聖書講話「信ずる心の力」使徒行伝5章11~16節
信仰と一口に言いますが、使徒行伝に記されているような、奇跡やしるしが伴う信仰とは何でしょうか。聖書には、本物の信仰があれば神の偉大なる力が引き出されるということが書かれています。信仰とは、思想や信条ではなく、人間の内面からわき上がる、救いを求める衝動です。
今回は使徒行伝を通し、不思議な神の御業を引き起こす信仰について語っています。(編集部)
使徒行伝には、初代教会の人々が生きた現実が生々しく書かれております。初代教会では持ち物を分け合い、共同にしていた。また、バルナバのように、わざわざ故郷の土地を売ってまで献金する人も出てきた。しかし一方で、アナニヤとその妻サッピラが偽って、土地を売った代金のすべてを献金したようにごまかしたため、ペテロが一喝し、夫婦共に気絶して死んでしまった、という事件もありました。
聖なる恐れ
教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。
使徒行伝5章11節
「おそれを感じた」の原文は、「おそれが起こった」です。霊的な、不思議な出来事が起きますと、人間の常識ではわかりませんから、何だろうと思って非常な恐れが起きます。これは、聖なる御霊に触れた時も同様で、うれしいながらも、ある恐れがあります。また、サタン的な嫌な霊にやられる時も、ある恐れがあります。ここでは、アナニヤ、サッピラの出来事を通して人々が恐れた、とありますが、いい意味でも悪い意味でも、このような出来事を通して恐れが起きるということは、よいことです。
ルドルフ・オットー(注1)という宗教哲学者が、『聖なるもの Das Heilige(ダス ハイリゲ)』という本を書きました。これは非常に画期的な名著ですが、今のクリスチャンは、「ホーリネス 聖」とは自分が道徳的に聖化されることと思っている。しかし、聖書で言う「聖」の意味はそうではない。神聖なる神の前に出た時の、身震いするような戦慄(せんりつ)、驚き、畏怖(いふ)の念を感ずる経験、それが「聖」なるものに触れる経験である、と言っています。
旧約聖書のイザヤ書6章には、預言者イザヤが聖なる神の臨在に触れた時、「わたしは滅びるばかりだ」と言って身震いしたことが書かれています。霊的なものに触れると何かわからないが、恐れを感ずる。ある抵抗を感じます。これが聖なるものに触れる経験です。そしてその聖なるものに触れているうちに、人間は次第に変わってまいります。
聖なるものに触れると、まず自分が打ち砕かれる。打ち砕かれて、心に新しい次元(ディメンション)が開けてまいります。新しい、高い生命が現れるために、一度何か身震いするような恐れというものを経験し、すっかり自分自身が砕かれるのは大事なことです。
神様はよいことを通しても人間を導かれますが、悪い出来事を通してでもお導きになります。アナニヤ、サッピラが主の霊に打たれたのを見て、「こりゃあ、信仰というものは、本気でやらなければ駄目だ。いいかげんにごまかしをやっていたらエライことになるぞ」と、皆が感じた。これは、初代教会に大きな戒めとして、よいことでした。そのことを通して、いいかげんな信仰者が入ってこなくなります。
(注1)ルドルフ・オットー(1869~1937年)
ドイツの哲学者、宗教哲学者。宗教の本質を非合理、神秘的なものとして、「ヌミノーゼ」と名づけ、独自の理論を展開した。主著『聖なるもの』は各国の言葉に訳されている。
多くのしるしと奇跡が
そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。
使徒行伝5章12~14節
12節に、多くのしるしと奇跡が使徒たちの手により行なわれた、とあります。神は、人間の目には見えない霊的な存在です。しかし見えないといっても、ないわけではありません。神の霊の働きの結果として、いろんなしるしや奇跡が行なわれます。「奇跡」という言葉は、目をみはるような不思議な出来事をいうのです。ペテロ、ヨハネなど、聖霊に満たされた使徒たちの「手により」、不思議な、奇跡的なことが次々と行なわれた。
使徒たちの手が不思議なことをやったというときに、この手がただの手ではない働きをしたことを意味します。私たちが神の御霊に満たされると、卑しい私たちの手足まで聖化されて尊い働きをするのです。
そして多くの人々が、「まあ、不思議なことが起きて、なんと信仰の御業は素晴らしいだろう」と言って、ソロモンの廊に集まってきておりました。しかし、「ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかった」(13節)と書いてあります。残りの人たちは、霊的なグループの中に入ろうとしなかった。どうしてか?
