聖書講話「白熱した心で生きる」ヨハネ福音書12章3~11節

今日からヨハネ福音書12章を学んでまいります。この箇所には、イエスが十字架にかかられる過越の祭の6日前に、べタニヤに行かれたことが書かれています。ベタニヤは、エルサレムのすぐ近くにある小さな村です。その村のある家でイエスのために夕食が用意されたが、マルコ伝を読むと、そこは、らい病人シモンの家であった、と書いてあります。すなわち、らい病であったシモンはイエス・キリストに触れて癒やされた感謝のゆえに、夕食の準備をしてイエスを迎えたのでしょう。また、そこに同席していたラザロは、マルタとマリヤ姉妹の兄弟ですが、かつて、死んで4日も墓の中にいたのに、イエスによって生き返った者です。

よく「私は宗教を信じる」と言いますが、宗教にもいろいろあります。イエスの宗教を信じるということは、死人は蘇り、らい病もたちまち清められるような力が宗教にある、と信じることです。それについて、何が大事なのかを学んでまいります。

イエスの油注ぎ(注1)

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかして(原文は「持ち出して」)いたからであった。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい(放っておきなさい)。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」

(ヨハネ福音書12章3~8節)

マルタの妹マリヤは、イエスのおそばに近づきました。そして高価で純粋な、ヒマラヤ産ともいわれるナルドの香油を持ってきて、イエスの足に塗りました。今(1964年当時)の価にすれば数十万円もするようなものを、惜しげもなく捧げました。頭に塗るべきものを足に塗りました。

イエスの足に香油を塗るマリヤ
(プッサン画)

そこに、後にイエスを裏切ったユダがおり、「なんという浪費をするのだろう、300デナリに売れるのに」と言ってマリヤをとがめた。1デナリは当時、労働者の1日分の賃金でした。300デナリですから、1年分の賃金に価します。

イエスは、「マリヤがするのを止めるな」と言われました。イエスがやがて死なれるということを、マリヤだけがいち早く感じていました。それが現実となる前に葬りの用意をしたのです。信仰とは、このように目ざとく先手を打つようなことです。

これは、イエス・キリストを白熱するほど慕うような愛、信ずる心があったからです。愛は打算しません。300デナリという、1年分の賃金に価するものをイエスに捧げました。イエスはこれを殊のほかお喜びになりました。

イエスはキリストと呼ばれました。「キリスト」とはヘブライ語の「マシアハ(メシア)」で、「油注がれた者」という意味です。だがそれまで、イエスは油を注がれたことはありませんでした。しかし、名もない田舎の女マリヤに油注がれて、名実共に「油注がれた者」となりました。また、それは十字架にかかって死のうとされていたイエスの、葬りの用意ともなりました。

(注1)油注ぎ

旧約聖書の時代に行なわれた、祭司や王などを任命する時に油を頭に注ぐ儀式。「油注がれた者」とは、初めは理想的な統治者を意味していたが、後に「救世主(メシア)」を主に指すようになった。

熱い信仰の場

愛というのは、なんと聡明なものでしょう。マリヤは、キリストへの感謝でいっぱいでした。キリストから信仰を学んだだけでない、愛(いと)しい弟ラザロが死んだけれども、生き返らせてくださった。それを思うと感謝でたまりませんでした。実にイエス・キリストが、またマルタ、マリヤ、ラザロが生きていた世界は、冷えきった教条的な信仰ではなく、生命が燃え上がるような白熱した信仰の場でした。そういうところに奇跡が起きるのです。私たちはもっと心を熱く燃やされて生きたい。そうでなければ、奇跡は起きない、また未来を予感するということはないのです。

物質面、現象面に対しても、人間の心の力がいかに変化を与えるか。これは人間の心の偉大さです。人間の心の力を発揮すると、奇跡を惹(ひ)き起こす力にもなるということです。奇跡を崇拝するのではない。人間が神から与えられた信仰は、「信じる者には、すべてのことができる」ということなのです。キリストの宗教は、そのようなものでした。私たちはそういう力強い宗教を求めているのです。

