「原始福音キリストの幕屋」のホームページです。日本人の心で聖書を読んだ手島郁郎の創刊による月刊誌『生命の光』、聖書の講話、聖霊による回心の証しなどを紹介しています。

霊訓 ―ある天人の霊告―

手島 郁郎

われは世の光なり、我に従う者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし。
(ヨハネ伝8章12節)

 「光のある間、光に歩めよ」と、キリストは言い給うた。いま、光はまばゆい真夏の空のように、痛いほど燦々と照り輝いているのに、人間の心はいまだに無明の闇に嘆き苦しんでいる。何という人間の暗愚。何をこうも錯覚したのであろう。まばゆい白昼の光の中を、杖を頼りに手探る盲人の歩き方がかわいそうでならないように、それ以上に気の毒なのは霊盲というものである。地球上には退化した霊盲族人類が、うようよも棲んでいるのだから、天界ではこの衆愚の処置に思案の為体(ていたらく)だ。まっすぐ歩けばよいのに、わざと廻り道して遠くに行く。ちょっと気を抜いて安心していると、もうとんでもない方向に歩いて行く。そして互いにぶつかって、衝突、喧嘩、乱暴、憎悪し合っている。全く利己的な動物だ。自分を中心にしか、何も考えることができぬ動物であるとは! 自分が悪いのも気づかずに、自分の都合だけで他を悪口するんだから、困った悪童だ。

 ――どうしたら、人類を善導できるんですか?

 善導じゃない。人間改造だ!

 改造と言うと驚くだろうが、人間がみな知ろうと知るまいと、持っている信仰心、この退蔵せる信仰心を刺激してやれば何でもない。おどろくべく霊眼がひらけてくるものだ。信仰心といっても、淫祠邪教を信じたり、既成の仏教哲理やキリスト教教理を信じたりすることじゃない。まず人間が自らの暗愚を知って、人間の仮面をかなぐり棄てることだ!

 「われ審判(さばき)のためにこの世に来たれり。見えぬ人は見え、見ゆる人は盲目(めしい)とならんためなり」(ヨハネ伝9章39節)と、主が言い給うた通りだ。肉体の五感に幽閉されている霊魂がその仮面をかなぐり捨てさえすれば、自分のまわりが、どんなに霊光まばゆくあるかがわかるものだ。目からうろこのようなものが取れると、天上の友らが、呼びさえすればあなたたちを助けようと待ちかまえているのに気がつくだろう。手を出しさえすれば、神の国は届くところにあるものだ、と経験できるのだが……。

 ――どうしたら、容易に神の国に気づくでしょうか?

 信仰の目的は、人間が「内なる光」を発見することにある。人間の尊貴(とうと)さはこれにある。「身の燈火(ともしび)は一つの目なり。このゆえに、汝の目が純一ならば、全身、光被されるであろう」(マタイ伝6章22節 私訳)。まず眉間に一つの目が見ひらかれて、見えざる世界を意識し出すことである。この意識は、前額から松果腺(しょうかせん)を通じて、間脳に感応する仕掛けになっている。祈るときに、まず額に何か熱く光るような重圧感があれば、もう良い事が始まったのだ。地上にも、少数だが目覚めた哨人(みはり)も出初めている。

無辺風月 眼中眼 不尽乾坤 燈外燈
柳暗花明 十万戸 敲門処々 有人膺

 「もし汝の内の光、暗闇ならば、その暗黒、いかばかりぞや」(マタイ伝6章23節)。信仰とは、内なる光の発見である。信仰の目さえ開けたら、魂は天界から強い印象を受ける。この眩いばかりの宇宙光=キリストの霊光下に、見るもの、聞くもの、全く想像に絶して、明確な認識と強烈な印象を受けるものだ。見えなかったものがどんどん見えだし、見えていたはずのものが、主の光のために、全然、存在を消してしまう。見えていたと思ったものは、暗い影でしかなかったのだ。「光は闇を駆逐する」。暗黒は非存在なのだ。非存在を存在する、と意識していたことが、とんでもない錯覚だよ。

 キリストとは「義の太陽」だ(マラキ書4章2節)。キリストの霊光のまばゆさよ。この霊光を借りさえしたら、どんな事柄でも見通しだ。どんな問題だって、もう結論が浮かび上がってくる。どんな事件だって、その真相が直覚できるものだ。レントゲン光線が肉体の内部、肺の病巣をさらけ出して見せるように。

 ――人生の難関にぶつかったら、どうしたら良いですか?

