信仰の証し「解体現場から見えるもの」

大宮太秀(だびで)
人は、私のことを「壊しのプロ」なんて呼んだりします。きっと、テレビ番組『解体キングダム』で、私が携わっていた解体工事が、全国で放送されたからでしょうね。
「壊しのプロ」の喜び
ある時、普通の建設会社では対応が難しい、古くなった水族館の解体案件が舞い込んできました。何が難しいかというと、厚さ約20センチ、縦横数メートルもある巨大アクリル板を、1枚ずつ壊さずに取り外す作業があったのです。
そんな工事は一度も経験がなく、しかも、大型プロジェクト番組の収録まで入ることになり、絶対に失敗は許されない。いやが応でも祈りに追い込まれました。
私は現場管理者として解体の実働チームを集め、何度も協議を重ねました。すると、重機修理担当者から、「大型ショベルカーのアームの先端にある、鋼鉄製のハサミの部分に硬質ゴムを取り付けてみてはどうか」という提案が出たのです。前例のない方法でしたが、それにかけてみることにしました。
作業当日、1枚数トンもあるアクリル板を1枚ずつ慎重に剥(は)がしていきました。ついにすべてを無事に撤去できた時は、「やれた! 神様、ありがとうございます」と思いましたね。完成した番組も、かなり印象的な映像になったようです。
私はこの土木建設会社に勤めて35年になります。今は主に解体業務に携わっていますが、最近は特殊な工事が多く、毎回挑戦の連続です。
解体の仕事は、一見地味に見えますが、意外と面白いんですよ。古い建物は、時に町の印象を悪くしてしまうことがあります。そういう建物を基礎から取り壊し、地面を更地にする。そこに新しい物が建てられると、町はきれいに生まれ変わります。その変化を目の当たりにして、やりがいと喜びを感じます。
それって、人の人生にも通じるものがありますよね。自分自身を振り返ってみても、ガタガタと崩れ落ちた末に今がある、そう思うことがあります。
十字架の血は
私は幕屋の信仰をもつ両親のもとで育ちましたが、小学4年生の時、母をがんで亡くしました。太陽のような存在を失い、私は心を閉ざすようになりました。
そんな自分を変えたくて、高校に入るとアルバイトを始めました。けれども、稼いだお金でバイクを買っては遠出をしたり、徹夜で麻雀(マージャン)をするような生活で、学校を停学になってもパチンコばかりしていました。
そんな私が高校2年のころ、4年ぶりに参加した幕屋の集いで、神様の臨在に触れる不思議な祈りの体験をしました。人生に何の希望も見いだせなかった私にも、生きる力がわいてきたのです。さらに聖書の舞台であるイスラエルに留学したいという夢が与えられ、20歳の時、父と幕屋の方々に送り出されて旅立ちました。
異国の地で学ぶうちに、勉強する楽しさを知った私は、現地の大学に進学したいと願うようになり、必死に勉強しました。そうして合格通知を受け取った時は、ほんとうにうれしかったですね。
しかし、現実は甘くありませんでした。次第に授業についていけず、勉強に身が入らない。1年目の終わりごろには進級が難しいと言われました。友人に励まされても自分を変えることができず、行き詰まってしまった私は、逃げるように学生寮を飛び出してしまったのです。結局、昔の自分に逆戻りしているようでした。
留学に送り出し、支えつづけてくれた父や幕屋を裏切ってしまった。そうわかっていても、戻ることはできず、捜しても見つからないような、荒野にある村に身を潜めました。そして約1年後、隠れるように日本に帰りました。実家に帰った私を、父は幕屋の集会へ連れていきました。一度逃げ出した身としては敷居が高く、自分の居場所などないと思いながら、いたたまれない気持ちで座っていました。
その集会で、伝道者の方が聖書と手島郁郎先生の著書を開き、イエス・キリストの十字架について語られたのです。まるで私にキリストの御心を諭すように。
「人生に挫折(ざせつ)して傷つき疼(いた)む時、まずキリストが十字架に血を流し、永遠の昔より疼みつつあることを知ってほしい。その御血をあなたの傷口より注ぎ、その永遠の御霊を貫流せしめ、全く罪よりあなたを贖ってくださる。それが、キリストの御血汐(おんちしお)です」
その言葉は、私の胸の奥深くに響いてきました。自分自身に挫折し、犯した失敗に苦しむ私のためにも、キリストは血を流し、疼んでおられる。それも永遠の昔から。そしてなお、「わが血を汲めよ」との思いで、私にも御血を注ぎ、贖ってくださる……。
私はそのご愛に触れ、涙しました。
生まれ変わる姿が
新しいスタートを切るために家を出て職業訓練校に通い、そこで紹介されたのが今の会社です。危険を伴う現場で働く中でも、大きな事故に至ることなく、守られていることへの感謝がわいてきます。
時には、1人でたくさんの重たい物を運ばないといけないこともあります。でもそんな時、ふと思うのです。多くの人の罪と重荷を負われたキリストの十字架の重さは、こんなものでなかった、と。
60歳を前にした今も仕事に追われる日々で、自分のことで精いっぱいになり、情けなく思うことが多いです。でも、十字架を背負うキリストを感じる時、私にかけてくださるご愛とご期待が迫ってくるんですね。そう思うと、共に歩んでくださるキリストのご負託におこたえしたいと願っています。
十字架の先には、復活という新生がありました。解体も同じように、その先には生まれ変わる姿があるんですよね。きっと、私が新生されることも、天では備えられていたのだと思います。
本記事は、月刊誌『生命の光』881号 “Light of Life” に掲載されています。

