随想「一枚の名刺に泣いた父 ―ある元帝国軍人の回心―」
河野昭子
一昨年、父の手記が見つかりました。

私の父・池上一也は軍人でした。父は戦争の話をしませんでしたが、一度だけお酒に酔って、金鵄勲章(きんしくんしょう)を頂いた活躍を話そうとしました。戦後教育を受けた高校生だった私はその言葉を遮り、拒絶しました。戸惑って寂しげな姿を、今も忘れません。
私も年を重ねて、父の心を知りたいと思った時にはすでに他界していて、大きな悔いとなりました。
それが、敗戦から80年を迎えようとする直前に、タンスの奥にあった亡き母の私物が入った小箱に、父の手記が入っているのを見つけたのです。母は父が亡くなった後も、この手記を大事にしまっていたのです。
苦悩の日々
「北京での無条件降伏、国民の騒動、在留邦人の虚脱感、そして絶えず加えられる生命の危機感、自暴自棄、厭世感(えんせいかん)、終戦時の北京の在留邦人の無秩序は到底筆舌に尽くせるものではない。軍人である俺(おれ)はまず何もかもが終わったと思った……絶対的な心の指令者である天皇親(みずか)らの御命令である。何の個人的な判断も心の自由もなかったのである……自分の生命を棄(す)て去る事もどうする事も出来なかったのである……憔悴(しょうすい)し、虚脱された空骸が残された……」
書きなぐられたような文章には、日付も書いてありません。おそらく、自分の心を整理するためにつづったのでしょう。テーマごとにまとめられていました。
敗戦後、父の部隊は中国軍により理不尽な労役を強いられ、10カ月後に命からがら帰国したこと。公職追放のため東京から岡山に帰ったこと。戦前はチヤホヤしていた両親が、手のひらを返したように冷たくなり、クリスチャンの妻には距離を感じて寂しかったこと。軍人としてのすべての価値観が否定されながら、生きるために不本意な仕事に就いても死に物狂いで働いたこと。障害者の長女と顔に傷がある次女の私の2人を、一生背負う覚悟だったこと。
さらには、戦後に生まれ、父がとてもかわいがっていた三女はジフテリアにかかり、2歳で天に召されたこと。ここで父は「何の神などがあろうか」と記しています。
手記と同時に見つかった、父が卒業した士官学校の同窓生名簿には、戦争中に亡くなった方たちの名簿が挟んでありました。ところどころに赤い丸がついていて、「戦死」「自決」の文字が並んでいました。おそらく、父の友人たちなのだろうと思います。
私は父が亡くなってから50年以上を経た今になって、生の気持ちに触れた気がしています。
御血汐の歌
「信仰は弱い者がすること。オレが神様だからオレに聞いたら間違いはない」といつも豪語していた父でした。
そんな父が一度だけ幕屋の手島郁郎先生の集会に出たことがありました。手島先生は私に、あきらめていた結婚をお世話してくださいました。それは父にとっても大きな喜びだったはずです。それでも我を張ってなかなか先生のもとに行けずにいた父を、母が無理やり集会に連れていったのでした。
集会前に、手島先生は私に声をかけられました。
「お父さんの戦地はどこでしたか?」
「北支です」
「ぼくも同じだよ」
そうおっしゃって、「立派な方です」と手を合わせられました。父のことを心にかけてくださいました。
その集会で、『み恵みあふるる』の賛美歌が繰り返し歌われました。「イマヌエル」(神共にいましたもう)という歌詞が印象的でした。その時は、父がどのような感じを受けたのか、私にはわかりませんでした。
それから1年ほど後、父は末期の胃がんで入院しました。私は鹿児島から東京へ見舞いに飛んでいきました。病室に入ると驚きました。父が「うれしくて死にそうだ」と言って喜んでいたのです。威厳のある高僧のような、まるで別人の雰囲気に変わっていました。
何があったのかを母に聞いてみると、「お父さんが、『御血汐(おんちしお)の歌を歌ってくれ』と言うので何曲か歌うと、『違う、違う、イマヌエルだよ』と。それで、『み恵みあふるる』を歌うと、『それだ!』と言って、懸命に覚えて、何度も泣きながら歌うのよ」と言うのでした。
み恵みあふるるイマヌエルの
血汐の泉に罪を洗え
十字架の上なる盗人すら
この泉を汲み喜びけり
手島先生はそのことを聞き、「池上様、神の御平安を祈りつゝ 合掌」と書いた名刺と花束をお見舞いにと、娘の虹子(にじこ)さんにことづけてくださいました。
思いがけない先生からの名刺と花束をかき抱いて、父は男泣きしました、「もう思い残すことはない」と言って。その時から父自身が、天国にいるのか地上にいるのかわからないような3日間を過ごしました。
昏睡(こんすい)状態から目が覚めると、「ああ、まだ生きとったわい。今、真っ白な衣の天使が目の前を覆っていたんだ」と言い、また、「佐多岬の海をずーっと歩いていくと、白い百合(ゆり)が咲いているんだ」と言いました。佐多岬は、その前年に父が私たち夫婦に会いに来てくれた、鹿児島県最南端の岬です。鹿児島から特攻に飛び立った、若き戦友たちを想(おも)ったのかもしれません。
医師が「ご臨終です」と言って退室され、母と四女の妹と私で、父の枕辺(まくらべ)で『み恵みあふるる』を歌うと、父のまぶたから一筋の涙が流れました。
私は聖書にある百卒長の信仰を思いました。
ローマ軍の百卒長は、しもべの病をいやしてほしいとイエス様に乞(こ)います。けれど、来ていただくことは望まず、「ただ、お言葉を下さい」と願います。軍隊という権威の世界に生きていた百卒長は、神の権威の下では、イエス様がただ一言発するだけで神の力が発動して、しもべがいやされることを直感しました。
父も軍人でしたので、名刺の一言を受け取っただけで、ハッと悟るものがあったのだと思います。
国のためにすべてを捧(ささ)げて戦った父の中にあった、矛盾と葛藤(かっとう)と多くの苦悩をこの手記から知ることができました。けれどそんな父に、最後の最後にキリストが出会ってくださいました。その贖いの深さ、貫いている神様の御愛に感謝いたします。
本記事は、月刊誌『生命の光』875号 “Light of Life” に掲載されています。