 霊的な人間は、まず第一に全ての意識の仕方が違うものだよ。一般人は、考えずに事をやる。官能的な衝動のままに事をなす。やり手に限って馬車馬のようだ。だが教養のあるインテリは、考えてから事を始める。人類がここまで進歩して来たのも、この知性で思考するお蔭である。理性は抽象する力だ。抽象によって原理法則を組み立てる。

 だがこの頃のインテリとか文化人という類(たぐい)は、考えても分からぬことまで考えたり、思い煩ったり、独断的に抽象したりするので、分かったつもりでいても何が何やら分からなくなって、神経衰弱的焦燥に身を焦がしている。神経症(ノイローゼ)――この流行病の恐ろしさは、流感(インフルエンザ)やチフスよりもひどいものだが、病気にかかってその疾患に気づかぬから、なおさらに神経症とは怖いものだよ。文化人とかいう虚栄族の傲慢、その思考力の逸脱が、社会不安に拍車をかけられてかくも蔓延(まんえん)するに至ったものだ。

 だが、実を言うと、霊界の奥では悪霊どもが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)して、地上の人類に悪い波動を送って人心攪乱(こうらん)するためなんだ。これが最大原因だ。幽界が浄(しず)まって、地浄まる。

 話が脱線したが、やり手であるよりも、考え手であれよ。考え手であるよりも、祈り手であれよ。「すべからく理性による抽象の闇を脱して、霊的な実在の光に来たれ!」と、私がかつて教えたことも、この理(ことわり)だ。真の祈りとは、実在の霊光下に魂が覚知することなのだ。

 自分の頭脳でまず考えるくせを止めよ。霊魂がまず直感するくせをつけよ。性格(くせ)は改造しなければならない。祈りは思考ではなく、霊の直感の世界だ。波立つ心を鎮めて、内に潜める巨(おお)きい心の湧出するのを待て。霊は巨きい世界の全一的な直感だ。私たちの心奥には、大きな心がある。大きな視野で、高い世界が分かる心がある。高い山から見下ろすと、全てが小さく見えて、広く見渡せる。そして正しい見通しができるものだ。「祈りの山」に登って、大所高所から全てを判断してゆくことだ。祈りの山では、時間を超えて未来に遡(さかのぼ)り、空間の彼方までパノラマのように展望できるものだ。

わが魂よ 立ち上がって 我を導け。
わが魂こそ わが主人。魂よ 目覚めよ!
理性や感覚が、仮面かぶって
主人顔で地上に道化役をやっているとき
私は悲しいピエロだ。
いつまでも端役(はしたやく)は 御免だ!
わが魂よ 高く上がれ!
わが魂は 肉体を脱して
天界に高揚、天堂に推参する。
いつも 祈りの後には
天上の珍菓 霊のマナを土産に
わが心はいきづき わが肉体は躍る。
神秘な知恵が 私を聡明にする。

<私の決意>

 もう私は、自力でやるまい。自分で考えまい。キリストは真理の霊だ(ヨハネ伝14章17節)。キリストという大きな知恵が考えるままに、思い切り積極的に行動しよう。大宇宙のロゴス、キリスト意識を殺して、知らん顔の半兵衛でいるのが、現代キリスト教である。私は敢えて、彼らが十字架に抹殺しているキリストこそ、神の知恵、神の能力である、と使徒パウロと共に叫ぶのだ。

 キリストは死に給わず。見よ、生きて世々限りなく実在する神霊であることを、私は実証しなければならない。私の義務はここにあり、幕屋人の使命は、これにある。われらの“内なるキリスト”こそ、われらに無限の知恵、無限の力である。友よ、キリストをして全てをなさしめよ。キリストの霊に聴いて、魂に全生活の責任を持たしめよ。

(1957年)

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