聖書講話「運命を愛して」ヨハネ福音書14章25~28節

私たちは、つらい時や物事がうまくゆかない時、自分の運命を嘆きます。なぜ自分はこんなに不幸なのか、と運命を呪うこともあるでしょう。
けれども信仰の目をもっていると、たとえ不幸に見えることがあっても、人生を最善に導く存在があることを知ります。
今回も、イエス・キリストが弟子たちに語られた「最後の遺訓」の講話です。(編集部)

「これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである」

ヨハネ福音書14章25~28節

イエス・キリストは十字架にかかる前夜、弟子たちに「最後の遺訓」を語られました。その中で、「わたしは世を去っても、あなたがたを孤独にはしない。今後は、もっとそば近くにいて導くぞ」と語られました。

26節に、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教える」とあります。この「助け主」は、ギリシア語の原文では「παρακλητος パラクレートス」といって、「助けを求めて呼ぶと、そばにやって来る者」という意味です。法廷に引かれてゆくときに、弁護士を呼ぶと弁護してくれる、そのようなものです。そしてここを読むと、助け主とは、イエスの名によって遣わされる聖霊である、とあります。

すなわち、イエス・キリストは十字架にかかっていなくなるが、「わたしが去った後、『イエス様!』とわたしの名を呼べば、今度はパラクレートス(助け主)、聖霊としてやって来て、すべてのことを教え、またすべてのことを思い出させる」というのです。

こういう不思議な存在が導きだしたら、どんな困難な運命に対しても、私たちはニッコリ笑って受けて立つことができます。何が来ても、もう恐れない、驚かない。この内なる助け主、聖霊である助け主が自分を孤児にはしないと悟ること、これが弟子たちの最高の経験でした。またそれこそが、イエス・キリストが十字架を前にして、弟子たちに懇々(こんこん)と言い聞かせられた「最後の遺訓」の要点であります。

人生を導く存在

イエス・キリストが「わたしは父のもとに帰る。父はわたしよりも大きい方である」と言われていますが、これは、キリストが地上の生涯においては大いなる者に導かれていた、ということを言わんとするのです。自分の頭で考えて、「神があるから信ずる」というのは宗教ではない。大いなる者がその人を捕らえ、導きはじめる経験、これを宗教というのです。これがわからないで信仰をしようとすると、信仰はむしろ苦痛です。だがひとたび、この大いなる者が導きだす、という経験がわかりましたら、信仰は実に楽しい、うれしい、ありがたい出来事に変わってきます。

多くの人は不如意なことが起きると、「自分の運命はなんて悪いのだろう」と言って嘆きます。その時に、「そんなことはないよ」と励ましても、「いや、私は運命が悪い。もうだめです」と言って聴かない。そういう人は、自分の未来に対して、「恐ろしいことになった」と思うばかりで、運命を乗り切ることなんてできません。

「運命」を英語で fortune(フォーチュン)ともいいますが、これを Fortune と大文字で書きますと、「運命の神様」という意味になります。私たちは、何か大いなる者が自分の人生を導いているということを知らない間は、運命にひしがれます。そして、「どうしてこんなにつらいのだろうか」と自分の運命を嘆けば嘆くほど、運命はその人をいじめるように思われる。

これは、運命がある意図をもって、その人をいい方向へ引っ張ってゆこうとするのに、それに抵抗するから、運命はその人を残酷にあしらうのです。だから、運命観、自分の運命に対する見方が変わってこなければ、信仰はわかりません。

そのときに大事なことは、イエス・キリストが「父の御許しなくば、一羽の小雀でも決して地に落ちない」と言われたように、私たち一人ひとりも大いなる者に見守られている、という信仰をもつことです。

ですから、「神様、私の贖い主よ、私を導きつつある不思議なお方よ、もうすべてお任せします」と思うようになったら、すべてがうまくゆくようになる。そして何が起きても逆らわなくなります。「神様、あなたは最善をなさいます。あなたが私を愛しておられる以上、悪いことはなさいませんね」という気持ちでおりますと、最悪と見えることも最善に変わってゆきます。

運命と向き合う時

青年時代に読んだ本の中に、「人間の偉大さは、運命にひしがれてゆくことではない。運命を愛することである」とあったことを思い起こします。含蓄深い言葉ですがこれは、運命だからしかたない、とあきらめる運命論とは違います。

私自身、以前は「なんて自分の運命は悪いのだろう」と嘆いて、運命というものは自分でどうにもならないものだと思っていました。しかしある時から、「そうじゃない。私を最善に導こうとして、私の気がつかないことを教え、懇(ねんご)ろに導いているもの、これが運命だ」と思うようになりました。

