聖書講話「ひと足ひと足導きたまえ」ヨハネ福音書第10章7~18節

今日はヨハネ福音書10章7節から読んでゆきます。ここでイエス・キリストは、神様と私たちとの関係を羊飼いと羊との関係に譬えておられますが、ヨハネ福音書もこの辺まで来ると、キリストの宗教が何であるかが最もよく示されています。この書の要点は、「わが羊はわが声を聞く」といって、神は人間に語りかけたもうお方である、神と人間は「我と汝」と呼び合うような人格的関係にある、ということを高唱しているところにあります。実に宗教は、かくのごときものでなければなりません。そうでなければ、宗教でないものが宗教の代用物として幅を利かしだします。

神様が活き活きと感じられないときに、人は神の実在を疑います。また、神が事ごとに実際問題に適切な指導をされることを知らないと、「神の御心はこうだろう」と人間の側から結論をつけて、信仰は一つの原理、道徳というものに堕落してしまう。宗教に霊的生命が衰えると、いつもこうなるのです。私たちは、それらのことと戦わなければならないのです。

キリストは生命に至る門

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」

(ヨハネ福音書10章7~10節)

イエス・キリストは「わたしは羊の門である」と言われました。これは物質的な教会堂の門や、どこかの教派の門のことではありません。キリスト教会に行ってその門をくぐれば救われる、と思うならばとんでもない間違いです。ここでイエスが言われるのは、見えない、霊的な門です。

「わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」とあるように、キリストという門をくぐるときに、豊かな霊的な糧を得ることができる。そのためには、「わが羊はわが声を聞く」と言われるように、キリストの声に聞いて生きることが大事です。

妙なる道標の光よ

聖書の宗教は、神という私たちを導くお方がおられることを強調しています。羊は羊飼いに導かれてゆきます。砂漠の彼方には緑のオアシスがあるかもしれないが、羊自身はよく知らない。けれども、ひと足またひと足と導かれてゆくと、ついによき所に行くことができるというのです。

私が昔から好きな賛美歌に、次のようなものがあります。

妙なる道標(みちしるべ)の光よ
家路も定かならぬ闇夜に
さびしくさすらう身を
導き行かせたまえ
行く末遠く見るを願わじ
主よ わが弱き足を守りて
ひと足またひと足
道をば示したまえ

作詞者のジョン・ヘンリー・ニューマンという人は、19世紀のイギリスで天才といわれるくらい優秀な神学者で詩人でした。英国国教会の信仰復興と改革に尽力しましたが、それに飽き足らずにカトリックに移り、枢機卿にまでなりました。彼は頭脳が抜群に優れていましたが、同時に大いなる神の前に敬虔な人でした。

「主よ、わが弱き足を守りて、ひと足またひと足、道をば示したまえ」とありますが、頭のよい人は自分の考えに任せて物事に処したらいいと考えやすい。だがニューマンは、ひと足ごとに大いなる者に導かれなければ人間の知識は全きを得ない、という信仰をもっていました。有数の思想家であったニューマンですらそうならば、私たちはもっと神に聞かねばなりません。

神なき唯物的な時代

今のキリスト教を考えてみると、キリストの御声を事ごとに聞きながら生きる、という信仰生活を、ほとんどのクリスチャンは送っていないと思います。それはどこから来るのか。一つは今の時代が非常に唯物的で、「神が人間に語りかける」ということが信じられていないからです。20世紀の特徴は、神の存在など認めない唯物論が非常に横行していることです。ソビエト連邦や中国のように、唯物論で立つ国が世界の大国として現れてきました。

マルクスの唯物論というのは、歴史にしても文明にしても、すべてのことがらは客観的な科学と同様な法則によって発展を続けてゆく。社会を発展させるのは物質的な生産力や経済であって、社会の中にある矛盾が大きくなってくると、全く新しい社会秩序が生まれる。たとえば、資本主義社会の下で資本家に富が集中し、労働者が貧困に喘ぐと、ついに彼らは立ち上がって革命を起こし、共産主義社会を実現する。これが歴史の必然である、というものです。その思想の影響を受けた人々は、「世界がそのように進むと決まってしまっているなら、なるようにしかならない」と考えるほかありません。

