聖書講話「新しい人類の発生」使徒行伝3章19~21節
イエス・キリストの弟子たちは2000年前の聖霊降臨(ペンテコステ)によって、全く違う人格に変えられました。キリストの宗教において最も大切なことは、今もこの聖霊が働いて、生まれながらの人間が変えられ、神の子となることです。
前回(872号)に引き続き、聖霊を受けた弟子のペテロが、奇跡的な業(わざ)に驚いて集まってきた人たちに語った箇所の講話です。(編集部)
キリスト教では、「イエスの御名を信じたら、それで救われる」と申します。また、「ただ信ぜよ。信ずる者はだれでも皆救われる」と言う人たちがいます。そうかもしれません。しかし、それには大事な前提があります。「回心」という経験です。
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである」
使徒行伝3章19~20節
足の不自由な乞食を立たせるという奇跡に驚いて集まってきた人々に対して、ペテロはイエス・キリストを伝え、「自分の罪がぬぐい去られるように、悔い改めて本心に立ち帰れ」と言っております。ここにある「悔い改める μετανοεω メタノエオー」というギリシア語は「後悔する、懺悔(ざんげ)する」という意味ではなく、「心が引っ繰り返る、回心する」です。神の御前から来る生命の流れに触れて、心が引っ繰り返り、変わるのでないならば、罪がぬぐわれ聖(きよ)められるという経験はないのです。
キリストは伝道の最初から、「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました(マルコ福音書1章)。悔い改めずに、ただ信ずるのが信仰ではありません。それでしたら、口で唱えるだけの念仏と変わりありません。口では念仏を唱えながら、地獄のような心の人がいます。普通のままの人間が、ただ「イエス様」と信じて口にしたところで、それで救われるのではありません。大事なことは、悔い改めて回心することです。それなくして、罪がぬぐい去られるという経験には入りません。
では、どうしたらそのように罪がぬぐい去られるのかというと、この20節でペテロが、「それは、主の御前(原文は「御顔」)より出(い)ずる慰めの時が来て、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神が遣わしてくださるためである」と語っております。「慰めの時」は「息づきの時、生命が一新される時」という意味です。
救われるのは、主の御顔から発する息づきの時が流れてくるからである。ただ過去から現在、未来へと流れてゆく時ではない。神の時は、神の御前から流れてくるというんです。ヨハネの黙示録にも、「神と小羊との御座から流れる生命の水の川がある」ということが書かれていますが、この生命の流れ、聖霊の生命がやって来る時、人は息づきます。
今まで信仰のなかった人が、この聖霊の生命の流れにぶち当たりますと、急に目覚めたように生き返らされる。ここに、私たちがこうやって集会を開き、生命の流れに触れることを求める理由があります。そうするとイエス・キリストが、その息づきの時の流れに乗って来られる。このことを抜きにして、私たちがどれだけ教会に行ったり、「イエス様、イエス様」と空念仏を唱えてみたりしても、キリストの臨在感をもたないでしょう。
どうしたらキリストの臨在感をもてるかを、ペテロは初代教会にこうして訴えております。主の御顔から発する時間がある。それは、私たちが今嘆いているような、やがて死ぬべき人間の有限な時間ではなくて、永遠の世界から流れてくる時間です。未来から永遠の生命の流れが私たちに流れ込んでくる。その時に、流れが変わると水車が逆回転するように、私たちの心の歯車は方向を変えて、天を目指す。栄光のキリストの世界に回心する、という経験があるんです。これがペテロの説いている宗教経験です。

キリストにあって新しく
今まで「過去が悪いから現在も駄目だ」と言って呻(うめ)いていた者が、急に一転して神を目指す魂に変わる。過去から現在、未来へと過ぎ去る流れではない、永遠の未来からやって来る流れに乗った、”新しい人類の発生”、新しい生命の発生、これが原始福音です。
