敗戦80年に寄せて「手帳に綴られた記憶」

長崎港と町並み
平政紀

今年は敗戦から80年。特別な思いで8月を迎えました。

私も家内も終活を始める年齢になりました。荷物を整理していて、今まで更新してきた過去の被爆者健康手帳を手にすると、私の人生に起こった大きな出来事を思い起こさずにはおられません。

敗戦当時、私は4歳でしたから、記憶は断片的にしか残っていません。しかし、私たちの年代の者は、戦争を体験した最後の世代になると思うのです。ですから、子供たちや孫たちに、伝えておきたいことがあるのです。

それは、長崎で原爆を体験したこと、また人生の暗闇の中にいた時に幕屋と出合い、キリストを発見したことです。

1キロの差

父が三菱重工の長崎造船所に勤めていたので、私たち家族はその社宅に住んでいました。

原爆が投下された8月9日の朝、偵察機が飛来してきたことを告げるサイレンで、私たちは地下にあった防空壕(ぼうくうごう)へ避難していました。

しばらくして、「ドーン」という破裂音が聞こえてきました。耳が取れてしまうのではないかと思うくらいの音で、幼かった私は必死に耳を押さえたことを記憶しています。そうして、上の階から大人たちの騒ぐ声が聞こえてきたので、恐る恐る行ってみると、山の向こうに大きなキノコ雲が見えました。あの雲は今も鮮明に覚えています。

何が起こったのか理解できないまま、私たち家族は、ともかく避難しないといけないと、市街の焼け野原を通って駅へ向かいました。その途中で見た、「水を下さい、助けてください」と人々が呻(うめ)いている光景は忘れられません。当時27歳だった母は、「これは新型爆弾だわ」と言っていました。

私たち家族は、爆心地から約5キロの場所にいました。実はその1週間前に、それまで住んでいた所より1キロほど爆心地から遠い、別の社宅へ引っ越していたのです。引っ越しが1週間遅かったら家族が助かることはなかった、と聞かされました。

心身を蝕(むしば)む影

しばらくして、新型爆弾が原子爆弾であったことを知りました。それから私たちは、父の実家がある鹿児島に避難し、終戦を迎えました。

そこで私は高校を卒業して、大阪にある印刷会社に勤めることになりました。当時は運動が得意で、学生時代はホッケーで国体に出場するくらい、体力、気力共に旺盛(おうせい)でした。

しかし、被爆した影響は確実に私の体に影を落としていたようで、就職して少しした時、突然、喀血(かっけつ)して倒れてしまいました。

病院で、結核との診断を受け、休職して療養所に入ることになってしまったのです。

療養所では、多くの宗教団体が活動していました。当時はまだ結核の特効薬がなかったので、患者たちは薬でないものに頼るしかなかったんですね。

隣のベッドにいた人が聖書をくれました。そして、キリスト教の集いに顔を出すようになったのです。そんな私のもとに牧師がやって来て、「イエスを信じていたら、あの世で天国へ行けますから大丈夫ですよ」と言うのです。私は、今、元気になりたいのに、あの世で救われるなんて受け入れられませんでした。

3年ほど療養して退所したのですが、すぐに再発。再入所することになった時には、社会復帰ができない体になってしまったと、心が闇(やみ)に押しつぶされてしまいました。

クリスチャンの集いに行く気にはなれず、何もすることがなく1人で聖書を読んでいました。そこに、ある看護師の方が来て、「平さん、これ読んでごらん」と言って冊子を置いていきました。

それが『生命の光』で、この1冊との出合いが、人生を大きく変えてくれたのでした。

ドクドクと流れる血汐(ちしお)

それを開いて読んでみると、療養所で配られていたどの冊子とも違う。手島郁郎という方が、聖書の信仰は死んでから救われるのではない、生けるキリストは今、私たちの運命を変えてくださる、と書いていました。

「これだ! これこそ私が求めていた生きる力だ」 と、私は胸が熱くなりました。消灯時間を過ぎても『生命の光』をむさぼり読みました。

私はどうしても手島先生にお会いしたくて、外出許可をもらって、幕屋の集会に行きました。会場に入った時から空気が違いました。イエス様を慕って人々が集まっている雰囲気で、療養所での集いとは全く異なっていました。

その集会で歌われていた、主の御血を賛える賛美歌や祈りが、私の体にしみ込んでいくようでした。イエス様がおられた2000年前の世界にタイムスリップしたようで、夢見心地で療養所に帰ったことを記憶しています。

その時から神様に祈りたくてしかたなくて、毎朝、療養所近くの松林で1人祈りました。幕屋の集会で教えてもらった賛美歌を、何度も歌いました。

そして「天のお父様」と祈っていたら、「ドクン」 と体の中で音がしたのです。すると今度は「ドク、ドク」と脈が速くなっていきます。私は、古い血が入れ替わって、今までとは違う新しい血が体じゅうに流れはじめている、と感じました。

人生に絶望していた私の中に、キリストの御血が流れだしたのです。自分が全く新しくされていくことを覚え、「おれは生きていける」と感じて、うれしくてなりませんでした。これが、私の決定的な回心の体験でした。

時間はかかったものの、体も元気になっていきました。でも、その後も次々と病にかかるので、国に申請したら被爆者健康手帳が届きました。その時に、はっきりと自分が被爆者であることを意識しました。

晩年に思うこと

原爆から救われたこと、また戦後、キリストにお出会いして重度の結核から起(た)ち上がることができたことは、自分に何かがあったからではありません。

私の被爆者健康手帳に綴(つづ)られている病の記録は、原爆症と認定されたもので、確かに被爆した影響が体にあるのでしょう。

でも、この記録は私にとって、絶望を希望に変えてくださったキリストの証しなのです。

私の家内は沖縄出身で、米軍の沖縄上陸を身近に体験した者です。原爆や地上戦を身をもって知る私たち夫婦にとり、8月15日は1年の中でも特別な日です。毎年、英霊の方たちへの感謝と共に、日本の行く末を案じて祈りつづけてきました。

体は以前のようには動かなくなりましたし、先日、医者からは心臓もだいぶ弱ってきていると言われました。あとどのくらい地上での時間が残っているかはわかりません。

それでも子供たち、孫たちに口が動く限りは語り、手が動く限りは手紙を書いて、私を救ってくださったキリストを伝えていきたいと願っています。


本記事は、月刊誌『生命の光』869号 “Light of Life” に掲載されています。

日々の祈り

前の記事

8月18日New!!