石井十次(いしいじゅうじ)は岡山で孤児院を開き、一時は1200人もの子供を預かりました。子供たちから「石井のお父さん」と慕われ、48歳で亡くなるまで、生涯、孤児になった子供たちを育てることに情熱を注ぎました。

 十次は江戸時代の終わりごろ、慶応元年、宮崎県の高鍋(たかなべ)に生まれました。

 お父さんは高鍋藩の武士で、しつけには大変きびしい人でした。けれども、人への情けは厚い人でもありました。

 お母さんは面倒見がよい人でした。自分の家も裕福ではありませんでしたが、困っている人がいたら自分の着ているものや、夕飯のおかずなどを、「十次や、これをあの家に持っていっておやり」と言うような人でした。

 十次が7歳の時のことです。近所に松吉(まつきち)という同い年の子が住んでいました。松吉の家はとびきり貧しく、ぼろぼろの着物を着て、いつも鼻水をたらしていました。近所の子供たちから、

 「松がきたぞー」

とたたかれたり、けられたりしていました。どんなにいじめられても、松吉は目にいっぱいの涙をうかべて、じっと我慢しているだけです。そんな松吉をいつも助けるのが十次でした。

 秋の天神祭(てんじんまつり)の日がきました。朝から村じゅうの人がそわそわとしています。神社の境内には、にぎやかに出店がでて、みんな着飾ってお祭りに出かけるのです。十次は、お母さんが縫ってくれた新しい着物に、これまたお母さんが織った新しい帯を締めてもらいました。

 「さあ、行っといで」

とお母さんに、背中をぽんとたたかれて飛び出した十次は、うれしくてたまりません。思わず小走りになっていました。

 十次が境内についたとき、大鳥居のそばで子供たちが集まっています。のぞいてみると、松吉が数人に囲まれてまたいじめられていました。

 「おい、見ちょっせ、松吉が藁(わら)のなわの帯しちょる」

 「松吉よ、その上等な帯いくらした、100円か200円か言うてみー」

 「そんな帯締めとると、天神様のばちがあたるげな」

 子供たちに囲まれて、松吉は動けなくなっています。それを見た十次は、輪の中に入っていきました。そして、自分の帯を解いて松吉に差し出しました。

 「これ締めな」

と言うと、松吉のなわの帯をするっと解いて、自分の腰にまきました。これには、周りにいたいじめっ子たちもびっくり。

 「しらんぞー」

と言いながら、みんな逃げていってしまいました。十次は松吉の腰に自分の帯を締めてあげました。

 「これ、もろうていいの」

と松吉がおそるおそる聞きました。

 「ああ、いいよ」

 「しかられん?」と松吉が不安そうな顔で見ます。

 「心配いらんって」と十次。

 「さあ、松ちゃん何か食べようよ。大丈夫、今日はお金もらっとるから」

 十次が元気に言うと、松ちゃんもにっこり笑って駆け出しました。

 十次は、夕方になって家の前まで帰ってくると、急に不安になってきました。お母さんが幾日もかかって作ってくれた帯をあげてしまった。お母さん怒るかな……。お父さんはきっと、どなりつけるだろう。勝手口にまわってみました。茶の間でお母さんが一人で縫い物をしているのが見えます。そおっと「ただいま」と言いました。十次の姿を見たお母さんは、

 「まあ、その帯はどうしたと」

と聞きました。十次は、松ちゃんにあげたことを素直に話しました。するとお母さんは、

 「ええことしたね。その気持ちを忘れんでね。あんたの帯はまた母さんが織ってやるから」

とやさしく言っただけでした。

 それから10年たちました。世の中や国のために役に立つ人になりたい、と思った十次は、東京の学校に行きました。けれども病気になり、すぐに九州に帰らなければならなくなりました。

 それでも自分ができることは何かないかと、友達と開墾(かいこん)の仕事をしましたが、うまくいきません。次々仕事につきますが、どれも長続きしないのです。仲間とお酒を飲みすぎて暴れ、警察に捕まったりもしました。

 「ああ、自分は何のために生まれてきたのか」と心焦る日々でした。ついには体だけでなく、心も病気になっていました。

 ある日、かかりつけの医者のところに行くと、

 「君はこのままでは、ほんとうにだめになってしまうよ。何か立ち直るきっかけになるものはないかと思ってね……」

と一冊の本を渡されました。表紙に「聖書」と書いてあります。

 「聖書って、耶蘇(ヤソ)の本じゃないですか。私はさむらいの子ですよ、こんな本は読めません」

 十次は本を突き返しました。

 「そう言わずに少しでも読んでごらん。きっと君のためになるよ」

 そう言われても、いやなものはいやです。そのまま診察室から出ていってしまいました。

 自分の部屋に帰った十次は、昼間だというのに、お酒を飲んで寝てしまいました。夕方、目がさめると、戸口に薬の袋と聖書がおいてあります。「先生、よけいなことをっ」と薬と聖書を壁に向かって投げつけました。薬がばらばらになり、聖書が開いたまま畳の上に落ちました。

 「ぼくは人のために少しでも役に立ちたいと思っていたけれど、何もできない。もうどうしていいかわからない……」

 その時です。お祭りでもあるのでしょうか。「とととん、とんとん」、風にのって祭り太鼓の音が聞こえてきました。十次の胸に天神祭の日のことが鮮やかに甦(よみがえ)ってきました。帯を締めた松ちゃんのうれしそうな顔。

 「松ちゃん、ぼくはだめな人間になってしまった……」

 たまらなくなった十次は、投げつけた聖書を手にとりました。

 「ほんとうにこれを読んで、変われるものなら……」

 十次は開いているところから読みだしました。ふと、

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」

というヨハネ伝のイエス様の言葉が目にとまりました。それを見た十次は心がふるえました。神様が自分に語りかけてくださったように思えたのです。

 「こんな何も役に立たないような自分でも、神様が選んでいてくださる……」

 不思議に涙が次から次へとこぼれました。

 「神様、ぼくは生まれ変わりたいです。もう一度やり直して、神様のために生きる人になりたいです」

 十次は久しぶりに、自分の心から霧がはれていくのを感じました。

 それからの十次は何をするにもまず神様に大声で祈りました。孤児院を始めるときも、孤児院の経営が立ち行かなくなったときも、すべてを神様に祈りました。祈りの人、石井十次はこの日から始まったのです。

(おしまい)
*この物語は、石井十次の伝記を元に作りました。
【文・さとう よしこ 絵・やまもと くみこ】