「使徒信経」の中の「我は聖徒の交わりを信ず」は、一般には、地上に生きている信者同士の交わり、と考えられている。しかし、聖徒・キリスト信者の交わりというものは、地上での交わりにとどまらない。

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 古くからキリスト教徒の信仰告白の標準と目されてきたものに、「使徒信経」がある。その後半は、「我は聖霊と、聖なる教会と聖徒の交わりと、罪の赦(ゆる)しと、身体(からだ)の甦(よみがえ)りと、永遠の生命を信ず」となっている。

 「聖徒の交わり」とは、単に同信のクリスチャン相互が交際することを意味するのであろうか。または神学者・バルトが言うように、「教会とは、聖徒の交わりである」との言い換えであろうか。

 私はそう思わない。へブル書11章には、「信仰とは、望むところを確信し、見ぬものを真実とすることである」とある。だから「信ずる」というには、何か見えない、及び難きことについて、それが言われているのでなくてはならない。

 聖徒とは聖霊にあずかり聖別せられた信者のことである。地上のみならず、死んで天上にある聖徒をも指す。このような聖徒たちの間では、生死を超え、時間空間を超えて、霊的に交通を行ないうる。その事を信ずることにある。

 たとえそれが、千里(約4000km)を隔てた未知の友であろうが、教会教派を異にする者であろうが、あるいは、地上に生きる者と他界した者との間柄であっても、互いに霊交が可能である。それを信ずることにある。それはその可能性を信ずることではない。

 実に「聖徒の交わり」は、初代教会においては確実な経験であった。地上にある聖徒同士の霊交なら、信じられても、他界した者と交わることは信じられぬ、という人もあろう。だが黙示録その他を読んでも、またはその後のヒエロニムスやアウグスチヌスなどの教父たちが、天上にある聖徒の栄光の中から、自分のために執り成しつつあることを信じ、感謝しているのを見ても、それが偲(しの)ばれる。近代においても、スウェーデンボルグやスンダル・シングなど、いかにこれを鮮やかに、喜ばしく経験していることよ!

 私たちは、幕屋から巣立って天上に逝った友に対し、単に彼らを追憶し、記念するにとどまらず、進んで彼らと霊交し、彼らの霊感に励まされ、天地呼応して、「御意(みこころ)の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつ進んでゆきたい。どんなにか、天上の友らが、私たちを霊感しようとして、待ち構えていることよ!

(1955年)