エッセイ「君に希望を託すよ!」

比嘉越宰(えっさい)

若き日に熊本で育った私には、決して忘れられない方たちがいます。

熊本の幕屋には、市の郊外にある菊池恵楓園(けいふうえん)というハンセン病の人々が暮らす療養所から、信仰を求めて数名の方が集っておられました。私は、物心ついたころから毎週、その集会に母に連れられて行っていました。

戦後間もなく、手島郁郎先生は熊本で原始福音の伝道を始められましたが、いちばん最初に先生に聖書講義の依頼をしてこられたのが、恵楓園の方々だったのです。

手島先生は療養所で聖書を説き、ハンセン病の人たちと膝を交えて、共に熱く祈られました。その祈りを通してキリストの聖霊を受け、病のゆえに呪われたような人生を歩んでいた方々が魂の救いと喜びを得て、次々と熊本幕屋の集会に来られるようになったのです。

落第点続きの現実

私は20歳の時、聖書の学びと信仰の成長を願って、聖書の国イスラエルに幕屋の留学生として行くことになりました。

出発の日、熊本幕屋の皆さんが祈って送り出してくださいました。その時、恵楓園から来られていた山崎一夫さんという方が、私にそっとお餞別(せんべつ)を渡してくださったのです。

その中には一筆、
「ぼくの人生はゴミ箱に捨てられたような人生ですが、君に希望を託します。行ってらっしゃい」と認(したた)めてありました。

当時の私は、この言葉を深く受け止められないまま、イスラエル留学へと旅立ちました。

イスラエルでは、まず語学教室でヘブライ語を学び、2年後には、念願かなってエルサレムのヘブライ大学の聖書学科に入学しました。

ところが現実は厳しく、授業が難しくて現地の学生たちには全くついていけません。そして、試験を受けるたびに落第点ばかりが続きました。

またそのころ、幕屋の留学生仲間との関係も思うようにいかず、自分はここまで来ていったい何をやっているんだろうという思いで、すっかり落ち込んでしまっていました。

つらい現実から逃げ出したくて、日本に帰ろうと思ったものの、手元にはチケットを買うお金すらありません。

私にとっては、最もつらい挫折(ざせつ)の時でした。

夜空に浮かんだお顔

心に行き詰まりを覚え、もうにっちもさっちもいかなくなった私は、ある日、夜中に宿舎の近くの荒野へと独りで出かけていきました。祈るわけでもなく、岩に腰かけて、ただぼんやりと夜空の星を眺めていました。

その時です、ふとある人の顔が浮かんできました。それは、私にそっとお餞別を下さった、山崎さんのお顔でした。

ハンセン病のゆえに世間から捨てられたような人生。キリストに贖われた喜びはあるものの、一生、療養所での生活……。

「君に希望を託します」との言葉に、この方だけは絶対に裏切れない、という思いが胸に迫ってきました。

翌日、私はその言葉を胸に聖書学科の教授を訪ねました。そして、自分の苦しい現状をすべて話しました。私の話をじっと聞いてくださった教授は、ただ一言、「学びつづけることが大事です」と言って私を励ましてくださいました。

そうして備えた試験は、私の大学在学中いちばんいい点数の、98点だったのです。それ以来、次々と試験も通るようになり、やがて、晴れて卒業することができました。

「若者たちをよろしく」

先日、私は久しぶりに熊本に帰り、初めて恵楓園を訪ねました。帰り際、バスの車窓から外の景色を眺めていると、突然、山崎さんのお顔が浮かんできました。「ああ、山崎さん!」と、思わず声をかけてしまいました。その時、思わされたことがあります。

それは、山崎さんだけでない、恵楓園の方々は皆さん、次の世代を担うすべての若者たちに、願いをかけておられたということです。ご自分たちの運命を贖ってくださったキリストの信仰を嗣(つ)いでいってほしい、という願いです。

私がかつて存じ上げていた恵楓園の方々は、今では皆さん、天に帰られました。

その方々が、「願いを託したのは、昔の話じゃないんだよ。ぼくたちは、今でも天国から君たちを見ているから、令和の若者たちをよろしくね」と、語りかけておられるような思いがしました。

ご自分の人生を、私に託して聖地留学に送り出してくださったご愛を思うと、今、私はどれほどその願いにこたえられているのだろうか、と思わされます。

でも、今度は私が、若い世代の人たちにこの信仰を伝えていきたい。その使命を心に秘めて、私は今日も天を仰いで祈っています。

プロフィール

比嘉越宰 59歳 東京都在住。
イスラエル関係の仕事に従事し、キリストの伝道を目指している。楽しみは孫と踊る『へその音(お)』♪


本記事は、月刊誌『生命の光』833号 “Light of Life” に掲載されています。