ドラマチックな神の導き

しかし、宗教の世界はそうではありません。この社会、宇宙、人生には一つの大きな計画、目的があって、それに向かって進んでゆき、その目的を成らせることに意味がある、と考えます。必然的にこうなる、というものではない。私たち人間の側は何も知らないけれども、もっと大いなる存在が背後にあって、それを成させようとしておられる。その目的を達成するためにどうすべきかを問うところに、宗教があります。

現代では、だんだんこういう考え方は衰えてしまっています。それで、国も民族もそれぞれの方針や計画に従って勝手に歩きますから、至るところで衝突します。個々の人間も何に向かってゆくのかわからず、無計画にむちゃくちゃに歩くので壁に突き当たります。

神を知らない多くの人には、すべての物事は偶然から偶然に進むのであって、自分の思いを超えたことが起こっても、単なる偶然としか映りません。しかし、私たち神に導かれる者には、「偶然」というものはない。それは神の御心が成ることなのです。

賀川豊彦(注1)先生は、「世の中に偶然というものは決してない。偶然に見えるのは、その背後にある存在を知らないからだ。劇の舞台には、背後に舞台監督がいて一つの筋書きがある。それがあまりに劇的なドラマであるから、観客は『まあ!』と言ってその劇に驚くけれども、背後で監督をしている者には偶然ではない。そのように、世の中にあるすべては、神様があるご計画に従ってそうなるように導いておられるのだ。神を知らぬ人には偶然と見えることでも、神様の心、神の立場に立って物事を見る人にとっては、すべては偶然ではない」と言われたことがあります。

物は見方です。立場を変えて、「すべては偶然でない、自分を導いているものがある」と思うならば、私たちは確信をもって生きることができます。


(注1)賀川豊彦(1888~1960年)

大正・昭和期のキリスト教伝道者、社会運動家。不遇な少年時代を過ごす中で、キリスト教宣教師に触れ、回心。イエスの歩みに倣い、貧民窟で伝道。その後、貧困や労働の問題に取り組む。日本の生活協同組合運動において重要な役割を担った。

理性は万能ではない

どうして宗教が必要なのか。私たちはどうして大いなる者、神の声を聞かなければいけないのか。それは、人間は賢そうに見えても賢い動物ではないからです。

昔は「理性万能」といって、人間は勉強すれば何でも知ることができる、この理性が最も賢明であると考えられました。しかし、はたして人間の理性というものは賢明でしょうか。戦後になると、人間の理性は必ずしも賢明ではないと考えられるようになりました。理性が万能ならば、何ゆえあのようなバカバカしい戦争をやったのか。何ゆえ600万人のユダヤ人を虐殺するようなことをしたのか。こんな反理性的なことをするのは、理性が無力であるという証拠です。

ですから私たちの信仰にとっては、「わが羊はわが声を聞く」と言われるように、私たちを最善のところに導こうとされる神の御声を聞くことが大切なのです。

イエス・キリストは「天の父なる神は、あなたがたの髪の毛一本一本までも数えておられる」と言って、人間以上の偉大な存在を示された。そして、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ福音書6章8節)と言われ、「主の祈り」を教えられました。その中に、「御心の天に成るごとく、地にも成らせたまえ」(10節)とあるように、私たちにおいて祈るということは、自分の願いを神様に押しつけることではありません。

「神様、あなたはすべてをご存じですから、私の願いよりもあなたが与えようとしておられる、その最善を知りとうございます」と祈ることです。自分の願いを願うよりも、自分を愛して、より高い立場から自分を見ていてくださるお方の願いに聞いて従うこと、これが信仰です。

生ける神と共に生きる

ところがある人は、「人間は自主性をもたなければならない。他の者の意見に左右されたり、何かに服従して生きるのは嫌だ」と言います。これは、「従う、服従する」ということは悪いことだと考えるからです。

しかしどうでしょうか。オルガンを弾くのに、オルガンの法則に従わなければ弾くことができません。また、交響楽団が演奏をするときに、指揮者の指揮に従わないならば、交響楽ができるでしょうか。管楽器、弦楽器などいろいろな楽器がありますが、みんな指揮者に従って弾きます。それぞれは精いっぱい弾いていますが、一つの大きなハーモニー、調和を成しております。

ですから、自分勝手にやるといっても、何事も一つの条件があるのであって、それに従わないでやりましても、決して成功するものではありません。

聖書を読むと、キリストは実に事ごとに神の御声を聞いて、御旨に従って歩いておられます。そして、驚くべき、素晴らしいことをやってのけられた。私たちにはどうしてできないのだろう、と感じます。それは、神様が今も生きて祈りを聞いてくださる、ということに疑いがあるからです。神にほんとうに従って、聖書に「福音とは神の力である」「神は祈りを聞きたもう」と書いてあることを身をもって示す人が出ないことには、実態がわからないのです。

