愛の記録「天国の喜びに生きた人々」
―聖霊の伝道の始まり―

神藤虹子

私たち幕屋の群れが生まれてから、73年がたちます。今日は、幕屋がどのようなところから始まったのか、そのことをお話ししたいと思います。

私の心にまず浮かんでくるのは、幕屋におけるハンセン病の方々の尊い存在です。

恵楓園(けいふうえん)の人々との出会い

私の父・手島郁郎は、戦後間もない1948年5月に、阿蘇の山奥で神様に召命されて、熊本でキリストの伝道を始めました。けれど、神学校を出たわけでもない実業人だった父が宗教を伝えるといっても、だれも聴いてくれる人はいませんでした。

それで父は、神様に召されてから半年後の10月から『生命の光』誌を発刊し、読者を訪ねて伝道を進めようとしました。その第1号の最後のページには、
「聖書研究をご希望の方のため、どこにでも参って聖書講話いたします」という一文がありました。

それを読まれて、翌月の11月に最初に父を招いてくださったのが、熊本県の中北部にある国立療養所・菊池恵楓園の石本勝義さんでした。

石本さんはハンセン病で両足を失い、右手がやっと動くお体でした。もう一人、西川春乃さんというご婦人がおられて、発病のために小さなお子さんを残して入園していました。このお二人は熱心なクリスチャンで、聖霊を渇仰しておられました。

栄光の霊体を求めて

父が恵楓園に行ってみると、案内された集会場は遺体安置所(葬儀場)でした。そこに集われたのは、ひどい病のために世の中から隔離され、ここで一生を終える少数の人々でした。全く希望のない所で、どう信仰を説いたらいいのか、父はほんとうに苦しみました。慰めようがなかったんですね。

やりきれない思いの中で、祈りに追い込まれた父は、次の聖書の言葉を読んで話しました。

「わたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それ(肉の体)を脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである」

コリント人への第二の手紙5章4節

必死で父はキリストを仰ぎ、心燃やされ、「死んでも死なない、新しい栄光の体、復活の体が与えられる」と語った時、皆さんは「まあー」と目を丸くして驚き、泣きだされました。「それなら私たちは救われます。欠けた体のままであの世に行くならば、たまらないと思っていました」と希望を抱いて祈るうちに、キリストの御霊に包まれてしまったのでした。

石本さんはその時の感動を、「聖霊を受けた今日の歓喜! 本日の聖書講義! 生ける真の神を仰ぎ見上ぐることの喜び!」とつづって、『生命の光』第3号に投稿されました。西川さんも同様でした。西川さんは、まさに霊の衣を着せられて、生命輝くようなお姿で、「地上の天使のように美しかった」と父は感動して、後々まで尊敬していました。

お二人とも、高い塀に囲まれた園内に閉じ込められて、絶望の人生だったはずです。それなのに、「神様、ありがとうございます!」と叫びだされたんですね。戦後のすべてが荒廃した中で、このお二人が天の喜びに満たされたことを通して、園内に心の平安を得る人たちが生まれていきました。

聖霊の愛に救われた父

日曜日の午後になると、父はいそいそと恵楓園を訪ねるようになりました。そのころのことを次のように記しています。

「(感染予防のため)患者との接触は厳しく規則で禁じられていました。しかし、同じキリストの兄弟姉妹たちと、隔離した高い所から話をするなんて、私にはできやしない。一緒に座って皆と握手し、頬ずりし合って集会をしました。感染も恐くなかった。
あの方たちの作ったボタ餅を一緒に食べて、うれしかった。だれも私を迎えてくれる人のいない時に、迎えてくださったんです」と。

恵楓園の人々と父との間にわき上がり、燃えたぎった愛と喜びは、人間の何かではない、まさに天から賜ったものでした。神様に迫られながらも、どう伝道していいのかわからずに苦闘していた父は、聖霊の働きに救われたのです。そしてここから、聖書さながらの神様のドラマが次々と起きていきました。

泥棒も持っていけない喜び

最初に回心した石本勝義さんが息子のようにかわいがっておられた、井手松男さんという方がおられます。数年後、井手さんは聖霊が注がれると嬉しくてならず、父が熊本市内の自宅で開いていた聖書ゼミナールに出たくてたまらなくなりました。

そんな人が数名おられて、自転車をこぐ練習をしだしたんですね。そして、2人1組になって夜間に片道14キロの砂利道を自転車で、信仰を学びに通ってこられるようになりました。

ある人は目が見えない、ある人は手がない、目は見えるけれども足がない。でも互いの不足を補い、助け合って来られるんです。聖霊が働く場は天国にいる心地だったようで、その感謝と喜びは一生を生き抜く力になった、と言われました。

それから随分時がたったある日、井手さんが電話を下さいました。その時、「虹子さ~ん、ぼくの家に泥棒が入ってね。家の中の物を全部持っていってしまったけど、聖書だけが残っていたよ。ぼくの中に真っ赤に燃えているキリストの喜びは、泥棒も持っていけないんだ!」って言われたんです。

それから3カ月後、「ぼくは天国に躍り込むんだ! キリストと手島先生が待っておられる」と言って、息を引き取られました。

生涯の勲章

1973年夏、父の生涯最後の聖会が長野県の白馬村で開かれました。恵楓園の人たちは「最後ならば、皆で行こう」と言って、不自由なお体ですのに、熊本からハイヤーに分乗して参会されました。

そして、聖会1カ月後の父の誕生日に、12名の連名で次のようなお手紙を送ってこられました。

「……恵みの数々を振り返って、胸がいっぱいになってまいります。この群れの中には、長い月日を息をひそめているようにも、人生の裏道を歩いてきた方がおられます。しかし、ある時から原始福音に触れて、神の愛に泣き、声高らかに主様に賛美と感謝をささげる者に打ち変えてくださいました。

信じて生きられる人生は、天国です。あふれる喜びに浸り、手島先生を師と仰げる幸福を、心から感謝申し上げます。先生のお誕生日をお祝い申し上げますと共に、心からのお祝いを同封させていただきます」と。

父は、25年間の主にある友情にうれし泣きし、
「このお手紙こそ私に最高のプレゼントであり、生涯の勲章である、と思いました。頂いたお金は福島県の開拓伝道費としてお送りしました」と感謝しました。そして、その4カ月後に父は召天しました。

父の伝道の初めから最後まで、そしてその後もずっと、人の目に隠れたところで祈り、支えつづけてくださった恵楓園のお一人おひとりがおられて、今の幕屋があります。神様が導いてくださった不思議な愛の歴史です。そのことを思うと、私はいつも感謝がいっぱいにあふれてきます。


本記事は、月刊誌『生命の光』2021年4月号 “Light of Life” に掲載されています。