だからパウロは言います、「だれでもキリストにある者は、新しい被造物である。古きは過ぎ去り、見よ、一切が新しくなった」(コリント人への第二の手紙5章17節 私訳)と。こういうことは、聖霊の流れ、主の御前から出ずる時の流れ、永遠の生命の流れというものに触れるような経験がないとわからないのであります。
ある人が私たちの信仰を批判して、「もう聖霊はどうでもいい。イエスの名だけを呼んだらいいじゃないか。そうしたら救われる」と言います。そんなに簡単だったらみんなが救われますよ。だがなぜ救われないのか? この神の御前から出ずるリバイバル(よみがえり)の息吹、生命の流れにガーッと自分が引っ繰り返るような経験、これを欠いでいるからです。
ひとたびこのリバイバルの時に出合いましたら、ほんとうに古きが過ぎ去ります。
この4月(1970年)、東京の池上一也(かずや)さんは、がんの末期で呻いておられました。この方は戦時中に陸軍の参謀だった方で、私たちの集会にはほとんど来られたことがありません。私は祈りと共に花束を娘に託して持ってゆかせました。名刺に「池上様、神の御平安を祈りつゝ 合掌」と書いて一緒に差し上げましたが、その名刺を奥様が読まれたら、池上さんは花束を抱いて、喜びのあまり男泣きに泣いて感激されたといいます。この方は、病床にあってこの生命の流れに触れて、すっかり心が引っ繰り返ってしまわれた。十字架上のイエス・キリストが、隣にいた盗人に「今日、なんじは我と偕(とも)にパラダイスに在(あ)るべし」と言われた時のような変化が、池上さんにも起きました。
神の時の流れに触れると、こういう回心が起きます。「今までどうして知らなかったんだろう」と言って、ほんとうに目が覚めた気がするものです。先々に延ばしてはいけません。今日、お互いが皆この経験に入りとうございます。そうすると、古い自分はすっかり変わって、新しい歩みが始まってきます。
十字架にかかって死んだはずだと思われていたイエス・キリストが、霊の息吹、息づきの時に乗ってやって来られると、「まあ! 主イエスは生きて、今も生けるキリストとしてお働きである」と言って、復活のキリストがまざまざとわかります。
聖書に見る2種類の人間
「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」
使徒行伝3章21節
私たちは地上にいますが、キリストは天に在りたもう。天と地が接するようになるまで、キリストは天に在りたもう。この「万物更新の時」とは、原文を読むと「すべての復興、回復の時」という意味ですが、同じ言葉が使徒行伝の最初にも出ております。
「主よ、イスラエルのために国を”復興なさる”のは、この時なのですか」(1章6節)。この「復興」ですね。すなわち救世主(メシア)がやって来て、新しい神の世紀が、神の国が始まることをいうのです。私たちにおいて救いとは、この新しいキリストの王国、支配に、新しい天地に入ることをいいます。その時に、本当の意味の祝福が、神の祝福が臨みます。
詩篇17篇で、ダビデにおいて「救い」とは何か、彼の祈りを通して言っております。
「主よ、……自分の分け前をこの世で受け、
あなたの宝をもってその腹を満たされる
世の人々からわたしをお救いください。
彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残すのです。
しかしわたしは義にあって、み顔を見、
目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう」(14~15節)
「救われる」とは、どういうことか。普通の人間から一歩脱するというか、魂が一般の人と異なる領域に入ることをいうのであります。
現在、私たちが住んでおります世界には、信仰的にいうならば、2つの人類というか、2つの人種があるといえます。
1つは、「自分の分け前(嗣業)をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる世の人々」です。彼らは「多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残す」という。
彼らは目の前の世界だけを所有し、出世し、満腹している。なお有り余るものをもったら、自分の子孫に残したがる。現代でも、代議士にでもなると、その地盤を息子に譲りたいといって、権力を残すことを計っている。これが一般の人々というものです。
