聖書講話「われは道なり、真理なり」ヨハネ福音書14章6~7節

聖書には、多くの真理が書かれているといいます。真理というと、とても難しいことのように感じられます。けれども、聖書が言っている真理とは、頭で考え出した理屈ではなく、実際に真理そのものである神に出会って知るものです。
今回の講話は、イエス・キリストの最後の遺訓を記したヨハネ福音書14章の言葉を通して、真理について語られています。(編集部)


イエスは彼(トマス)に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」

ヨハネ福音書14章6~7節

イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われました。これは有名な言葉です。しかし、言葉はわかっても真意が理解できません。「道とは何か」「真理とは何か」「命とは何か」と考えるだけでも、哲学書が何冊も書ける大変な題材です。

いつぞや東京に参りました時に、集会が終わると一人の青年が来て、
「質問があります。キリストは『わたしは真理である』と言っておられますが、真理は、信ずるというよりも、頭でよく考えて理解できてこそ真理です。手島先生は『ハートの信仰』とか『腹から信ぜよ』などと言われますが、やはり信仰には頭脳というか、理性が必要なのではないでしょうか」と言います。それで、「それはそうだ。しかし、頭で理解できるものだけが真理ではないよ」と答えたことでした。

真理とは何か

「真理」とはギリシア語で「αληθεια アレーセイア」といいますが、「真理」という言葉一つでもいろいろな意味合いがあります。たとえば科学上の真理でしたら、「水とはH2O 水素と酸素の化合物である」と定義することができます。それで、こういうことは頭で理解できるじゃないか、というのがその青年の主張です。多くの場合、科学的真理は公式で表すこともできるし、一つの命題として「○○は△△である」という言い方もできます。

しかし、科学上の真理に対して、宗教上の真理、また道徳上の真理というものもあります。「人間は互いに愛すべし」というのも、道徳上の一つの命題です。また宗教においても、哲学的に「神は愛である、真善美(しんぜんび)である」などと定義することができます。そして、「なるほどそうだ」といって承認し、それが真理だと思うかもしれません。

けれども、「水はH2Oである」ということは科学的に証明できても、「神は愛である」などということは、なかなか証明ができません。「神が愛だったら、どうして私はこんなに不幸なんでしょう」と言ってしまえば、それまでです。しかし、それを体験した人は、「そうだ、神は愛だ」と思うでしょう。そのように、必ずしも頭で理解できるものだけが真理ではありません。美術や音楽のように、ハートに訴えて「これはいい」というような真理もあります。そうすると、宗教的真理は科学的真理とは違っていてもいいわけです。

乾屎橛(かんしけつ)

宗教の真理というときに大事なことは、いくら真理や神についての説明を聞いても、その実体に出会わなければ救われない、ということです。
無門関(注1)という禅宗の本の中に、次のような問答があります。支那の雲門という名僧に、ある坊さんが「仏とは何ぞや」と問いました。これは、「神とは何ぞや」というのと同じような真理についての大問題ですが、それに対し雲門は「乾屎橛」と答えました。「乾屎橛」とは、一説には便所で糞をした時にお尻を拭く、乾いた木のヘラだといいます。昔は紙を使わず、棒切れでお尻を拭いたんですね。せっかく宗教上の大問題、「仏とは何か」ということを尋ねたのに、名僧ともあろう人が「糞ベラ」と答えた。どうしてこういうことを言うのか。ここに、宗教上の真理を考えるときの重大な問題があります。

多くの人は、「仏とは何ぞや」といえば、「仏様は立派なお方であって、慈悲深い、光り輝いた存在である」と教え込まれて、そう信じています。けれども、信じている人たちが、教えられたような仏に、実体に出会ったことがあるかというと、ほとんどの人が出会っていないようです。

また、クリスチャンは「神を信じている」と言います。では、「神とは何ですか」と聞くと、「神は愛です」と答えるでしょう。しかし聖書には、「神は光である」「神は永遠の生命である」「神は霊である」などと、いろいろな定義があります。それで多くの人は、聖書には真理がいっぱい詰まっていると思っています。そして、それらの真理を体系化して教理を作り、それを信じるのが信仰だと錯覚しています。「神は愛である、最高者である、全能である」などという定義は理性でわかるでしょう。しかし、その実体に触れるのとは別のことです。触れもしないで信じているならば、それは架空なことです。

(注1)無門関

中国南宋時代の禅僧・無門慧開(えかい)によって編纂された仏教書。釈迦をはじめ高僧らと弟子との問答が収められている。理屈では不可解なやり取りを通して、悟りに至らせる内容が多い。さらに無門がそれを批評した「評唱・頌(じゅ)」が付されている。

