敗戦の日に寄せて「日本っていい国だよ」

戦後75年が経ち、昭和から平成、令和と、世は遷(うつ)り変わってきました。新たな時代を迎え、平成生まれの私・黒木慶則(よしのり)が、大正生まれの堀明さんに、日本への思いについてお聞きします。


黒木 私は今まで、自分の国について深く考えることが少なかったと思います。学生時代、学校の授業でも、友達との間でも、日本の国のことはほとんど話題に上りませんでした。
堀さんは、どんな時代を生きて、学生時代はどのように過ごされたんですか?

海軍兵学校時代の堀さん

 ぼくは大正最後の年に生まれて、小学生のころには本格的に戦争(日中戦争)が始まったんだ。毎日のように町から出征していく人たちを、万歳をして見送っていたよ。
ぼくも、17歳で江田島の海軍兵学校に入学して、ゆくゆくは士官となるために学び、厳しい訓練を受けて鍛えられた。兵学校に入る前でも、中学生のころからグライダー部に所属したりしていたよ。大東亜戦争も開戦して、若くても「日本を守る、国のことを考える」ということは、日常的だったね。

戦争の時代をずっと生きておられたんですね。

でも、航空隊への配属が決まっていたのに、卒業寸前で敗戦になり、生き残ってしまったんだ。
故郷の愛知に帰って姉と再会した時に、「生きて帰ってきてごめん!」って言ったのを覚えている。特攻隊員として飛行機で突っ込んで敵艦を沈め、ぼく一人の死ということでお国のために貢献できる、そういうものだと思っていた。
それが18~19 歳の時のことだ。情勢が情勢だから、単純に比較はできないけれど、今の若者たちには考えられないでしょう。

死を覚悟したと言われますが、怖くはなかったんですか?

怖くなかったね。それより、敵艦に突っ込み損なう夢をよく見たけれど、そのほうが嫌だったな。
実際に2、3期上の先輩は突っ込んで亡くなっていかれた。悲しいというより、ぼくらも後に続こうという気持ちだった。

その当時を生きていた若い人たちには、そういう感情が当たり前だったんですか?

いや、それはわからない。ぼくらは自分で選んで兵学校に入ったから、周りはそういう思いをもっている連中ばっかりだった。
だけど、そうじゃない一般の学校にいた人も、学徒出陣で学徒兵として出征していた。本当は勉強を続けたかった人もいたと思う。
そして戦地で亡くなっていかれた。
そう思うと、敗戦になってただ単に「生かされた」なんて、ぼくは思えなかった。本来なら死んでいくはずだったぼくらが、いい環境で、しかも官費で勉強させていただいて、生き残ったんだからね。

堀さんが若き日に学んだ旧海軍兵学校
(現 海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校)

◆ この方は本当の日本人だ!

それで敗戦後、日本の復興のために働こうとされたんですね。

そうだね。ぼくは電気通信関係の仕事をずっとやって、「端子函(たんしかん)」という、電線につける黒いカバーを造っている東京の工場で働いて、工場長になったんだよ。
現在のNTTの研究所とタイアップしての仕事だった。同じものを北海道から沖縄まで、しかも屋外に取り付けるから、耐候性にはシビアなんだ。でも、「これは、日本のために役に立っているな」と思っていると、そういう仕事もできていくんだよ。

物を一つ造るにしても、やっぱり「国のために」なんですね。

そうだね。また「国のための大きな仕事をやっているんだ」っていう自負心もあった。
でも、戦後しばらくは精神的にフラフラしていた。頭の中がまとまらなくて、親に当たってみたり、お弁当持って一日じゅう外をブラブラしてみたり。そういう時期に母から誘われて教会に行って、初めてキリスト教に触れたんだ。

フラフラとは、生き方を見失っていたということですか?

敗戦になった途端、新聞では手のひらを返したように、「軍が日本を滅ぼした。軍人が悪かったのだ」って書かれて、それがいたたまれなかったんだよ。
「こんなはずじゃない! 日本を救いたいと軍に志願して、死んでいくつもりだったのに……」と思ってね。

日本の価値観がひっくり返るような中で、キリスト教に触れたんですね。後に、手島郁郎先生に出会ったと言われますが、印象はどうでしたか?