ところが、イスカリオテのユダの冷たい心には、そのような白熱した感情がありませんから、すぐ打算をします。それを売ったら300人分の日当にもなる、貧しい者に与えたら慈善事業になるからいいじゃないか、などと思う。しかし、イエスの宗教はそんなものではありませんでした。

力あるキリストの宗教

大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。

(ヨハネ福音書12章9~11節)

どうして当時の宗教家たち、しかも最高の宗教家である祭司長が、イエスを、またラザロをも殺そうとしたのでしょうか。らい病であったが、イエス・キリストに触れて癒やされたシモン。また、死んで4日も墓の中にいたが、イエスによって生き返ったラザロ。このような不思議な力をもつ宗教が発生したということは、当時の宗教家たちにとっては脅威であったということです。彼らは、自分たちの信じている宗教に対する考え方が、イエス・キリストの力ある宗教によって台なしになると思ったのです。

事実、続々と群衆がイエス・キリストに従いつつありました。それで、ラザロのような生き証人がいたら困ると、イエスもろともラザロまで殺そうとします。

ここに、イエスが十字架にかからねばならぬ理由がありました。十字架にかかってもなお、イエスが証ししようとされたのは、死人をも蘇らせる、力ある宗教でした。

神の力を引き出す信仰

マルコ福音書9章には、イエスがてんかんに苦しむ子供を癒やされる場面があります。父親は、「もしできうるならば、救ってください」とイエスに言いましたが、イエスは「もしできれば、と言うのか。信ずる者にはどんなことでもできる」と言われました。父親がすぐ叫んで、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言いましたら、たちまち不思議な救いがなされました。

すなわち、イエスにおいて「信じる」ということは、神の霊的な力に触れ、火花を散らすような経験であり、神の力によって現在の行き詰まった状況が転換することを意味していたのです。これを、どんなときにも忘れてはなりません。

使徒パウロは、「私は福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」とか、「神の国は言葉ではなく、力である」などと言いました。そのように、信じるという心の作用は、神の恵みの力を引き出すことを内容としています。すなわち、「信じる者にはどんなことでもできる」というのが、イエスの宗教です。そして、そのような信仰が人々の心に目覚めさえしたならば、たちまちキリストは不思議な御業をなさいました。

そのような信仰をもつならば、「日々に奇跡を見させてください」という祈りとなります。「奇跡を求める信仰はよくない」と言う人もいるかもしれないけれど、人の批評はどうでもよい。私は聖書を読むとき、そのような思いが湧いてきます。そして、そのような力強い宗教を人々は求めているのではなかろうかと思うんです。

人々の求めに応えるならば

日本にこれだけ多くの人間がいるのに、今日、どうしてキリスト教は少数の人の心しかつかむことができないのか。「いや、本当の宗教を信じる者は少数なのだ」などと言っていてよいのか。イエス・キリストの時代には、何千人もの人たちがキリストの話を聞こうと従いました。

私たちはここで、静かに考え直さなければならないと思います。宗教に力がないというよりも、現在、多くの人々が欲している要求に応えることをしないために、宗教が人々の心をつかまないのではないか。また今、キリスト教が伝えようとしているものと、多くの人が要求し、求めているものとの間に、どうも違いがある。人々が心の深いところで求めているものを与えるならば、喜んで多くの人が宗教に生きるようになるでしょう。

キリストは、ご自分が地上に来たのは、人々に生命を与え、豊かな生命を与えるためである、と言われた。けれども今、キリスト教は生命のひとかけらも与えてはくれません。

私たちは同じ人間ですから、心の深いところで共通に求めているものがある。キリストは「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」と言われた。また、人々がやって来ると、すぐ「汝、何を求めるか。何を願うか」と問われ、その人の願いを確かめられると、「願いのごとく、汝に成れ」と言われるのが常でした。自分の願っていることが成ると信じるならば、そのとおりに成るということでした。イエス・キリストの宗教は、皆を生かし、皆の求めているものを達成せしめてやまないものでした。

信仰は、神についての説明を信じることではありません。書斎の中で本を読んで、地球と太陽の関係を頭で考えるのと、実際に太陽の恵みを受けて生かされているということとは違います。そのように、私たちが日々神の大きな力、天の光に照らされて生きることが信仰なのです。