まあ、うっかり入ると、アナニヤ、サッピラのような目に遭うから、「あまり近づかないほうがいいよ」と思ったのでしょう。こういう人々は不思議な出来事が起きる時、驚き、尊敬はしても、あまり近づいてはきません。
これは現代の我々にとっても、ちょうど都合がいいんです。自然な形で神様が、よき魂といいかげんな魂とを分けてくださる。本当の信者とそうでない信者とを分けてくださるから、感謝なんです。ですから、そういう部外におりたい人、群れの中に入りたがらない人を無理に連れてくる必要はないんですね。
しかし民衆は、新しく興ったキリスト教というものに対して尊敬をした。そして、主を信じて仲間に加わる者が、男女ともますます多くなっていった。聖霊に満たされたペテロたちの周りには、本当の信者がいよいよ増えてきました。

(この敷地の東側に「ソロモンの廊」があったといわれる)
奇跡を起こす信仰とは
ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚(けが)れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。
使徒行伝5章15~16節
ここに、ペテロの影に触れるだけで、不思議に病人がいやされていったとあります。こういう記事を読んで皆さん方は、どうでしょうか。「そのとおりだ。アーメン」と言われるならば、使徒行伝をほんとうに地で生きている信仰といえます。
しかし「何だか今の自分と縁遠いなあ。こんなことは、うさんくさいなあ。もっと真理を説いてくれたほうがいいのに」とお思いになりはしませんか。もしそのように、こんな箇所を読んで共鳴共感しにくくなっているのならば、私たちの信仰にとって赤信号です。聖書に照らしてみると、赤信号だと言わねばなりません。
聖書はこのような信仰の水準に立っているにもかかわらず、こういう記事にちっとも共感を覚えないというのならば、まず私たちは反省する必要があります。これは皆様に申し上げることではありません。私自身に言い聞かせることです。しょっちゅう、何だか憂鬱(ゆううつ)で物憂いことがあります。そんな時にこういう記事を読むと、嫌だなあと思います。これは、聖書を説く者の立場としてですね。
それは、大概、自分の信仰が低迷している時です。そして自分自身、自分のそんな魂の状況に満足できません。満足できないというよりも、私がいちばんつらいです。ここに私自身の問題があります。否、お互いの問題があると思います。
信仰というけれど、いったい何を信仰と言っているんだろうか?
心の中に潜在する力
敗戦後、シュプランガー(注2)という人の本を読み、私は非常に共鳴を感じたことがあります。彼はドイツの有名な教育学者、心理学者ですが、次のような意味のことを言っています。
――ドイツは世界大戦において、残忍な罪過を重ね、一切の物をすっかり奪われてしまった。これは、ドイツ民族の内なる本質が失われたことの結果である。しかし、ドイツ人がそれを自覚しさえすれば、ドイツはまた立ち上がることができる。それは何か? 信仰、信ずるということである。信ずることは驚くべき力である。信仰は、魂の中に働く力学的なものである。もし信仰の心理学というものがあるならば、魂の中に働くエネルギッシュな、ダイナミックな力、心の中に働く力の関係を研究することである。
信ずるとは、この世界についてどのような「見解 Ansicht(アンズィヒト)」をもつかということではない。魂の中に”力の中枢”、原動力を見いだすことである。信ずる心がわき起こりさえするならば、一切の抵抗を排除してどんなところへも出かけていって、常に奇跡と不思議を見せるので、神話とか神秘な世界とかいう表象が生まれるのである――と。
私はこういう言葉を読んだ時、「ほんとうにそうだ」と思いました。信ずるといっても多くの人は、「あなたはクリスチャンなら、どんな考え、人生観、世界観をもっていますか」と言って、ある一つの宗教思想をもつことが信仰だと思っている。しかし、本当のダイナミックな信仰は、そうじゃない。「一念、岩をも徹(とお)す」という諺(ことわざ)があるように、どんな困難をも排除して貫き通して沁(し)み通って、自分の信じたところを実現せねばやまない心の働きです。心がもっているこのような力学性、これを含んだ信仰でないならば駄目だ。