たとえば小学校1年生の子供は、なかなか勉強のしかたがわかりません。親が「勉強しろ」とやかましく言う。そうすると子供は、「ぼくは勉強なんか嫌だ」と言いだす。親は、子供が勉強することによって将来幸福になることを知っている。しかし子供自身にはまだわかりません。それで親に抗(あらが)います。するといよいよ傷ついて、もう勉強なんかしたくなくなる。そういうことに似ています。それでも、運命はその人を引きずってゆく。

私は12歳の時に、イエス・キリストを知りました。そのころから、伝道者になることに小さな憧れはありました。けれども一方では、「それは嫌だ」という気持ちもありました。しかし人生の中で、小さな声がだんだん大きく私の内に囁(ささや)きかけて、ついに抗しきれず、38歳の時に、それまでしていた事業もやめて伝道者になりました。

何の後ろ盾もなく、初めは惨憺(さんたん)たるものでした。でも、こうして私の周囲で多くの人たちがキリストに導かれ、救われるのを見て、「ああ、私は幼い時から運命の神に導かれてきたんだ」と今にして思います。自分が大いなる者に降参した時に、今度は「神様、今日はどうしましょう。今年はどう生きましょう。あの人に対して何をいたしましょう」と、大いなる者に聴くようになりました。それからは、もう神と私との間に摩擦が起きなくなりました。それまでは、自分のしたいことばかり願っておりましたので、神と私との間にずいぶん摩擦がありました。けれども、神は愛であり、善意である、私にいちばん思いやりのある親切なお方である、ということがわかりはじめますと、一切のことを神に聴いて祈り、教えられるようになったのです。

困難を回避せずに

私たちは、キリストが十字架につくという恐ろしい運命を前にして、こういう話を弟子たちになさったということを知らなければなりません。私たちは、自分の運命を、自分の未来を愛するか、または恐れて回避するのか。多くの人は恐ろしい運命に直面すると、回避するか逃げ出します。しかし、宗教的な修養を積んでくると、自分のどんな運命をも愛するようになります。運命を愛した人間を、今度は運命が支え、困難に立ち向かい、尊い生涯を送らしめるのです。イエス・キリストの偉大さは、恐ろしい運命を前にして、十字架を回避せず、黙って殉じてゆかれたことにあると思います。

私たちの子供のころは、楠木正成(※注)、正行親子を忠義の手本として尊んできたものでした。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻(ひるがえ)し、大軍で京都に攻め上ってくるという時に、天皇の前で評定(ひょうじょう)がありました。その時に楠木正成は、正攻法では勝ち目がないとみて、天皇はいったん比叡山(ひえいざん)に行幸なさり、我々は戦わず敵を京に攻め込ませておいて、油断している間に奇襲するしかありません、と申し上げました。しかしある公家が、戦わないとは何という腰抜け侍か、と言いだし、とうとう正成の案は通りませんでした。本当ならば彼は敗ける戦いに出てゆかなくてもよいわけです。しかし、湊川の戦いに出かけてゆきました。

出陣の前、まだ11歳の正行に、「私は今から湊川に出かけてゆく。今度の戦いは敗けることはわかっている。私の亡き後、おまえは母親に孝行するだけでなく、もうひとたび楠木の軍を集めて、どこどこまでも後醍醐天皇をお守りしてくれ」と言い遺しました。

そして戦いの末、弟の正季(まさすえ)と共に「七たび生まれ変わっても、国のために戦おう」と語って自刃して果てました。楠木正成がなぜ後代まで偉人としてほめ称えられるかというと、敗け戦と決まっていたけれども、その運命から逃げず、運命を愛したからです。

(※注)楠木正成(くすのきまさしげ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を奉じ、幕府に抵抗。河内の千早城にてさまざまな戦術で幕府軍をかく乱し、倒幕に貢献した。その後に、足利尊氏(あしかがたかうじ)が起こした反乱軍を討つため出陣するも、摂津の湊川(みなとがわ)で敗戦、自害した。後代、子の正行(まさつら)と共に、忠臣の鑑(かがみ)とされる。

未来がほほえむ

イエス・キリストは、十字架にかかられる前にゲッセマネの園で「父よ、この苦き杯(さかずき)をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの思いではなく、御心のままになしてください」と祈られました。苦き杯とは、苦しい運命の象徴といわれます。イエスは、ご自分の杯がどんなに苦い十字架上の死であっても、ご自分の運命を愛し、神の御心におゆだねしました。自分の運命を、未来を信じて愛する者には未来がほほえんできます。しかしそれができないで、運命に敵意をもつような人には、運命も敵してきます。