教条の奴隷となるな

今や、時代がずいぶん変わっていっております。それと同じように、宗教に対する人間の受け入れ方も変わってこなければだめです。いちばん悪いことは、「我々の教派では、こうこうなんです。キリスト教の伝統的考え方はこうなんです」と言って、結論を押しつけてくることです。しかし、そのようなものを信じても、生きる力が湧いてくるものではありません。

たとえばマルクス主義者は、教条主義的に共通の結論を信じています。「世界は資本主義の世の中が行き詰まって、社会主義、共産主義の社会に変わってゆくと決まっている」と信じて、それ以上、考えたり、追求しようとしたりしません。昔の人が考えてくれたことの結論をただ信じている。信仰もそのように教条を信じていては、私たちに救いはありません。

だが、1つの教条を信じることが信仰と思われていた時代、イエス・キリストが現れ、神の国は言葉ではなく、奇跡を惹(ひ)き起こす力であることを示された時に、人々は驚きました。そんなことがあるだろうかと思いました。しかし、らい病人シモンが癒やされ、死んだはずのラザロまでが蘇ったのを見て、信ぜざるをえなかった。それまで、伝統的に伝えられた教条を信じることを信仰と思っていた人々の考え方が、すっかりひっくり返ってしまいました。そのように、時代が変わったら宗教も変わるのです。

今、宗教が力を、また魅力を失っているのは、教条主義ともいうべき1つの教理を信じているからです。それが絶対であって、批判なしにそのまま鵜呑みに信じる。それを信仰というのならば、力などは伴いません。どうして私は、「日々に奇跡を見させたまえ」という祈りを祈るのか。これは、「信じる者には、すべてのことができる」という信仰から来るのです。信仰とは、神の力を引き出し、神の力の作用を受けて現状が変化することである、とイエス・キリストはお考えでありました。また、それを体験しておられました。

もし宗教の力で、ガラッと状況が変わるならば、私たちには希望があります。しかし、ただ自分とは関係のない教条を信じるということが宗教であるなら、人間は1つの主義の奴隷となってしまいます。私たち人間は、動物の域からここまで進化してきました。もっともっと未来に向かって進化、進歩せねばならない。現状では我慢できない、もっと広く大きい、輝かしい状況に入りたい。こういう向上一路の願いがあるなら、ここから本当の聖書の宗教は始まってゆきます。

大宇宙が願いをかなえる

今日は、新年2回目の集会ですから、この1年のために私は申し上げたい。果たして、あなたは願(がん)をかけて生きているか。神はあなたに志を立てさせ、神の霊的な力を注ぎ込んで、変化させたいと願っておられる。私たちにとって大事なことは、何のために生きるか、何を目標に生きるか、そして目標が定まったなら、白熱的にそれを追求してゆくことです。

キリストは、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」と言われた。このことは、人間に求めるという心がありさえすれば、大宇宙にはそれを完成させようとする作用がある、ということを意味します。すなわち大宇宙は有機的組織というか、連動装置であるということです。全自動のカメラのように、シャッターボタンを押しさえするならば、ピントや光の具合などを調整する連動装置が働いて、誰にでもきれいな写真が撮れる。自分に「写したい」という願いさえあれば、ボタンを押すだけでいい。

同様に、人間の心に1つの願いがあると、宇宙というものは連動装置になっていて、その願いがかなうように働くというのです。キリストの信じておられた世界は、共に感応し合う世界であって、人間に何か願いがあるところ、それを満たすものを神はいっぱい用意しておられるというのです。人間が求めないうちは、進歩することも、向上することもありません。

イエス・キリストの宗教は、神の愛に信じて大きく願うことです。大願にかけて生きることです。イエス・キリストの一生は、願生(がんしょう)の身でした。大きな使命をもってお生きになりました。

偉大な目的に向かって

ナポレオンがフランスの皇帝となり1年ほど経った時、ロシアとオーストリアの連合軍が攻めてきました。ある戦場で、湖の厚い氷の上を敵軍が敗走しようとした時、彼は、「氷を割ってあの敵兵を全滅させよ」と命令しました。ところが砲弾を普通に撃ったら、氷の上を滑っていって割れはしない。それで、「大砲を上に向けて撃て!」と命じた。それで大砲を上に向けて撃ったら、真上から落ちてきた弾で氷が割れ、敵は溺れて全滅した、という逸話があります。