それに対して、もう1つの人種は、この世では乏しく貧しく見えても、ほんとうに”未来”を所有したいと、理想的な未来を希望し願っている人々。このように2つの種類の人間があるということを、ダビデは祈りの中で申しております。そして、「世の人々からわたしをお救いください」と言っております。
ダビデの祈りは、「今、義にあって御顔を見、死んで天上に目覚める時には、神の御像(みかたち)を見て満足するような人間としてください」ということでした。
これは何も、厭世的(えんせいてき)な思想ではありません。ダビデは、貧しく卑しい羊飼いの牧童から身を起こして、百戦百勝、戦(いくさ)で武功を立て、ついにはサウル王の後、イスラエルの王となりました。この世的に言うならば、成功した人間です。しかし、そのように王様となって栄華を極めながらも、彼の心は寂しかったのでこのように祈ったのです。
彼は、必ずしも正義一点張りの人ではありませんでした。ある時は人妻に手をつけ、その夫を戦場に送って死なすような、貪欲な男でした。しかし、後で罪を犯したことに苦しんでは、「もう二度とあんなことをしてはならぬ」といって神の義を、救いを求めました。
「義にあって御顔を見る」というが、人は「御顔を見て満足するなんて、つまらない。美味(おい)しいものでも食ったほうがいい」と考えるかもしれません。
ですが昨日、若いお母さんたちが、赤ん坊を連れてきておりました。彼女たちは、子供をしげしげと見つめて満ち足りているんですね。生まれたばかりで、言葉もよくわからないのに話しかけて、あやしている。母親は、赤ん坊をどれだけ見ても見飽きないでいる。
同様に、神様に対して「主よ、御顔を隠さないでください」と祈ったのがダビデでした。こういうダビデのような種類の人と、そうでない人がいます。
未来への希望に生きる人間
人間は、ダーウィン流に言うならば、類人猿の一種から進化してきた生物です。しかし、この人間は不思議なことに、まだ見ない神様の御像、それを見上げて満ち足りるまでになりたいという未来への希望をもつものです。だから宗教があるのです。宗教は未来を求めることであって、過去の、類人猿の時代の性質を引き継いでゆくこととは違います。何を求めるかにおいて、2種類の人間に分かれるのです。ダビデは、小さいながらも未来を求める、新しいタイプの人間でした。
旧約聖書をひもといてみると、そういう人間が次々と現れています。最初に現れたのはアベルでした。しかし、弟のアベルに対して殺人を犯した兄のカインのように、神に抵抗し、神なんかどうでもいいと思うような人間、未来よりも過去から引き継いだままの現在を大切にする人間がある。
サルから進化しただけの人間は、どれだけ修養努力し、教養を積んでも、紳士淑女とはなるかもしれませんが、イエス・キリストや、神の御像を求める神の子とはなりません。神の御民と称せられるような人類とはなりません。
しかし、そのようなサルから進化しただけの人類の中に時々、神様は永遠の世界から永遠の生命を突っ込んでは、新しいタイプの人間をお創りになる。その全く完成した姿としてイエス・キリストがお現れになり、やがてキリスト族ともいうべき人種をお創りになりました。初代教会の一群がそれでした。
私たちの魂には元来、神の御像を、似姿を入れることができるのです。それは旧約聖書の創世記1章に「神は自分のかたちに人(アダム)を創造された」とありますように、人間は神の似姿であるからです。
ところで、土から創られた人間、サルが進化した人間は、文化人となりました。しかしどんなに文化が進んでも、大学教育が普及しても、ちっともよき人は出てきません。頭の賢(さか)しらな人間は出てきます。また、この地上で腹いっぱい満足し、この世の栄誉と富を夢中になって喜ぶ人は多い。しかし、イエス・キリストのような人間は出てきません。
西郷隆盛は「児孫の為(ため)に美田を買わず」と言いましたが、彼は明治維新の元勲として最高の地位を与えられた人です。だが、それをかなぐり捨てて鹿児島に帰り、百姓をしたりしました。彼は、「敬天愛人」を生涯の座右銘として生きた人でした。こういう生き方は、未来に生きる人間、未来の理想を目がけて生きている人間でないとできませんよ。
生死を越えて地上を強く生きる