これは恐ろしい真理です。どうか自分の運命を守る神に敵対しないことです。自分の運命を守る神は、その人に最善の道を歩かせようとしているのです。それを我(が)を張って、嫌だ嫌だと言うから傷つくのです。しかし、人生の土壇場になって翻然(ほんぜん)と悟って運命に従うならば、それからは、もう一切合財、運命がその人にほほえんで導きます。

それで、キリストはこのことを懇々と弟子たちに言われます、「今後、大いなる者がおまえたちを導くであろう。それが助け主である。それはいと優しき愛の聖霊であって、この聖なる霊はもう最善しかなさらない。わたしは十字架にかかって世を去るが、おまえたちを捨てて孤児とはしない。もう一度真理の御霊、聖霊としてやって来て、おまえたちの胸の中に宿るだろう。そのような不思議な経験におまえたちは入るだろう」。真理の御霊が一切合財助けてくださる、このような信仰を身につけなさることが大事であります。

十字架の前夜、イエスが祈られたゲッセマネの園

素晴らしい協力者

私は32歳の時、朝鮮で軍用機の材料になるアルミニウムの精錬工場の経営を任されていました。金属のことは何も知らなかったけれど、戦時中、国のために必要なことは何かと考え、この事業を思いついた。すると、不思議にその分野の専門家たちが現れて協力してくれました。そのような協力者がいなければ、一人ではとてもできませんでした。

キリストは、「わたしは去るけれども、わたしの名を呼ぶならば、パラクレートスがそばにやって来て、すべてを導く」と言われた。もし神様の仕事を忠実にしようという者がおるならば、真理の御霊は驚くべき協力を示してくれます。助け主としてそばにいて導き、すべてのことを教えてくださる。なんと私の協力者は素晴らしいだろうか、とキリストの御霊をほめ賛えずにはおれません。このような不思議なものが導いておるからこそ、奇跡が起きるのです。事業にしても、伝道するのについても、私がここまでやってこられたのは、内なる助け主に導かれたからです。

私たちの未来や現在をことごとく導く者、これが真理の御霊、聖霊です。この御霊を宿していたのがイエス・キリストです。しかも、キリストはご自分に宿っていた聖霊を私たちに与え、私たちのそばにあって助けるというのが、ヨハネ福音書の最高の教訓です。

私が、「主よ、私はつまらない人間ですけれども、あなたの協力をさせていただきます。今まで我を張りましたが、もう我を張りません」と言いはじめると、キリストは私のすることなすこと皆、祝福してくださる。「神様、もう十分です」と申しても、「いや、もっと取っておけ」と言わんばかりに祝福してくださいます。これが私の伝道です。このようなキリストの最後の遺訓を、今のクリスチャンはどうして知らないのだろうかと思います。

ですから、私は助け主、キリストに導かれる自分の運命を愛しております。自分の運命に抗ったりしません。昔は、こんなバチ当たりな自分は生まれなければよかったと思うこともありました。けれども、キリストが私の運命の主人公であって、私を導きつつあるということを知るようになったら、今はどのような状況であっても、「主よ、あなたは私の運命を導きたもうお方です。あなたは無限の知恵と力をもっておられますから、お従いします」と言うようになりました。

神の御霊に乗せられて

キリストは14章を通して、「わたしが今まで助けてきたけれども、今後は聖霊が助けるだろう。だから恐れるな。おまえたちが行なうすべての業は、父なる神の御霊が示したことだからである」と言われます。このことがわかりますと、私はどのように主の御心を、ご栄光を現そうかといつも思うようになります。そして、どんな困難があっても、神様がなさろうとするならやれる、と肯定的な声が私の胸の中にガンガン響いてきます。

神様に囁かれて、神様の御心の自己表現となる者、それがクリスチャンです。この内なる助け主に助けられてみて、ほんとうにキリストが今も生きておられて、ご自分を現しておられる、ということがわかります。

私たちが不思議な導き手である神の御霊と共に歩きだし、神の御霊に協力するようになると、知らず知らずのうちに神様の御心を行なうようになります。自転車の乗りはじめは苦心しますが、後からは目を瞑(つぶ)っていても自転車が走ってくれるように、神の御霊に乗ってゆくことが体得できたら、無意識のうちに一切が運んで、信仰が考え事でなくなります。

ここでキリストは、「わたしは平安をあなたがたに残す」と言って地上を去ろうとされている。けれども、今度はキリストが聖霊として私たちを導いてくださるから大平安です。考えることも案ずることも、何もありません。御霊がすべてを教えてくださるからです。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年12月号 “Light of Life” に掲載されています。