アルプスを越えるナポレオン
(デヴィッド画)

このような知恵は、「戦いに勝つんだ」というはっきりした目標、激しい意欲から生まれるんです。当たり前に大砲を撃ったって、ぶ厚い氷を割るなんてできません。しかし、できない、と言えばそれまでです。天に向けて撃つなら、引力の力で真っ逆さまに落ちて氷を割ってくれる。

人間が白熱的になって、物事にぶち当たると、どこからか不思議な知恵が与えられるものです。かくしてナポレオンは、「私の辞書には不可能という文字はない」と言いました。

ナポレオンは、「古代ローマ帝国の復活」という大きな幻をもっていた。そうして、その幻のゆえに、もうわが身ありとも思わなかった。それでたびたび危険な目に遭いましたが、彼はそれを恐れませんでした。ここにナポレオンが、宗教に似た1つの信念をもっていたことがわかります。このように、激しい求め心と、はっきりした目的があるところ、それに伴う知恵も出てくるのです。

白熱した願いが奇跡を起こす

私は毎年、正月になると、「願(がん)に生きる」ということの大切さを申し上げます。それがなければ、宗教はその人のものにならないからです。信仰の旨しさ、また神の力というものは、願をかけて生きている人でなければわからないのです。もし大きな願をかけて、「このことをなさせたまえ」と言って生きているなら、少しくらいのケガや不利益は覚悟の上です。やがて宇宙の連動装置はガーッと働いて、その人の願いを成就するのです。

しかし、「私は願をかけ、それについての設計図も描いたけれど、どうしても動きださない」と言う人がいます。それは、模型の機関車でも電池が切れたら動かないように、その人に信仰のエネルギーが足りないのです。ちょっとでもその願いが動きだすために必要なのは、人間の熱意というか、熱願です。それが物事を動かし、自分の置かれた状況を展開させる力をもつのです。そのことがわかれば、ますます神の生命を求め、祈ろうという気持ちになるでしょう。

「幕屋の人々の間では、どうしてあのような不思議な奇跡が次々に起こるのですか」とよく聞かれるが、それは熱っぽい信仰があるかどうかの問題です。そのような信仰のあるところ、奇跡も伴います。熱意、それは私たちの大きな資本です。熱情をもって生きるということほど幸福なことはない。白熱した信仰、白熱した感情で生きるときに我を忘れます。恐ろしさも忘れます。また利害に惑わされたりしません。大きな願いが燃えているからです。

私たちに白熱する意志というものがあったら、驚くべき業ができる。後でそれを人は奇跡と言います。大事なことは、熱い信心をもって何かをするということです。このことをやりだしたら、一人ひとりが自分の尊さを知ります。私たちはお互い何もない人間です。しかし、なぜこんなに不思議なことが日々起こるのか。それは私たちが神に愛せられ、神に用いられているからです。

どうか、私たち皆が白熱した気持ちで生きたい。それが奇跡を起こすのです。白熱した気持ちであるときに、恐れず現状を打破してゆけます。有り余るような世界から豊富な力が引き出せる、これは私の知っている奇跡です。人間の心が白熱すると、そこに不思議な状況が起きます。冷たい鉄というものは、そのままではどうにもなりません、しかし熱く熱したら、軟らかくなってどんな形にでも変化します。それと同じように、あなたの信仰が白熱さえしたら、状況はガラッと変わるというのです。どうぞ熱い祈りを神に上げたい。熱く心燃やされて、毎日生きたい。

マリヤのように、1年分の生活費に相当するものを捧げて生きるときに、不思議なことが起きます。そのような勇気が今の人にはないんです。だが、神が共にあって助ける、それをありありと感じさえすれば何でもできます、何も恐れません。

どうぞ神と共に歩き、天の万軍の天使たちと共に歩いて、祝福に満ちた不思議な1年を、これからスタートしたいと思います。

(1964年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2019年7月号 “Light of Life” に掲載されています。