白熱した心で生きる 第1回

 今日からヨハネ伝12章を学んでまいります。この箇所には、イエスが十字架にかかられる過越の祭の6日前に、べタニヤに行かれたことが書かれています。ベタニヤは、エルサレムのすぐ近くにある小さな村です。その村のある家でイエスのために夕食が用意されたが、マルコ伝を読むと、そこは、らい病人シモンの家であった、と書いてあります。すなわち、らい病であったシモンはイエス・キリストに触れて癒やされた感謝のゆえに、夕食の準備をしてイエスを迎えたのでしょう。また、そこに同席していたラザロは、マルタとマリヤ姉妹の兄弟ですが、かつて、死んで4日も墓の中にいたのに、イエスによって生き返った者です。

 よく「私は宗教を信じる」と言いますが、宗教にもいろいろあります。イエスの宗教を信じるということは、死人は蘇り、らい病もたちまち清められるような力が宗教にある、と信じることです。それについて、何が大事なのかを学んでまいります。

イエスの油注ぎ*

 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」
 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかして(原文は「持ち出して」)いたからであった。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい(放っておきなさい)。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」

(ヨハネ伝12章3~8節)

 マルタの妹マリヤは、イエスのおそばに近づきました。そして高価で純粋な、ヒマラヤ産ともいわれるナルドの香油を持ってきて、イエスの足に塗りました。今(1964年当時)の価にすれば数十万円もするようなものを、惜しげもなく捧げました。頭に塗るべきものを足に塗りました。

イエスの足に香油を塗るマリヤ
(プッサン画)

 そこに、後にイエスを裏切ったユダがおり、「なんという浪費をするのだろう、300デナリに売れるのに」と言ってマリヤをとがめた。1デナリは当時、労働者の1日分の賃金でした。300デナリですから、1年分の賃金に価します。

 イエスは、「マリヤがするのを止めるな」と言われました。イエスがやがて死なれるということを、マリヤだけがいち早く感じていました。それが現実となる前に葬りの用意をしたのです。信仰とは、このように目ざとく先手を打つようなことです。

 これは、イエス・キリストを白熱するほど慕うような愛、信ずる心があったからです。愛は打算しません。300デナリという、1年分の賃金に価するものをイエスに捧げました。イエスはこれを殊のほかお喜びになりました。

 イエスはキリストと呼ばれました。「キリスト」とはヘブライ語の「マシアハ(メシア)」で、「油注がれた者」という意味です。だがそれまで、イエスは油を注がれたことはありませんでした。しかし、名もない田舎の女マリヤに油注がれて、名実共に「油注がれた者」となりました。また、それは十字架にかかって死のうとされていたイエスの、葬りの用意ともなりました。

* 油注ぎ

 旧約聖書の時代に行なわれた、祭司や王などを任命する時に油を頭に注ぐ儀式。「油注がれた者」とは、初めは理想的な統治者を意味していたが、後に「救世主(メシア)」を主に指すようになった。

熱い信仰の場

 愛というのは、なんと聡明なものでしょう。マリヤは、キリストへの感謝でいっぱいでした。キリストから信仰を学んだだけでない、愛(いと)しい弟ラザロが死んだけれども、生き返らせてくださった。それを思うと感謝でたまりませんでした。実にイエス・キリストが、またマルタ、マリヤ、ラザロが生きていた世界は、冷えきった教条的な信仰ではなく、生命が燃え上がるような白熱した信仰の場でした。そういうところに奇跡が起きるのです。私たちはもっと心を熱く燃やされて生きたい。そうでなければ、奇跡は起きない、また未来を予感するということはないのです。

 物質面、現象面に対しても、人間の心の力がいかに変化を与えるか。これは人間の心の偉大さです。人間の心の力を発揮すると、奇跡を惹(ひ)き起こす力にもなるということです。奇跡を崇拝するのではない。人間が神から与えられた信仰は、「信じる者には、すべてのことができる」ということなのです。キリストの宗教は、そのようなものでした。私たちはそういう力強い宗教を求めているのです。

 ところが、イスカリオテのユダの冷たい心には、そのような白熱した感情がありませんから、すぐ打算をします。それを売ったら300人分の日当にもなる、貧しい者に与えたら慈善事業になるからいいじゃないか、などと思う。しかし、イエスの宗教はそんなものではありませんでした。

(1964年)