特別企画「先人の思いを胸に」

木村聖徒 43歳
現在、埼玉県に住んでキリストを伝えている。中学生を頭に3児の父。

福地教夫(のりお) 82歳
生涯をキリストにささげた伝道詩人。慰霊の旅は国内にとどまらず海外にも。

今年も、8月を迎えました。15日の敗戦の日には英霊を想い、またお盆にはご先祖をお迎えする、日本人の私たちにとって大切な月です。
そこで、「慰霊の祈り」をテーマに、年代の異なるお二人に対談していただきました。(編集部)

木村 今日は、どうぞよろしくお願いいたします。
連日報道されるウクライナの悲惨な光景に胸がふさがり、かの地で亡くなられた兵士や戦闘に巻き込まれた一般市民の方たち、特に何もわからないまま犠牲になった子供たちのことを思うと、私の心は痛みます。
戦争だけではありません。私自身の体験としても、天災や事故などで亡くなられた方のご遺族と出会うことがあります。そのように理不尽に亡くなられた方の魂に向けて、どのような心で祈れば真の慰めとなるのか、今年は特にそのことを思います。

福地 今のウクライナのようすを見ていると、私自身のリアルな体験を思い出します。
昭和20年、当時5歳だった私は、青森市で空襲を体験しています。焼夷弾により燃え上がる市街を遠くに見ながら、恐怖に体が震えるのを堪(こら)え、母に手を引かれて逃げた時のことを鮮明に覚えています。
焼け野原となった青森の町が、今も瞼(まぶた)に焼きついていますからね。テレビで見る、ロシア軍の攻撃を受けて廃墟(はいきょ)となったウクライナの町が重なるのです。

木村 福地さんのお父さんは昭和21年に大東亜戦争の戦地から生きて帰ってこられた、と伺いました。復員されたお父さんは、何か語っておられましたか。

福地 いいえ、父は亡くなるまで、家族には戦争のことをほとんど話さなかった。
南方の激戦地ラバウルから帰った父は、以前の職場に戻り、電電公社(現NTT)で働きました。しかし、人が変わったように、お酒を飲んでは暴れるようになってしまったのです。
母からは、「戦争の前の父さんは違った」と聞かされました。でも、当時の私には理解できなかったですね。そして母や、子供にまで手を上げるようになった父に、私は恐怖と憎しみの感情すら抱くようになりました。
家庭崩壊するような中で、母は必死に、私たち3人の子供をしっかりと育ててくれました。

語らない思い

木村 そのようなことがあったのですね。私にとって福地さんは、キリストの愛と祖国への愛を熱く叫んでおられる方という印象です。どのようにして変わったのですか。

福地 私の心の痛みを慰めてくれたのが聖書でした。ある日、母が「教夫、これを読んでごらん」と、17歳だった私に新約聖書を買ってくれました。母はキリスト者だったわけではありませんでしたが。
私はその聖書を、むさぼるように読みました。そして、病人や人生に苦しむ人がイエス様と出会って救われていくのを読んで、自分もイエス様に救われたいと心から願いました。
またそのころに、学徒出陣した方たちの手記や、特攻隊員の遺書を読みました。自分と同じような年齢の人たちが祖国のため、愛する家族のために身命をささげられた。その感動は今も鮮やかです。
そして運命的な出合いは、内村鑑三先生の『余(よ)は如何(いか)にして基督(キリスト)信徒となりし乎(か)』の本でした。
内村先生に導かれるように北海道に渡り、大学で学んでいる時に幕屋と出合った。原始福音の信仰に触れ、私は生けるキリストにお出会いする回心を体験して、「これこそおれが命をかけて生きる道だ」と確信しました。

木村 それから、キリストの福音を伝える伝道に生きてこられたのですね。キリストの信仰と出合って、お父さんとの確執も消えたのでしょうか。

福地さんのお父さんが書いた色紙

福地 そのことは簡単にはいかず、長い時間が必要でした。父は沈黙を守ったまま亡くなりました。
ただ父の遺品に、戦中・戦後を生きた人の万感の思いが詰まっていることを知りました。
ここに、父が詠んだ短歌があります。それには、
  亡き戦友(とも)よ 
  いづこのよめぢを辿(たど)るらん
  つかれたまわば
  北雲に乗れ
とあります。父は戦地に残してきてしまった戦友たちの霊魂に向けて、黄泉路(よみじ)を惑いつつ辿って疲れたならば、北雲に乗って故郷日本に帰ってこいよ、と呼びかけているのです。私はこの短歌を見つけた時に、私たちには語らなかった、戦友に対する父の思いと慟哭(どうこく)が聞こえてくるようでした。
そして、父は生き残った者として、亡き戦友たちの霊を慰めながら生きていたことを知りました。

