聖書講話「内なる声に導かれる」ヨハネ福音書14章6~12節

今まで経験しなかった出来事に遭い、自分ではどうしたらいいかわからない。そういうとき、何に頼り、何に教えられたらいいのか。
イエス・キリストは世を去る前に、「わたしは死んでもあなたがたの中にいる。そして、霊となってあなたがたを助ける」と言われました。
本講話では、キリストと共に歩き、キリストに導かれる信仰生活について語られています。(編集部)

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」

ヨハネ福音書14章6~9節

人間イエスを通して

イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と十二弟子の一人のトマスに言われました。「わたしによる」の「~による」は、ギリシア語の原文では「δια ディア(~を通って)」という語で、「わたしを経由しないでは、通らないでは、父のみもとには行けない」という意味です。そして「わたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう」と言われました。
それに対して、弟子のピリポが「主よ、私たちに父を示してください」と言いましたが、イエスは彼に「わたしを見た者は、父を見たのである」と答えられました。これは大事な言葉です。

神は霊です。霊というのは肉眼では見えません。ですから、霊が見える状態になってくれなければ、私たちにはわかりようがありません。たとえば、「私の命」といっても目には見えません。しかし私が死ぬと、五体はあっても命のない体では、思ったり考えたりすることができません。そのように、命は目に見えないけれども、私の体に宿って表現されているから、人にもわかるし、自分でも自分を知ることができます。草花は花を咲かせることによって、その命を表現しています。同様に、イエス・キリストを見れば、父なる神の霊がそこに表現されていることがわかる。ここに、キリスト教信仰の特殊性があります。

「イエス」とは、当時よくあった名前です。だが、このイエスは「キリスト」と呼ばれました。「キリスト」とは、ギリシア語で「油注がれた者」(※注)という意味で、ヘブライ語では「メシア」といいます。そこには、「神の霊を注がれた者、神に聖別された者」という意味が込められています。このイエスは人間であるけれども、人間イエスの中には神の霊が注がれている。それでイエスは、「わたしを見た者は、父なる神を見たのである」と言われたのです。これが大事です。わたしの胸の中に咲いている花は、神がこの体を借りてご自分を表現しているのだ、それがわからないのか、と言おうとされるのです。

(※注)油注がれた者

旧約時代のイスラエルでは、大祭司や王の頭に油を注いで叙任した。その際の油は「神の霊」の象徴であって、「油注がれた者」は、神に特別に選ばれた者とされた。後に民族や世を救う者という意味をもつようになる。

神の自己表現となるまでに

ですから、もしキリストに注がれた霊を、神の生命を、私たちが受けるならば、私たちも神の子となるのです。イエス・キリストだけが神の子なのではありません。

今のキリスト教は、イエス・キリストだけを高く崇めます。そして、自分たちは別であると思いやすい。けれどもキリストは、ただご自分が崇められるために地上に来られたのではありません。「(わたしが地上に来たのは)多くの人の贖いとして自分の生命を与えるためである」と言われた。その生命とは、動物的な命ではありません。霊的生命のことです。この霊的な生命が私たちの胸の中にたぎりだしたら、私たちに不思議な生涯が始まります。キリストに注がれたと同じ神の霊を受けたならば、私たちも神の子です。ですから私たちは、この卑しい肉の体を通してでも神を表現しなければなりません。

10年ほど前、「私は神の自己表現です」という言葉を机の前に貼って、いつもそれを見ておりました。「私は神の微笑(ほほえみ)をほほえむ人間でなければならないのに、どうしてこんなに暗い顔をしたり緊張したり、神がないかのように、しゃちほこばったりするのだろう。これではいけない。私はやせても枯れても、神の栄光を現すために生きている人間だ。もし、私を通して神のご栄光が現れないなら災いだ」と自分に言い聞かせたものです。そして、「神様、どうぞ今日もあなたの微笑をもってほほえみ、そして、創造的な歩みをさせてください」というのが祈りでした。

私たち、神に贖われたお互いが、兄弟姉妹として愛し合い、尊び合うのは、神様がそれぞれに聖霊をお注ぎになったからです。外側は卑しいかもしれない。また、過去は汚れているかもしれない。しかし、そのような醜い過去をも贖いたもう神の生命の尊さ。それをお互いの中に見て、尊び合い、愛し合うのです。それが贖われた者同士の道です。

オリーブの若枝

わたしは神の中に、神はわたしの中に

「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」

ヨハネ福音書14章10~12節

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」は、原文では「わたしに信ぜよ、わたしが父の中におり、父がわたしの中にあることを」です。それは、「人間イエスを信ぜよ」と言っておられるのではない。イエスも私たちも、人間であることには変わりがありません。しかしこの人間イエスは、父なる神の懐におられた。神様もまた、イエスの中にいてくださる。イエスと父なる神の霊とが一つに融合している。そのような普通の人間の我ではない我を信じてほしい、という意味です。神と人とが一つになっている。これは宗教の奥義です。

「もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」とありますが、「わざ」というのは、キリストがなさっている奇跡的な業のことです。嵐をも鎮め、何もない荒野で5000人に食事をさせ、死人をも蘇(よみがえ)らせるという、普通の人間にはできないような不思議な業をキリストがなさるのを見たのなら、この人は人間だろうか、神だろうかと考えてみてほしい、と言われるのです。

信仰は人生において実験せよ

さらに大切なことがあります。12節でキリストが「よくよくあなたがたに言う。わたしを信じる者は、またわたしがなしているわざをなすであろう」と言われていますが、この「信じる」は、原文では「~の中に信じ込む」で、表面的にではなくキリストの胸の中に潜り込むように信じることです。そのようにキリストに信じ込んでいる者は、キリストがなしたもうような奇跡的な業をなすことができる、というのです。

