若いひとの声「父の姿を目指して」

プロフィール
長谷川勇也(いざや)(28)
好きなこと
スポーツカーの運転、特にマニュアル車を好む。
高校では吹奏楽部に所属。
私は、時には1トン以上ある鉄の塊をCNCという機械にセットして、0.01ミリ単位の精度で加工する仕事をしています。
自動車のプラスチック部品を造るための金型を、コンピューター制御で削るんですが、最終的には人間が微調整しないといけないんです。でも、そこがなかなかうまくいかないんですね。
ある時、翌日までに仕上げないといけない製品があったんですが、夜の9時になってもできない。何度、一から見直しても、うまくいかない。ほとんどの工員は帰って、残っているのは数人のみ。
どうしようかと焦りましたが、まず一休みして、そして工場の片隅で一人静かにキリストの神様に祈りました。
そうしたら、何だか心が平安になって、もう一度やり直してみました。すると今度はうまくいき、やっとのことで製品が完成しました。祈りで困難を乗り越えることができた喜びがわきました。
砂漠の一夜
私がこうして祈るようになったのは、幕屋の信仰をもつ両親に育てられてきたからです。
聖書の国イスラエルに若い日に留学していた母は、私が幼い時から、よくイスラエルのことを話してくれました。だから、私も一度はイスラエルに行ってみたいと、ずっと思っていました。それで私は19歳の春、幕屋のイスラエル留学に参加しました。
その夏、留学生20名と、聖書を読みながら、エリコという町から標高差が約1000メートルあるエルサレムまでの荒野の山道を2日間かけて上っていく、という旅をしたことがありました。
1日目の夜に泊まった砂漠のテントで、イザヤ書を皆で学びました。そこには、自らは痛みを負いつつも、神様の御思いが成るために生涯をささげて生きた、信仰者の姿が描かれていました。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦(あし)を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
イザヤ書42章2~4節
聖書を読んで、皆で語り合っているうちに、私の心に父の姿が思い出されてきたのです。
聖書と二重写しに
私たち家族は、福井県の敦賀(つるが)市に住んでいました。私が小学6年生の時です。夏休みに近所の祖父の家へ遊びに行っていて、父と2人の妹たちは近くの海へ海水浴に行きました。その海で、父は溺死(できし)してしまったんです。遺体は翌日まで発見されませんでした。
私はとてもつらくて、卒業式や入学式にほかの友達は家族で来ているのに、私には父がいない。すごく寂しい思いをしました。当時はつらい思いしかありませんでした。
でも、砂漠のテントでイザヤ書を学びつつあるうちに、父が毎朝一人、部屋でキリストに祈っていた姿や、敦賀の町で『生命の光』を黙々と配りながら、信仰を求めて来た方を家に招いて共に祈っていた姿。遠足の日の朝、喘息(ぜんそく)の発作が起きて、行けないと思っていたら、父が私に手を按(お)いて祈ってくれて喘息が治まったことなどを思い出しました。
また、父は亡くなる数年前から、膨大な仕事量と過剰残業による過労で、うつ病を患っていましたが、それでも神様のために懸命に生きようとしていました。そのころは、父はなぜ神様のことになるとこんなに頑張っているんだろう、と思っていたんです。
けれど、父の姿が聖書の信仰者と重なって思えて、それは自分のことよりキリストのために生きる喜びを知っていたからなんだ、とわかったんです。

決して目立つ父ではありませんでしたが、私は大好きで尊敬していました。「ああ、私もそのように歩んでいきたい」という願いがわき、それを熱く祈りました。
もっと大きな目的に
やがて希望をもって留学から帰国し、願っていた会社に勤めはじめたのですが、コロナが蔓延(まんえん)したため、仕事がなくなってしまいました。
そんな私を名古屋の幕屋の方が気にかけて、「今、息子の会社で社員を募集しているから、面接を受けてみないか」といって誘ってくださいました。それが、今働いている鉄工所なんです。
この春に、幕屋の青年たちで、無教会主義を叫んだ内村鑑三先生のことを学びました。内村先生は、「われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべては神のため」と言われたと聞きました。
それを知った時、今の自分は、現実の仕事が大変だとか言っては、小さな自分の足元のことばかりを見ていたな、と思いました。私も、もっと目を高く上げて、日本のため、また神様のために働く者でありたい、という希望がわきました。
ただ、まずは具体的に、現実の仕事場でしっかりと技術を身につけて、会社にも貢献できるような者になることだと思っています。
この鉄工所に入社して3年になります。私より後に入った人たちもいるんですが、年齢的には私がいちばん若いんです。
まだ未熟で、先輩たちから注意されることも多いんですが、これからは技術の向上だけでなくて、人間的にも、「長谷川君に頼めば大丈夫だ」って、やがては皆さんから言われるようになりたいと願っています。
そして、もっとキリストの御用に立てる者になりたい、と。
本記事は、月刊誌『生命の光』868号 “Light of Life” に掲載されています。