先日、伝道旅行から帰ってこられた牧師のHさんは、「ほんとうに私は感謝です。行く先々で、キリストがありありと働いてくださいました。私のような者が手を按いて祈っても、ひどい病気がケロッと治るのです。また、神の示しに従うと状況がガタンと変わるのです」と言われます。どうしてHさんが、あちこちで素晴らしい働きをなされるようになったか。それは、霊的な実在を知ったからです。それに従うことが力であり、真理であることを知ったからです。

何ゆえ宗教において信仰が衰えて、神学とか哲学というものが盛んになるのかというと、神を信じているといっても、ありありとした宗教生活の喜びが湧かないからです。神は現実に生きて働き、私たちを愛し、導き、守る、よき羊飼いのようなお方であるのに、それが信じられず、「神は在る、と聖書には書いてあるから在るはずだ。神とは何か?」と神についての説明や教義、道徳などが信仰に取って代わる。だが、それらと一貫して戦ってきたのが、この聖書です。

私たちの仲間で、道徳が語られたり、宗教哲学が高唱されたりするときには、「ノー」と言って戦い、「生ける神」を私たちは叫ばなければならない。生ける神に導かれることが、いかに幸いであるかということを知らなければならない。これは、理性がいちばん尊いという考えに対する私の反撃であり反抗です。神の霊が理性以上のものであるということを示すためには、どうしても私たちが神に聞いて、生きて歩いてみせなければならないのです。

不思議な祝福にあずかるには

「御心の天に成るごとく、地にも成らせたまえ」(主の祈り)と祈れよ、と主イエスは弟子たちに教えられたが、普通の人は神の御心を求めたりしません。それが何かわからないからです。

先日、20~30年も信仰している方が、「先生、神の声を聞くということは、どういうことでしょうか。どうして、神が私に語りかけることがわからないのでしょうか」と言います。それで、「あなたが従おうとしないからです」と言いますと、「神様が御思いを全部示してくださるならば従うのですが……」と言う。

「神様が全部を示されるならば従う、などというのは思い上がりだ。初めからずっと先の曲がり角を示されたりしたら、怖くて従えませんよ。あなたの信仰の悪い癖は、事ごとに神に聞こうとしないことだ。また、神の声を聞いても従わない。1歩従わない以上、なんで2歩目、3歩目を神様が教えるもんか。羊と羊飼いの関係を見てごらん。羊は何にも知らないけれども、1歩1歩、ただ羊飼いに従ってゆくだけだ。そのように1歩1歩、羊飼いであるキリストにほんとうに信頼して従う。これが信仰だよ」と言ったことでした。

誰しも、「私はどうすべきか、神の御声を聞きたい。しかし神様の答えがはっきりしない」などと言います。私も昔はそうでした。しかし最近は、そういうことで苦しむことはありません。私が神様に従おうとさえ思えば、神様は最善を示したもうということを知るからです。

信仰とは従順ということです。それは戒律に従うこととは違います。ひと声ひと声、神に伺い従ってゆくことです。そのような神の知り方をしている人の信仰は恵まれます。「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ福音書10章10節)とあるとおりです。

よき羊飼い

「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」

(ヨハネ福音書10章11~15節)

12節に「雇い人」とありますが、雇い人は自分の利益のために働くものです。牧師の中にも、神学校を出て、牧師になって飯食おうと思っている者がいる。一生損してでも、キリストのために生きようと思って牧師になる者は、なかなかいません。雇い人は、自分の利益のために働いていますから、何か事が起こると羊を捨てて逃げてしまう。羊のためには生きません。だが、よき羊飼いは羊のために命を捨てる。ここに本当の羊飼いと、そうでない者との違いが出てきます。

これは幕屋でも同じです。真にキリストの御心をもって導いている伝道者と、そうでない人ははっきりわかります。自分が偉くなるため、自分の都合で生きている伝道者は、困難になるとすぐ逃げ出します。これは自分のためを思うからです。

 「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」。雇い人は、何か狼のような悪魔的な、凶暴なものが掠(かす)めに来ると逃げ出す。自分の一身の安全が先に立つ。伝道をする者は、いくら説教が上手で講義がうまくても、羊のために立派に死んでゆけるかどうかが問われるのです。これは人に言うことではありません。手島郁郎自身に言い聞かせつつ話しているのです。