南方への旅

それから、『生命の光』誌の取材のために、南方の戦地であるパラオ共和国のペリリュー島を訪れたことがあります。この旅が、私の心の奥底にあった父へのわだかまりが解ける、大きなきっかけとなりました。
ペリリュー島は大東亜戦争の激戦地で、日本軍1万余名が戦死し、米軍にも1万人といわれる死傷者が出た地です。私はペリリュー島で、日本軍の守備隊が玉砕を告げる電報を打った洞窟(どうくつ)を訪れました。洞窟の前に立った時に感じた空気におののきました。ここに先人たちの霊魂がいる、と感じたのです。
私はひざまずいて手を合わせました。そして、あの激戦地で亡くなった日本軍の兵士だけではない、米軍の兵士たちへの祈りが、私の口からあふれてきたのです。

ペリリュー島で祈る福地さん(右)

戦争は残酷で悲しい現実です。しかし、かの地にいた兵士たちは愛する祖国、愛する家族を守るために戦っておられた。私の父も、その一人だったのです。歳月で洗われた父の姿が、初めてのように高貴に思えました。
ですから、今のウクライナ戦争でも同じです。私たち信仰者は、ウクライナ兵や一般市民で犠牲になった方たち、また独裁者プーチンの命令で戦闘を強いられて亡くなったロシア兵の霊魂のためにも、祈らないといけない。

木村 南方を訪れたという話を聞いて、ハッとしたことがあります。
実は、私の大叔父も佐世保から輸送船に乗って、南方に向かいました。しかし、出発してすぐに船が敵艦に撃沈されて、戦死しています。そして大叔父は、靖國(やすくに)神社にまつられています。私は数年前まで、そのことを知りませんでした。
大叔父のことを聞いてから初めて靖國神社を訪れた時のことです。九段下の駅を降りて地下鉄の出口から地上に出た時、今までと何か違う空気を感じたのです。
そして境内に足を踏み入れた途端、込み上げてくる涙を抑えることができませんでした。大叔父が「やっと来てくれたか」と言ってくれているように感じました。
そして、この場所には自分の命に代えて日本と家族の未来を守ってくださった方々の魂がおられる。この方たちの死の上に私は生かされているのだと、強烈に胸に迫ってきたのです。

死者にも響く声

福地 君はほんとうに尊い体験をされた。私たちには同胞のために身命をささげた殉忠の英霊を記憶し、その思いを次代につないでいく役目がある。記憶を継承することは、民族が存続するための生命線だとさえ感じます。自分の身命をささげた霊魂こそ、人類を救うために自らの命をささげた主イエスの御心に適い、いかにお喜ばせすることか。
また慰霊とは、戦争で亡くなられた方たちに対してだけではありません。君が初めに言ったように、事故など不条理に亡くなられた霊魂に対しても同様です。

木村 ほんとうにそうだと思います。私は、東日本大震災が発生した直後に、釜石(かまいし)市を訪れたことがあります。その時も、心からの祈りをささげずにはおれませんでした。
またある時、私と同世代の友が、後輩たちを喜ばせようと沢登りを計画して、下見をしている際に山で遭難し、事故死したことがありました。
私は告別式の後、その友人が見つかった場所を訪れました。現場に到着した時、まぶしいくらいの光に覆われて、言葉を失いました。そして、彼が若者たちにかけた思いや願いを自分に嗣(つ)がせてください、と祈りがわきました。

福地 その心が大切です。
また主イエスは、
「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ福音書5章25節)とお語りです。
神様の声は、死んだ者にも聞こえる。そして永遠の生命の中で生きつづけるのです。このことを私たち生かされている者は願い、祈ることが最も肝要です。

木村 それが、慰霊の祈りなのですね。今日は、どうもありがとうございました。


本記事は、月刊誌『生命の光』834号 “Light of Life” に掲載されています。