キリスト教を説いておられるけれど、「この方は本当の日本人だ!」と思ったね。日本を熱烈に愛しておられて、生けるキリストを命がけで伝えておられる姿から、それがビリッと伝わってきた。
ぼくはうれしかった。「国を愛し、大いなるもののために自らを捧げようとする生き方は、間違っていなかったんだ!」とわかって、それで精神的に立ち上がることができたんだ。

◆ 眠っていた心が目覚める

昨年5月に、御代が令和に改まる瞬間を一緒に経験しましたが、その時の若者の姿を見て、どう思われましたか?

それは、微妙なところだね。天皇陛下に対するぼくらの受け止め方と、今の国民の受け止め方とでは、だいぶ違うと思う。
たとえば昔は、陛下が列車で通られても、みんながお辞儀をして、そのお顔を拝する人はだれもいなかった。今のように「せっかく陛下がお見えになったのに、お顔が見えなかった」と言ったりするような人は、一人もいなかった。
はるか昔から連綿と続いてきた、尊い天皇陛下という祈りの存在が中心にあられて、日本が一つにまとまっていたんだ。

逆に今の若者たちは、どういうことを愛国心だと思っているの?

改めて堀さんからそのように聞かれると、パッと答えづらいものがありますが……。
たとえば、最近では新型コロナウイルスで亡くなる方や、経済的な苦境に立たされる方がたくさんおられて、このまま日本がガタガタになったら嫌です。

ぼくも憂えているよ。だから、国が的確に対処して国民の命や生活を守ってくれたら「ああ、やっぱり日本いいね」と思う。政府も国民も一体となって国難に当たることが大事だし、そうありたいね。

もう一つ思い浮かぶのは、最近映画にもなった、東日本大震災の時の話です。被曝(ひばく)して死ぬおそれもある、いつ爆発するかわからない福島原発で、多くの若い作業員が志願して、事態収束のために飛び込んでいこうとしました。

そういう話を聞くと、うれしいね! その若者たちは、日ごろどういう心がけでいたのかね?

普通の若者だと思いますが、現場の当直長が命がけで立ち向かう決意をした時に、「ぼくが行きます」「私も行けます」と言って、次々に手を挙げるんですよ。
そのように、国に危機的な事態が起こったら、若者に勇気がわいてくるのかな、と思います。

そうだね。時代や環境が変わっても、そういう状況になれば、「日本のために、身を捨ててでも行こう」と、眠っていた日本人の血が目覚めると思うよ。

◆ これからを生きる若者へ

「国を愛してほしい」という堀さんの思いがとても伝わってきました。今の若い私たちの世代に何をおっしゃりたいですか?

やっぱり、日本っていい国だよ。美しい自然、営々と培ってきた歴史、人の考え、祈りがある国だからね。
海軍兵学校の近くの山から周りを見渡すと、海の向こうに山並みが見えて、とてもきれいなんだ。まさに山紫水明!
その景色を見ながら、「ああ、緑豊かで素晴らしいこの国を、たとえ死んでも守りたい」って、すごく感じた。
本居宣長(もとおりのりなが)が「敷島の大和心を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花」と詠っているけれど、わかるかな?

うーん、難しいです。

ピンと来ないよね。でも、ぼくらには、わかるんだな。
「日本に生まれてよかった」と思う人がもっと増えたら、きっとうれしい社会になると思うよ。

今日のお話の中で堀さんが、特攻に志願して国のために死ぬつもりで生きておられた、そのことに衝撃を受けました。そのような方々がおられたから、私たちは今、この日本で生きているんですね。
戦争の経験や、その後の経済復興など、堀さんの人生が日本の歴史とぴったり重なっていて、堀さんは日本と一緒に生きてこられたんだな、と感じました。

私はキリストのために生きたいと願って、大好きだった仕事も辞めて今があります。形は違っても、堀さんのように大いなるもののために身を捧げる生き方を、私も目指していきたいです。
大切なお話をありがとうございました。

堀 明
大正15年(1926年)、愛知県生まれ。94歳。
父親は新渡戸稲造に師事。日本人としての精神を家庭で育まれる。 (大阪市在住)

黒木慶則
平成元年(1989年)、東京都生まれ。30歳。
専門学校卒業後、建築設計会社に勤務。現在、キリスト聖書塾でWebを担当。(東京都在住)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年8月号 “Light of Life” に掲載されています。