この羊飼いと羊との関係、これはまた、キリストと私たちの関係です。キリストは、私たちのために血を流し、命を削ってでも生きておられる。そのことを思うと、私がどうして命を捨てずにおられましょうか。

命を捨てる力をもつ

「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」

(ヨハネ福音書10章17~18節)

「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さる」、ここにキリストのお気持ちがよく表れています。私もキリストに愛される人間になりたい。そのために私は、自分の命をいつでも捨てる覚悟をしておく必要があるし、捨てねばならないと思っています。

けれども、「捨てるのは、それを再び得るためである」とある。その命は、いつでもまた再び受け取ることができるのです。また、「それを受け取る力がある」と言われるように、命を捨てるといっても、着物を脱いでまた別の着物を着るように何でもないことだ、とキリストは言われる。これは永遠の生命を知っている人の言葉です。ヤドカリは、次から次に自分のすむ貝殻を替えます。私たちの人生、地位が変わり、環境が変わり、状況が変わる。しかし私たちの魂は、いろいろに住みかを変えながら、永遠にまで生きてゆく。地上のさまざまな姿にしがみつくことなく、天国を指して、次から次に状況を脱ぎ替え、脱ぎ替えしてゆくのが私たちの生涯です。

心砕けた者に

私たち、神に導かれる生涯を送ろうと思うならば、ひと足またひと足、羊が導かれるように御声に従って生きるということをしないと、次の御声がかかってきません。だが、私たちはなかなか神の声を聞くことができない。それは、神の霊を受けて、もう一つの新しい心を頂くということを願わないからです。この新しい心を頂いたら、その心を用いてどんどんよい場所に行けます。

「どうして私は乏しいのだろう」と嘆く人があります。それは、神の示されるよい土地に行こうとする心がないからです。多くの人は、素直な、神の声を聞くような心が与えられると素晴らしいことが次から次に連続してくる、ということを知りません。何か物質的にちょっとでも恵まれたり、よい地位にでも就くと神様に感謝します。しかし、新しい心を頂いて心が変わっても、「恵まれた」とは言いません。けれどもこのほうが、本当はずっと有り難いことなのです。

旧約聖書の中にも、「石の心を除いて、肉の心を与える」(エゼキエル書36章26節)などのように、新しい心が与えられると書いてある。その時に、神の御声を聞くことができるのです。

私たちの幕屋では、回心(コンバージョン)して、こんな喜び、こんな嬉しい心持ちがあるだろうか! と思うことがあります。これは神から全く新しい心、神の声を聞くような心を与えられているのです。

どうしたらその新しい心が与えられるか。神は、私たち人間には遠い存在に思えるかもしれません。しかし聖書には、いと高き神が、心へりくだった、心砕けている、傷心(ブロークンハート)の者に近寄ってきてくださる、ということが書いてあります。人間の理性こそ万能だ、などと傲慢なことを言っている者には語りかけられない。しかし、石のような心が砕けるときに、いと近くに神を知り、神が語りかけてくださることがわかります。私たちにとって、そのようにありありとした神の御声を、日々事ごとに聞きながら生きることが信仰の生涯です。

預言者たちに響いた声

旧約聖書のアモスという預言者はいちじく桑の木を作る者であり、羊飼いでした。でも、「私は宗教家ではない。しかし、神の御声がガンガン鳴り響くから預言するのである」と言いました。

預言者エレミヤも、「主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません」(エレミヤ書20章9節)と言った。神が圧倒するように語りかけてくる。それをありのまま伝えれば、人々は彼を気違いだと言う。しかし、確かに語りかけるものがあって、黙っていれば苦しくなって困るほどだ、というのです。これは預言者たちに共通の心持ちでした。

私たちはどうでしょう。このような経験に入っているだろうか。もし入っていないならば、そのような経験を求めてみたい。私たちが、もしこの境地に達するなら、普通の人間を脱して違う人間になるのです。神の声を聞くからです。

今の時代、利口な人が幅を利かせる時に、私たちは少数でもいい、宇宙の偉大な声を聞いて生きるような、不思議な人生を歩いてゆきたい。そうでなければ聖書が証しされません。どうぞ、私たちは群を抜いたクリスチャンでありとうございます。

(1963年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2019年2月号 “Light of Life” に掲載されています。