頭で作った神様

仏教では仏像を拝みますが、それは人間が心に描いた姿を彫刻に表したものですから、ほんとうに悟った人は仏像ではなく、そこに表現されている何かを拝もうとしています。クリスチャンには「仏教は偶像教である」と言う人があるが、それは大きな間違いです。そのような人に「あなたは『神とはかくかくのごときものである』という定義を真理だと思って信じているが、そのような神に出会ったのか?」と問うと、「会ったことはない、信ずるだけだ」と答えます。それならば架空ではないか。架空なものを信ぜよ、と聖書は言っているだろうか。聖書の神は在りて在る者である。実在の実在、天地が崩れても存在するようなお方である。頭で描いた観念の神を信ずることとは違います。

ドイツの神秘思想家エックハルト(注2)は、「人間の頭で考えられた神は、もはや神でない」と言いました。けれども、今のクリスチャンの多くが信じている神様は、知識の神様です。「神とは~のようなものである」といって素晴らしい形容詞を神様にいっぱい奉(たてまつ)り、それを信じているんです。それならば偶像と同じで、人間の頭が製造した神様です。

ほんとうに宗教がわかりだした者は、そんな頭で考えた観念は信じません。ですから、禅宗では「仏とは何ぞや」と言葉で定義を求めるような人には、わざと「乾屎橛」などと躓(つまず)かせるようなことを言う。そうして、そのような架空な観念を根本から揺さぶってやらなければ、その人は救われません。いつまでも一つの理屈や観念を信じているままです。

(注2)エックハルト(1260年頃~1328年頃)

中世ドイツの神学者、神秘思想家。人間が神について定義づけすることを否定し、神に合一することを重視した。当時の教会から異端とされたが、後の多くのキリスト教思想家に影響を与えた。

真実のキリストの姿、実在の神

科学上の真理があるように、キリスト教の真理があります。否「真理 アレーセイア」は「真実」といってもいい言葉です。普通の人は、神は燦然(さんぜん)として金ピカに輝いていると想像します。けれども、出会うものの真実は、想像とは違うかもしれないのです。

たとえばヨハネ福音書の続きの箇所で、弟子のピリポがイエスに「主よ、私たちに父なる神を示してください」と言った時、イエスは「わたしを見た者は、父なる神を見たのだ」と言われました。けれどもピリポは、「あなたはイエスという人間ではないか。私は神を見たい。神はかくのごとく素晴らしいもののはずだ。また、神の子キリストも栄光燦然たるものだ」と思っているので、イエスが人々から悪しざまに言われ、迫害され、十字架につけられそうな目に遭うのを見た時に、イエスの言われることを信じられませんでした。キリストだったらもっと強いはずだ、と思い込んでいたからです。

たしかに旧約聖書には、「油注がれた者(救世主・メシアであるキリストを指す)は神の栄光の中に現れて、われらを救いたもう」というような言葉があります。それで皆は、輝く栄光の中に現れるキリストのお姿を想像します。しかし、聖書は逆のことも書いております。たとえばキリストの預言といわれる、有名なイザヤ書53章の「苦難の僕(しもべ)」の姿です。

  彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
  われわれの慕うべき美しさもない。
  彼は侮られて人に捨てられ、
  悲しみの人で、病を知っていた。
  また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
  彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

イザヤ書53章2~3節

この預言のように人々から悪しざまに言われ、打たれ、苦しめられ、十字架につけられて黙って死んでゆくような者がキリストだというならば、だれも信じることができません。多くの人が、キリストは黄金燦然(さんぜん)と輝いているものだ、という観念に囚れているからです。だがそのような観念は、人間の頭が作ったもので、そんな観念は人を救いません。

聖書の神様は実在の実在であって、人間が否定しようが否定しまいが実在する神様です。

神の人モーセは、罪を犯し、エジプトの王パロを恐れて、ミデアンの野に逃れました。そこで羊を飼っていた時、ホレブの山に行き、燃える柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼びたもう神に出会いました。(出エジプト記3章)

私も戦後間もないころ、アメリカの進駐軍に追われる目に遭い、阿蘇の山奥に逃れたことがあります。おびえながら必死に神に助けを祈っていた時、突如としてキリストがありありと霊の御姿を現されましたので、ひれ伏しました。そこで神の御言葉を聴き、私は伝道を始めたのです。このようにして知った神様は、人間が頭で考えた神ではありません。実在に触れて知った神様です。だから救われるのです。

阿蘇・地獄温泉の湯煙(この上の方で手島郁郎は神と出会った)

生命そのものに触れるには

またイエスは、「わたしは命である」と言われました。ところが、これも「真理」と同様に難しい問題です。たとえば、草花には命があります。だが、草花の命はどこにあるかと思ってどれだけ手折(たお)って調べても、命はどこにもありません。たとえ草花をいろいろ分析して、その組成がわかったとしても、それは元素というか分子の塊であって、物質です。