ドイツ人の心の中に、「もう一度、ドイツの国を復興しよう」と、信ずる一念が燃え立って、どんな困難があっても克服してやまない、”信の一念”が駆り立てられさえするなら、信ずる衝動が起きるなら、これは恐ろしい力です。魂の力はそれなんです。魂の無意識の奥底から衝(つ)き上げてくる力、これを開発することがドイツの国を復興する道である、ということをシュプランガーが言っております。ただ宗教思想をもつことを信仰だと考えるのに対して、エネルギーの源というか、「力の中枢」ともいうべき信仰があるんです。
人間には表面意識といって、自覚的に意識の表面にいろいろな考えが浮かぶ心の働きがあります。それに対して潜在意識といって、心の奥底に潜んでいる意識があります。この潜在意識に、信仰というものすごい力がある。しかしながら、大概、表面意識がじゃましてしまう。心の中の潜在意識から込み上げるような力を抑えてしまいます。
自分の本心からわき上がるように、「神様、こうしたいんです!」といった衝動がありますと、それは自分では抑えがたい。こういう衝動を爆発させればよいが、表面意識が阻止するから欲求不満(フラストレーション)になる。そして多くの場合、思い切った信仰に出られません。
預言者イザヤは、敵国がエルサレムに攻め上ろうとした時、ユダの王アハズに言いました、「信なければ立たず」と(イザヤ書7章)。いちばん大事なのは、「信ずる」ということです。しかし、現代人が「信ずる」と言うときに、だいぶ変質してきています。それで、シュプランガーは言うんです、「敗戦のドイツ国民よ、民族の宗教性に還(かえ)れ! もう一度、信ずる力を回復したならば、それによってドイツ民族の再建ができるんだ」と。これは、ドイツ民族のことだけではありません。私たち個人個人についても、もう一度、自分自身を立て直すために必要なことは「信ずる」という問題です。
なぜ使徒ペテロには、彼の影に触れるだけで、病人たちにときめきを与えるような力があったのか。もし私たちにそれがないのならば、何かが間違っている。それは、ダイナミックな力が働かない信仰を、ただ大事にもっているからです。
(注2)E・シュプランガー(1882~1963年)
20世紀のドイツを代表する教育学者、心理学者。人間をそれぞれの価値観に基づいて、6類型に分類する文化哲学を展開。1936年に来日、各地で講演した。
心のスイッチを切り替える
学生のころ、私は、「工業概論」という授業を受けました。そこで最初に習ったことは、「ベルヌーイの定理」でした。流体のもつエネルギーがどのように変化してゆくかを表すものですが、たとえば山の上の湖を見ると、静かで美しいなあと思う。しかし、この山の上にある湖の水を、滝のように逆落としに落としますと、落差が運動エネルギーに変わり、水力発電機を回して電気を発生します。この水のポテンシャル・ヘッド(潜在する落差)はものすごい力を含んでいるわけですが、ただジッとしているだけでは力は起きません。
同様に私たちは、キリスト教の美しい静かな信仰をもっているだけでは駄目なのであって、これを行動(アクション)せしめるためには、活動状態に置くためには、何かのスイッチを入れなければならない。
たとえば、ここにマイクがあります。マイクのスイッチをオフにして私がしゃべっても、声は大きくなりません。しかし、オンにしますと拡声できます。私たちも、ちょっとした工夫で大きな声を、大きな力を、大きな動力を出せるのに、自分でスイッチを切っているんじゃないか。それで、どうして自分に力がないんだろう、信仰に力がないんだろう、と言っているんじゃないか。
私たちがこの使徒行伝の記事から学ばねばならないのは、「ああ、自分は電気をプツッと切ったオフの状態で信仰していた」と気づくことです。そんな静かな信仰が、何の役に立とうか。ドイツを復興せしめるのはエネルギーの中枢としての信仰だ、とシュプランガーが申しているように、エネルギー源をもたぬ信仰で、信ずると言っても何だろう。
