一流の信仰者といえましょう。

(注2)今度の戦争

第三次中東戦争(六日戦争)。1967年6月に勃発。周囲のアラブ諸国がイスラエルの存続を脅かす行動に出たため、同国は航空戦によって制空権を握り、6日間でエジプト、シリア、ヨルダンなどに勝利を収めた。この戦争により、2000年ぶりにエルサレムがユダヤ人の手に帰った。

内なる川

一つの川がある。
その流れは神の都を喜ばせ、
いと高き者の聖なる住まいを喜ばせる。
神がその中におられるので、都はゆるがない。
神は朝明けに、これを助けられる。

詩篇46篇4~5節

一つの「川(ナハル)」があるというが、これは灼熱の夏にも水が涸(か)れることのない流れを指します。そして、この川から流れ出る支流、疎水は都に流れ込み、都を喜ばせるというのです。エルサレムは山の町でして、大河なんてありません。しかし、シロアムという池には絶えず水が流れ込んでいます。

山の上の都エルサレムは、水源を断たれるとどうしようもありません。水は生命を保つ根源です。そこでヒゼキヤ王は、アッシリアの攻撃に備えて、東側のケデロンの谷にあるギホンの泉から城内のシロアムの池へと地下水道を引きました(列王紀下20章20節)。533メートルにわたって、岩盤をくりぬくトンネルの大工事を施したのです。

イザヤ書8章に「ゆるやかに流れるシロアの水」という表現があります。洪水のごとく滔々(とうとう)と流れている川ではなく、細々と流れていますが、流水は尽きず、どんな日照りの日にも水は絶えることがありません。20万近い大軍に包囲されて、明日にも陥落しそうなエルサレム。だが神の生命の水は、神の憐れみの愛を表情するようにも、細々ながらも内からわき上がり、無限に脈々と続いている。それでこそ至高者(いとたかきもの)の聖なる幕屋を喜ばせ、そこに集う聖徒たちを喜ばせる。だから、静かに信じて待ってさえおれば救われる。

果たせるかな、朝になってイスラエルの人々が起き出てみると、アッシリア軍が主の使いによって、一夜にして全滅しているのを発見したのでした。

今次のイスラエル・アラブ戦争は「六日戦争」といわれて、世界史上に類例のない短期戦としてイスラエルが圧勝しました。神の御手がイスラエル軍に加勢せずして、どうしてこんな大勝をなすことができようか、とイスラエルの人たちも言っておりました。

聖書の平和観

もろもろの民は騒ぎ立ち、
もろもろの王国は揺れ動く。
神がその声を出されると、地は溶ける。
万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神はわれらのやぐらである。〔セラ

詩篇46篇6~7節

さあ、諸国民は騒ぎ立ちはじめました。イスラエル攻略に加わるべきか、否かと。現代でも、国連は次から次に総会を開いて、揺れ動いています。やがて、神様が御声を出して一喝されると、一声で地球は溶けるでしょう。星雲状化してしまうでしょう。

「万軍の主はわれらと共にある。ヤコブの神はわれらのためのやぐらである」、この名句がイザヤの信仰の真骨頂です。

原子爆弾や水爆を管理しているのは、五大国の米ソ英仏中ではありません。神ご自身です。神のお許しなくば、雀一羽でも天より地に墜(お)ちません。

やがて全地球が火だるまとなる時が来ても、神は確実に摂理を行ないたもう。その時こそ、われら幕屋の民が神より与えられた使命を果たすことを願います。神が今世紀、日本に原始福音運動を起こしたもうたゆえんは、われらが廃墟(はいきょ)の中に生ける神の福音を世界に伝え、神の使命を果たすためであります。私たちの責任の重く、かつ大なるを覚えます。

来たりて、主の御業を見よ、
主は驚くべきことを地に行なわれた。
主は地の涯までも、戦いをやめさせ、
弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

詩篇46篇8~9節

「主は驚くべきことを地に行なわれた」の「驚くべきこと」は意訳でして、「廃墟」とか「荒廃」というのが原義です。したがって「寂漠、静寂」という訳も出てきます。

唖(おし)のように黙りこくった戦慄すべき静けさの状況──地上が廃墟と化した戦場の風景。

小学校の教室で、子供たちが授業の始まるまでワイワイと騒いでいても、先生が来て、「オイ!」と一言発するだけで皆が静まり返ります。そのように神のメシア、救世主が来られると、全地の騒ぎも争乱も、たちまち静まってしまう。それだけではない、「寂滅」が展開するでしょう。

永久平和は、国連によっては実現しません。人間の手による「世界連邦」によって世界平和が実現するなどと思うなら、それは妄想にすぎません。平和は神によって来たる。

メシアのなきところに平和はありえない。ここに聖書の平和観があります。

全地をしろしめす神

「静まりて、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民の間であがめられ、
全地にあがめられる」
万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神は、われらのやぐらである。〔セラ

詩篇46篇10~11節

「静まりて、わたしこそ神であることを知れ」。主のなしたもう静寂は、地の涯までも停戦となす。アラブは今まで持っていた武器を分捕られて、もう再び戦争ができなくなれ。アラブだけでなく、世界の大国から武器を取り上げよ! 原水爆の恐ろしさにすくみ合う偽装平和でない真の大平和時代は、救世主(メシア)の出現によってのみ可能である。終わりの日に救い主キリストが現れる時、神の理想は成就するであろう。イスラエルも武器を捨てよ。

日本には強力な武器はありません。今後、原水爆戦になったらどうなるだろうと思う。強大な武力をもつ国々の前に、日本はどうあるべきか。まず大事なことは、この全宇宙を主宰する神と共に生きるということを、日本民族は始めるべきではないかと思います。

全地をしろしめす大王である神が私の神である、と激しく体験する信仰が、詩篇の作者たちに共通する感動です。この世界を超越した、しかし呼べばこたえるほどに近く臨在したもう神にユダヤの民が祈りに祈り抜いてきた結果が、2000年後に再びイスラエルを建国し、エルサレムを奪還し、シオンの栄光を輝かせた大勝利にほかなりません。

敵をも支配し、全地を支配している王としての神、こういう信仰をもっていないと、神が自分の人生の神であっても、歴史を支配する神様とはなりません。しかし、聖書の神は歴史を通して働かれる神であります。

(1967年)


本記事は、月刊誌『生命の光』832号 “Light of Life” に掲載されています。