そのように分析しても、草花の命そのものを取り出して見せることはできませんが、草花の美しさを嘆賞し、花に触れることを通して、その命に触れることはできます。草花に命が通っているからこそ、立派な花が咲くのです。

同様に、「キリストは永遠の生命である。普通の人間と違う生命をもっておられた」と言っても、それに触れることができない人は、「そんなことがあるものか。永遠の生命なんかない」と言います。いくら分析しても、草花の命を確かめられないのと同じです。

だが、キリストが「わたしを見た者は、父なる神を見たのである」と言われたように、父なる神の生命がイエスに流れてきているので、私たちはイエス・キリストを見ることを通して、永遠の生命、神の生命、神ご自身がどういうお方かを知ることができるのです。

それがわかる人は、「イエス・キリストは人間でありながらも、なんと神々しい、素晴らしい、力と愛と義に満ちたお方なのだろうか」と言って、涙が出てたまらないのです。イエスの中にある生命に触れるからです。それは言葉では説明できません。

西行法師(注3)は、伊勢の神宮にお参りした時に、確かにそこに存在する何かに触れて、
「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠いました。

しかし西洋の宣教師たちは、「日本の神道や仏教には神学がなく、神についての合理的説明をもたないからだめだ。もう少し理性的、神学的反省が必要だ」などと馬鹿なことを言います。それは信仰を、宗教を知らない人の言葉です。説明はどこまでも説明であって、実体ではありません、生命ではありません。

それでは、キリストが言われているのはどういうことか。説明を聞いて頭で理解することではなく、実体に出会うことです。生命そのものに出会うことです。だから、「わたしを見た者は、父なる神を見たのである」と言われたのです。

私たちは、神に関する定義や説明は知らなくてもいい。「神様!」と思ったらもう有り難くて、涙がこぼれる経験がある。そのように全人格で、体で感じてわかればいいのです。日本人には日本人の、神の触れ方があっていいのです。

(注3)西行(さいぎょう 1118〜1190年)

平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶、歌人。元は武士であったが出家して諸国を巡り歩き、数々の歌を残した。『新古今和歌集』などに収められている。宗教的な感性を通して詠んだ歌も多く、芭蕉など後世の俳人、歌人に大きな影響を与えた。

神に至る道

今のキリスト教は三位一体論(注4)などといって、論を信じています。私も、父なる神と子なるキリスト、聖霊の三位一体を信じております。しかし、論は信じていません。キリストを見ること、父なる神を見るかのごとくです。しかも、父なる神の霊がイエス・キリストという人間に宿っていた。そして、イエス・キリストを見るときに聖霊を見ているのです。

神は霊です。霊は生命ですから、どこにでも花咲くことができます。ですから、イエスという人間に、あますなく神の生命が花咲いているのを見て、人々は驚きました。また、このイエスに宿った聖霊が私たちにも与えられる時に、私たちは過去が見苦しい人間であっても、泥沼から蓮の花が咲くように、キリストに咲いたような花が咲くんです。

ですから、2000年前のイエス・キリストだけが、キリストではありません。私たちを通してもキリストは働かれます。私はそのことを毎日のように経験しています。こんなに罪深い者を通してでも、尊いことを現してくださいます。「ああ神様、あなたはなんともったいないお方でしょうか」と驚き、感謝するのです。

頭のいい人でしたら、神についてのたくさんの知識をもつことはできるでしょう。けれども、どれほど知識を得ても、神の御許に至る者はほとんどありません。クリスチャンといっても、この世にありながら、神の国さながらに生きている人は少ないです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」、すなわち、キリストが道であって、キリストによって私たちも父なる神の御許に至ることができるのです。これは知識を超えた経験です。

私たちは神の御許に至ることが大事です。神の中に生き、神と共に歩くことが宗教の目的なのであって、目的を達しないならば何にもなりません。それでキリストは、「わたしは道である、わたしによってだれでも神の御許に行くことができる。さあ、行こうじゃないか」と言われるのです。

もしある人が、「私は有り難くてたまりません。宗教の知識も、学問も何もないような者が、どうしてこんなにうれしいのでしょうか」と言うなら、それは神の実在に触れたからです。ですから、信仰について書かれたいろんな本を読むより、もっと大事なことは、神そのものに直参(じきさん)し、神そのものにぶつかる経験なのです。

(注4)三位一体論(さんみいったいろん)

神とキリストと聖霊の三者はそれぞれが別々に位格をもっているが、同時に一つの神である、という教理。新約聖書には明言されていない。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年10月号 “Light of Life” に掲載されています。

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