それどころかキリストは、「あなたがたは(わたしがしたわざ)より大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」と言われます。すなわち、ご自分は肉体を脱いで父なる神のおられるところに帰ってゆく。そこから御霊となっておまえたちを助けるから、エライことが起こるよ、と弟子たちに約束なさいました。これこそ聖書の信仰の絶頂です。この信仰を皆さんが身につけられることが必要です。

使徒パウロは、「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって歩こうではないか」(ガラテヤ書5章25節 私訳)と言っております。神の御霊において歩くというのは、御霊において生活する、行動するということです。実際に行動してみなければ、御霊において生きているということはわからない。信仰とは、神学の理論や教理の本を読むことではありません。キリストに導かれるということを、人生において実験してみることです。そのとき、「この人は、ほんとうにキリストを信じている人だ」ということが証明できるのです。このことが身についたら、信仰生活は楽しくてたまりません。

神に導かれる生活

先日、アメリカで神癒(しんゆ)について研究している村山靖紀君が手紙を下さいました。私は、出発なさる時に、くれぐれもこの人に言って聞かせました、

「君は医者であるし、インテリだ。だから自分の頭に頼って、頭で考える癖がある。しかし、人間の頭で考えられる範囲というのは狭い。全然知らない世界に行って、頭でどれだけ考えたってどうなるだろう。それよりも『神様、どうぞ導いてください。神様、今日はどうしたらいいんでしょうか』といつも祈って、祈りによって導かれる生活、神の霊に導かれる霊導の生活をしなさい。神の霊は必ずあなたを不思議に導くだろう」と。

彼に許されたアメリカの滞在期間は40日ほど。もう期限も切れそうで、退去命令が来るかもしれない。けれども、彼はなおアメリカに留まって学びたいと願っている。アメリカは滞在資格について、非常にやかましい国です。お金も、もう尽き果てた。そんな中にあっても、村山君はたじろぎませんでした。「神様、あなたが私をこの国に連れてこられたのだから、きっとお導きくださいますね」と祈ったそうです。

祈っていたら、私から聞いていた信仰の篤い、ある医師のことを思い出し、「そこに行け」という声が聞こえた。でも、電話帳にも名前は載っていない。その町に着くと、何の連絡もしなかったのに、なんと向こうから手を振って彼を迎えてくれた。そして、「この人を医者としては雇えないが、信仰は実に素晴らしい。よって、私の施設で宗教的指導者として迎えることとした。一切の費用はここで面倒をみるから、どうぞ滞在期間を延ばしてほしい」と地元の政府機関に一筆書いてくださった。審査の結果、「今年のクリスマスを過ぎるまで滞在してよろしい。なお更新したいならば、延ばしてあげましょう」と言われたというんです。こんなとき、信仰がなかったらビクビクします。しかし、神の御手が自分を導きつつあることを信じ、体験しだしたら、もう動ずることがありません。

キリストは言われました、「わたしが父におり、父はわたしにいたもう。だからわたしはこんな不思議なことをするのだ。また、このようなわたしを信じるならば、同様にあなたがたも大いなることをするだろう」と。多くの人はこういうことを信じません。しかし、神様を信じなければ、こんな難しい状況は越えられないと思うようなとき、「神様、お願いします。もう私にはどうにもなりません」と言って、今までの自分が崩れてしまうと、今度は神なる我が現れて、神様がじきじきに自分の胸の中でお導きになる。そうしますと、それまでとは違った不思議な境涯が開けてきます。

わが内に働きたもうキリスト

イエス・キリストは、地上に生きておられた伝道の生涯、ほんとうにご苦労ばかりでした。しかし、後に続いたペテロやパウロは、実に偉大なる伝道の成果を収めました。大いなる業をなしました。キリストが遠くに在ると思っている間は駄目です。このキリストが私たちの内に働きたもうときに、大いなる業をなすことができます。

私たちはただ自分の現状を見るだけならば未来を信ずることができません。自分の現在、何もよいことが起きそうにない。しかし、私たちの魂は神の力と共に働き、神の力が何かをしてくださる、と思うと大きな希望があります。見ゆるところどんなにみじめであっても、「神様、あなたの霊が働くのですから、成らないことがあるものですか」と信仰の心をわかすことが大事です。キリストの霊がどんなに大きく働くかを信じることで、信仰の質が違ってきます。神の霊が働くならば、私たちはどんな困難をも乗り越えることができます。しかもその神は、遠くに在る神ではありません。私たちと共に歩きたもう神様です。

私は、神を外に拝んでいる間は力がありませんでした。しかし、神が私の内に働き、内に囁き、内から励まし、慰め、導きたもうお方であると知って、神をわが内に拝する信仰が確立した時に、私の生涯は変わりはじめました。卑怯未練な人間が、大胆に生きることを覚えました。この信仰の転換は、お互いぜひともしなければなりません。そうすると、どのような窮地に陥りましても、「神様、このような状況になりましたけれども、どうぞお導きください」といって神の導きを仰ぐことができます。

キリストは、「わたしは道であり、真理(まこと)であり、生命である」と言われました。人生の道なき道も神ご自身が一緒に歩いてくださるというならば、これこそ道ではないか。ここに祈りがあります。「主よ、この困難な人生の谷間をどうやって過ぎ越せばいいかわかりません。しかし、一緒に歩いてください」と事ごとに祈りますと、次から次に導かれます。

このようなキリスト、私たちの内側から働きかけてくださる神の霊がおられます。どうぞ、私たちはこのキリストの霊を、日々胸に迎えとうございます。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年7月号 “Light of Life” に掲載されています。