このように、未来の呼び声に応じて生きている人間と、過去から現在にと流されてゆく人間と、この2つのタイプの人間がある――こう聖書は言っているんです。
すなわち、詩篇17篇にあるように、自分の分け前をこの世で受け、取り込むだけ取り込んだら独占して動かない人間。彼らは、いかに自分の腹(欲)を満たすかという”現在”だけが大事です。未来を考えるにしても、世の人々はせいぜい自分の老後のために保険に入ったり、家を建てたりするくらいです。よくても自分の子供たちに財産を残すくらいでしょう。それ以上の大きな未来は考えない。いずれにしても短い地上限りのことです。
世の人々にとってそれ以上は夢みたいなことでして、「義にあって御顔を見、死んで天上で魂が目覚める時に、御像を見て、満ち足りる」ことを願う人、”現在を犠牲にしてでも未来を大事にする”という人は、ほんとうに少なくあります。
この短い地上の人生に生きることしか考えていない人と、死のかなたまで生きようとしているダビデのような人との間には、やがて大きな開きができます。
ダビデが、「この世の人々、サルから進化した紳士淑女――地位を、富を、権力を求める一般人から、救ってください」と祈った時、決してこれは世をはかなんでいるのではありません。彼の生きようとしていた世界が、もっと大きな、高い、広い、深い世界であったことを示すんです。宗教は、それを知ることにあります。
その時に、この地上においても強く生き、人のできないこともやってのける。多くの人が自分という殻に閉じこもってしか生きず、あるいは過去か現在しかもとうとしない時に、永遠の未来に向かって死を越えてでも生きようとする生きぶり。これこそ、キリスト教に限らず、宗教というものが与えようとする道であります。生死を越えしめるものがある。
まだ見ぬものを真実として
「神は人間を神の御像に似せて創られた」。私たちは神の子、神に似た存在である。その本来あるべき自分の姿、それを求めて、その域に達して、「アバ(※注)、父よ、お父様!」と言って、神の御像を見上げる時の満足感を思ったらたまらない、と詩人ダビデは言う。
これが一流の信仰です。生死を越えて生きている信仰です。現在の自分というものに閉じこもることに満足しないで、もっと遠く、もっと高く、もっと広く、もっと深く宇宙の底まで見つめて、この大宇宙を創りたもうた主を見上げる信仰です。見えない宇宙の底まで見る心! これがダビデなり、モーセなり、エリヤなり、またサムエル、イザヤ、そしてイエス・キリスト、パウロ、ペテロたちの霊統であります。霊の血統であります。
彼らは、まだ見ぬものを真実(まこと)とし、見えないものを今見るかのごとくに求めていた人々でした。ですからヘブル人への手紙11章は言います、「信仰によって彼らは見えない方を見ているようにして、忍び通した」と。
自分の本来の面目は地上では十分に現れていない、天上に行くまでは現れていない、といって現在まだ見ぬものの像(かたち)を見るように生きた。まだ見ないものを夢みつつ、天上で神の御像を見るならば、きっと満ち足りるでしょう、と申すのです。
このような新しい人類の住む新しい天地! 天上において、「天の甘露」ともいうべきものによって満たされる気持ち、この天の賜物は、地上の嗣業とは格段に違うものです。
初代教会においていつも説かれていたのは、ペテロの言うとおり、「死んだはずの、十字架に血を流したあのイエス・キリストは、よみがえって今も天において働いておられる。働いておられるから、こんな不思議なことが起きるのである」ということでした。
このように、今も生きて伴いたもうお方がありますから、私たちは粘って粘って、祈りに祈って生き抜きとうございます。多くの人が、この世の狭い、短い人生で、富や出世ということを念願しております。しかし、私たちは死生の関を越えてでも、「神様、地上において、義にあってあなたの御顔を見上げてたまらないほどの喜びを覚えました。どうぞ、なお死後、天に目覚める時には、あなたの御像を見まつるような者にしてください。こういうタイプの新しい人類となり、新しい祝福に入らせてください」と祈りとうございます。
(1970年)
(※注)「アバ」は、新約聖書時代の口語であるアラム語で「お父さん」の意。
本記事は、月刊誌『生命の光』875号 “Light of Life” に掲載されています。

