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 私が台湾の南部、台南県の中央にある烏山頭(うさんとう)水庫(ダム)を訪れたのは、昨年(2002年)の秋でした。小高い60メートルほどの丘の上に着くと、静かな鏡のような湖面が広がっていました。丘と思っていたのは土でできた堰堤(えんてい)で、長さは約1300メートルもあります。

 この烏山頭水庫は、日本人技師・八田與一(はったよいち)さんの名前にちなんで、「八田ダム」と地元の人々によばれています。堤の上からは嘉南(かなん)平野が見渡せ、遠くは霞んで見えません。その広さは香川県と同じで、いまでは台湾一の穀倉地になっています。

 台湾は、むかし日本が統治するまでの約400年間、オランダや中国清王朝の支配を受けましたが、積極的な開発はされませんでした。たとえば、この嘉南平野の水田も「看天田(かんてんでん)」とよばれ、その年の天候に左右されました。

 毎年、雨季には洪水に襲われ、田畑や家が流される。乾季には干ばつになりやすく、せっかく育った作物も途中で枯れてしまう。また、海岸近くに住む農民は、飲み水に不自由し、4、5時間もかけて水汲みにいくという悲惨な生活を送っていました。そのような台湾を、日清戦争で勝利した日本は、中国から譲りうけました。

 台湾の人々は、日本人が来ても、それまでの統治者と同じだろうと思いました。しかし、そうでないことは、すぐにわかりました。日本は日本国内と同じような、いやそれ以上の熱意をもって、台湾の開発を始めたのです。

 開発の基になるのは人です。そのために日本国は、政治、教育、土木など、あらゆる分野に、当時の一流の人物を数多く送りました。乃木希典、後藤新平、新渡戸稲造などの指導者や、八田與一さんのような技師たちです。

 八田さんは東京帝国大学の土木科を卒業すると、明治43年(1910年)台湾の農地開発計画を任されます。24歳の時です。

 4年の年月をかけて、台湾じゅうの山や谷、原野を歩いて、ダム建設地の調査をします。赤痢やマラリアといった恐ろしい伝染病の潜む所にも、先頭を切って分け入っていきました。そして、現在の場所を選び、ダムを造って嘉南平野に水路を張りめぐらす計画を立てました。皆、その計画書を見て驚きました。台湾総督府の予算の6分の1の資金を必要としたのです。

 「八田くん、これでは政府から、工事の許可がおりないぞ。もう少し縮小したらどうか」

 「いいえ、水路のとどく場所と、とどかない場所の農民とでは、貧富の差が生じます。私は、嘉南平野に住むすべての農民に、同じように水を引いてあげたいのです」

 八田さんの熱意は総督府と日本政府を動かし、大正9年(1920年)に工事が始まりました。マラリアは猛威を振るっていました。そのため600人に近い日本人兵士や、乃木総督のお母さんも病死します。ダム工事現場で働く労働者も、例外ではありませんでした。八田さんは、原生林の広がる未開地で働く台湾人の労働者の健康を気づかい、定期的に薬を配りました。

 しかし、彼らは副作用を嫌って飲みませんでした。八田さんは一人ひとりを並ばせ、直接、口に丸薬を入れますが、みんなは後で道に吐き捨て、道はあられが降ったようになったそうです。それを知ると、飛んでいって叱りつけました。ついに最後には彼らの家の一軒一軒を訪ね、薬を飲ませ、ちゃんと彼らが飲みこむまでは、その家を立ち去りませんでした。そのおかげで、マラリアにかかる人は少なくなります。

 3年目には、トンネルの工事でガス爆発が起きました。50数名が亡くなり、多くの重傷者が出ました。八田さんは、すぐに台湾人の犠牲者の家の一軒一軒を回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えました。遺族たちは、その言葉を押しいただくようにして声を上げて泣きました。

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ダムの放水口

 八田さんも責任を重くうけとめ、工事を中断しなければなりませんでした。しかし、「八田さん、元気を出してやりましょう」と励ましたのは、台湾の人々でした。八田さんがどんなに台湾を愛しているかを、知っていたからです。

 こうして烏山頭水庫は東洋一のダムとして、10年の歳月をかけて、昭和5年(1930年)にできあがります。そして、八田さんの望みどおり、網の目のように引かれた水路によって、水は嘉南平野の全域にとどけられました。その水路の総延長は1万6千キロで、万里の長城の6倍に達します。

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 完成後、八田さんはフィリピンの開発にいくことになりました。しかし、その船が東シナ海でアメリカ軍に沈められ、57歳で亡くなります。昭和17年(1942年)のことでした。

 やがて戦争が終わると、日本人は台湾から引き揚げなければなりませんでした。16歳で嫁いでから、喜びも悲しみも共にしてきた外代樹(とよき)夫人は、ご主人が人生のすべてを注いで愛した台湾と烏山頭を去ることができず、ダムの放水口に身を投げて、ご主人のあとを追いました。

 八田さんご夫妻がささげた命は、一粒の麦のように30倍、50倍、100倍と豊かに台湾に実っています。毎年、ダムが完成した5月8日になると、嘉南平野の農家の人々が、収穫した農産物をもってダムを眺める丘の木陰に、おおぜい集まってきます。そして、八田さんの銅像とご夫妻のお墓の前で感謝をささげています。

 私は戦後生まれの者ですが、その墓前に立ったとき、胸に次の言葉が迫ってきました。

 「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)す」

 すべての国々に分け隔てなく天の慈しみを施し、一つの家のように為す、という言葉です。

 台湾をめぐって、各地に八田さんと同じように、都市整備、衛生、教育、農業に命をささげて尽くした日本人がいたことに驚きました。これらをなしたのは、日本人の中に流れていた温かい精神であったことを知りました。

おしまい

(ぶん)みなみの はるか
(え)合田 洋介