歓喜と熱情の宗教 第3回

神の力の加持

ろばに乗って都入りする
イエス(ドゥッチョ画)

ヨハネ伝12章14~15節に、「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる』と書いてあるとおりであった」とあります。

何ゆえイエスはろばに乗られたか。当時、戦争する時には馬に乗りました。ろばは小さく、柔和で、おとなしい動物です。これは、「シオンの娘よ、大いに喜べ。見よ、あなたの王は柔和であって、ろばに乗る」というゼカリヤ書9章9節にある句を引用したのです。

優しいろばに乗ってきたのでは頼りにならないと思うけれども、神は馬や戦車など、武力に寄り頼む者を喜ばれない、神に寄り頼む魂を喜びたもう、というのが聖書の考え方です。神に寄り頼んで生きる者は、たとえ柔和で小さなろばに乗っても勝つ。何ゆえか。神の力が彼に伴っているからです。イエス・キリストは、そのようなお気持ちをもってエルサレムに上ってこられた。神の力が臨みさえすれば、柔和で小さなろばでもいいのです。私たちは弱いろばかもしれない。しかし神の霊が、キリストが私たちに乗りたもうならば、栄(は)えある生涯を送ることができる。

私が好きな仏教の言葉に、「加持する」というものがあります。弘法大師の真言密教などで加持祈祷といいますが、神霊の力が加わり、その力を持する祈りのことです。私たち、この世では地位も低く、乏しくともよい。しかし、神の霊がお互いに加持しだしたなら、ただではおきません。大事なことは、このような見えない神霊の加持をものにすることです。

夢がその人を作る

英国の劇作家シェークスピアの有名な言葉に「私たち人間は、夢と同じ材料で作られている」(『テンペスト』)というものがあります。

人は物事の外側を見る。しかし、目に見える世界は、私たちが心に描く夢、イメージが作ったのである。夢がなかったら外側の事物も生まれてこない。同様に、夢を作っているものが、私たち自身をも作っている。人間は自分がもつイメージのようになる。だから、その人がどんな夢をもつかによって、やがてその夢がその人に実現する。それで「夢の材料が我らを作る」というのです。実に偉大な言葉です。多くの人はその意味を理解しないが、時としてインスピレーションのように私の心に響く。

人間の尊さは外側にありません。その人のもっている心にあります、夢にあります。イエス・キリストはナザレの田舎大工、それが外側の社会的地位でした。しかし、イエスの尊さは外側にはありませんでした。イエスが、なぜこんなに多くの人々から歓呼をもって迎えられ、「我らを救いたまえ」と言わしめたのか。神と同質の夢、神のような心をもっておられたからです。これはお互いが聖書を学びながら、自分たちのものにしなければいけないことです。

この厳しい世間においても、あなたを偉大にするものは夢です。夢は外側にありません、内側にあります。現在の自分の姿を見ると、粗末ですし、卑しいし、運命が開けそうにない。そして、それに泣きます。だが大事なことは、我らを作るものは夢であって、その人のもっている心の本質、霊的な本質がその人の運命を決める、ということです。

日ごとに神の奇跡を見させたまえ

何ゆえにイエス・キリストは、次々と死人を生かしたり、らい病人を清めたりする奇跡を行なうことができたのでしょうか。人々はそれに驚きました。だが、もし私たちが「日ごとに奇跡を起こしたまえ」という夢を描き、祈りだしたら、そのとおりに実現するものなんです。この真理を多くの人は知りません。

奇跡をひき起こすような時の精神的状況というのは、この聖書の箇所で読むように、燃えたぎっております。心が燃えたぎっているところでは、奇跡が起きるんです。しかし、心が冷たく、縮こまっている者たちに奇跡は起きません。私たちは、このように自分を沸騰させるようなものを欲する。精神力の沸騰するところに奇跡は起きるからです。

まず大事なことは、信仰を温め、燃やすことです。そして、信仰に自由を与え、思い切って現状を打破する決心を、希望を、勇気を与えることです。これなくして奇跡は起きません。

宗教が、ただ現在の状況や伝統を保ちつづけるものだと思われている時に、イエス・キリストの宗教は改革でした、熱情でした。思い切って現状を打破することでした。そこに、自由を得る喜びがあります。宗教的解放の喜びがあります。また、そこに進歩があり、前進があります。

私たちは今年前進したい。それにはどうしたらいいか。聖なる火が燃えはじめなければなりません。聖なる火が胸を焦がし、聖なる霊が注ぎ込まれなければ、日ごとに奇跡を拝するということはありません。「今日も神の奇跡を見させたまえ、不思議を見させたまえ」という夢を私はもつ。夢がその人を作るんです。このような夢は燃える魂でなければ湧いてこないのです。

enthusiasm (熱誠)に生きよ

私たちは聖書をただ読んで、読み過ごしたくありません。何を書いてあるか、そして読みながら、私たちも聖書の人物そのままになりきってキリストをお迎えしたい。「ホサナ、ホサナ」と言って、しゅろの枝を持って私たちの心にお迎えしたい。

私たちは、心が燃え上がるときに嬉しくて自分を忘れます。どうして自分は我(が)強いのだろうかと嘆く人も、燃え上がって何かに熱中しているときには、自我がありませんよ。しかし、冷たい心になりますと、氷のように鋭い気持ちで人を批判するものです。

この、エルサレム入城の時にイエス様を群衆が迎えた姿、また人々の心を沸かして沸かしてやまない熱情的な状況、それはいつも私たちが夢に描かなければならないことです。今の自分に何が足りないのか。それは熱情的な喜びだ。イエス・キリストがもっており、多くの人を燃え立たせたものは、この熱情的な喜びです。今のキリスト教が言っているようなものと違うんだ。これがやがてキリストの死後、大宗教を作るに至らしめたのです。

このような、火のように燃やしてくれるものを皆が欲している。万人が熱く喜ぶことを欲している。皆さん方が、ただ聖書を読むだけじゃない、「そうだ、自分も火だるまのように熱く燃えてやろう」と思いだされると、この熱さは次から次に伝染します。熱い愛は伝染します。

このような熱い情動を、英語で「enthusiasm(エンシュージアズム)」といいますけれども、「熱誠」という意味です。ヘブライ語でいうなら「キヌアー」、熱心、熱情です。私たちはぜひとも現代の世にこれを回復して、伝道なり、仕事なり、家庭なりをやってゆかねばならないと思います。

このようにキリストの火花を躍動させて生きている人に、皆が寄ってくるんです。「あの人のところに行こう、あの人に相談してみよう」と言って、知恵を求めてくるんです。私たちは、温かい、熱い、希望の人に自分を改造するために、ぜひそれが必要です。これをものにしはじめたら、あなたが「こういう事業をしたい」と言えば、「私にも助けさせてください」と言って皆が協力してくれるんです。また、そういう人は、自分だけではない、人をも潤すのです。

祈ります。深い呼吸をなさって、精神を集中して……。

人間には宗教心というものがあって、心が研ぎ澄まされて集中してきますと、わからないはずのものがだんだん見えだしてくるのです。見えだすだけではない、やがて胸の中に赤々と火が燃えはじめます。燃えはじめたら、その火があなたにすべてを教えます。もういろいろなことは要らない。キリストと一つになるくらいに、燃え上がりとうございます。

(1964年)