私たちはただ静かで美しいだけの信仰をしていたが、どうしたら使徒行伝のようなアクティブな信仰をもつに至るのか。”私たちの心を、力の源としての神様に結びつけなければならぬ”ということです。これが、初代教会の人たちが知っていた信仰です。また、こういうタイプの人の信仰を、皆が尊びました。
エペソ人への手紙1章にこう書いてあります、「あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている」(18~19節)。
驚くべき力はキリストから来る。キリストの御名を呼び、キリストに接触しさえすれば、ものすごい力がガーッとやって来る、とパウロは言っております。
初代教会においては、ペテロが歩くと、「ペテロにあやかりたい、触れたい。ペテロのもっている雰囲気にあやかりたい」と思って、皆の人が病人を担ぎ出してきた。そうしていやされた。このようなアクティブな信仰のあるところ、力もまた働いてくるんです。
信仰は天の宝を引き出す
ある時、イエス・キリストは「向こう岸へ渡ろう」と言って弟子たちとガリラヤの湖に船出したが、イエスは眠ってしまわれた。ところが、途中で突風が湖に吹き下ろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。イエスを起こして「先生、私たちは死にそうです」と弟子たちが言うと、イエスは風と荒波とを叱(しか)ってお鎮(しず)めになられた。そして彼らに、「おまえたちの信仰はどこにあるのか」と言われました(ルカ福音書8章)。
私たちは信仰をもっていると思いながら、いつの間にかどこかに信仰が行ってしまっている。どこかに信仰が引っ込んでしまう。そして恐ろしい時が来ると、慌てふためく。
ここでもう一度、どこかに失われてしまった信仰を回復しなければなりません。「おまえたちには信仰がない」と、イエスは言われたのではない。「信仰をどこにやったんだ」と言われたんです。私たちが、この使徒行伝の記事を、どうも読みづらいなあと思う時に、「おまえたちの信仰は、どこにあるか。どうして共鳴できないのか」と、キリストがお諭しになっている気がします、特に私に対して。
信仰といっても、本当の信仰と、どこかに潜在させてしまっている信仰とがある。潜在しているものは、どうしても活動状況にポイントの切り替えをしなければなりません。
パウロもコロサイ人への手紙の中で「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(2章3節)と言っています。私たちは、ただそういう聖句を読むだけでなく、ほんとうにこの宝を引っ張り出し、自分のものにしなければなりません。
「すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ」とキリストは言われたが、そのような信仰と今のキリスト教の信仰は、ずいぶん隔たっていると思う。
どうぞ、今日もう一度、この聖書の記事のごとくにアクティブな信仰、ダイナミックな積極的な信仰にスイッチの切り替えをしとうございます。心の力、信ずる力は、岩をも徹すようなものである。そういう信仰に目覚めとうございます。
祈ります。深い呼吸をして……どうぞ、キリストに直結してください。キリストの力が私たちの内に臨み、私たちを通して、キリストが働くような信仰をもちとうございます。
キリストのお父様、今も御名を呼べばこたえてくださいますお父様、私たちはほんとうに幸福でございます。何でもあなたに申し上げるだけで、私たちの必要をすべて知りたまい、備えたもう愛の神様でございますから、心から御名を賛美いたします。
皆が信ずる力を失っております時に、どうか私たちを信仰の子にしてください。皆が、尊い宝を地中に埋めてしまっております時に、もう一度私たちは、日の目を見るように信仰を掘り起こして生きてゆきとうございます。多くの悲しんでいる者、慰めを要する者、病んでいる者がいます。けれども主よ、あなたは御名を呼べば今も生きて力となり、偕(とも)なりたまいます。どうぞ、叫ぶことを教えてください! どうぞ、一人ひとりにあなたの力を帯びることを教えてください。
(1970年)
本記事は、月刊誌『生命の光』880号 “Light of Life” に掲載されています。

