歓喜と熱情の宗教 第2回

喜んで主の御用に差し出す

 偉大な生涯を送る人は皆、ただ自分を救うだけではありません。人々の求めているものを与え、他をも救ってやまないようなあふれるエネルギーをもっているものです。私たちも同様のエネルギーをもたなければいけない。自分だけうまいことをしようと思う人に、信仰はわかりません。本当の信仰というものは、自分が恵まれるだけでなく、受けた恵みが周囲に及んで、人々を動かしてゆきます。

 ここに「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた」と書いてありますが、キリストがエルサレム入城の前に、弟子を遣わしてろばを探しに行かせた記事が、他の福音書にあります。ベテパゲという村で、イエスは弟子に「まだ誰も乗ったことのないろばの子がいる。それを引いてきなさい。もしその持ち主が何か言ったら、主がお入り用だと言え。そうしたら渡してくれるだろう」と言われた。弟子たちが行くと、言われたとおり家の門口にろばがつないであったから引いてきた、ということが書いてあります。

 「主の御用だ」と言ったら渡してくれる。これはなぜでしょう。「あらかじめ契約してあって、そこにイエスは弟子を遣わしたのだ」とか、「イエスは千里眼で誰が渡すかを知っていたからだ」とか、「その村にも誰か信者がいたのだ」というように聖書学者は推測して解釈します。

 しかし、そうではない。イエス・キリストが燃えて生きておられる時に、同様に魂を燃やしはじめた人々がいたのです。私たちの間でも、一緒になって燃えて生きている人に「あなたに、これをお願い」と頼むと、「ハイッ」と言って喜んでしてくれます。そういう雰囲気ができると、進んでやってくれる。誰かが強制したのではない。魂が信仰復興(リバイバル)して燃えているときには、不思議なくらい人々が信仰に入るのです。皆、大きな力に動かされることを願っているのです。

生命の燃焼が人を動かす

 このように、「喜んで差し上げます。喜んでいたしますよ」と言わしめるような力が宗教なんです。しかし、これは宗教だけのことではありません。もしあなたにも、このイエス・キリストにたぎっていたような熱情が与えられたら、家庭においてもどこにおいても同様に、することなすことすべてうまくゆきます。燃えているから、人々が協力してくれます。事業の面においても、胸燃やされて人に近づいてゆきますと、「ハイ」と言ってやってくれる。「どうしたら、私はセールスマンとして成功するでしょうか」などと言う人がいます。しかし、自分のやっている仕事に対して熱情と確信さえもっていましたら、誰の心でも動かすことができますよ。

 これはイエス・キリストの与える生命の燃焼がしからしめるのです。宗教は、生命が燃え上がるところにその意味があります。もし、燃えて燃えて生きているならば、その人は幸福です。

 NHKの局長をしている俳句の好きな人が、「俳句はいじくって作ったものはだめだ。本当のものは、生命の燃焼だ」ということを言いました。生命の燃焼、ほんとうに含蓄のある言葉だと思います。なまじっかな、燃えきらないものはつまらない。私たちの生命は赤々と燃えたい、燃えるときに幸せなんです。ユダヤ教ではこのような灼熱の歓喜をヒトラハブートといいますが、魂が燃え上がって、神秘な火花が胸の中に散るまでになりたい。

 ある人がやって来て、「伝道者になりたい」と言いました。「それはけっこうだ。しかし、伝道者になろうと思うならば、君は熱い魂の人間にならなければ成功しない。君のように冷たい、かじかんだ心で『神様、神様』と言っていたってだめだ。自分が燃えておらずに、どうして人を燃やすことができるものか。大事なことは心が燃え上がることだ」と言ったことでした。

 伝道者になろうと思う者には、どの人をつかまえても熱く燃やしてやまぬ心が大事です。

出会うだけで沸きたつ愛を

 だから、「神を信じなさい」と人に言うよりも、このイエス・キリストと共に歩いて、燃え上がるような雰囲気を皆さんがもっておられれば、放っておいても人々が信仰に入るんです。それを「伝道します」などと言って、宗教の教理や哲学を教え込むことと思うなら大間違いです。

 大阪のこの集会も、少しおとなしすぎる。入り口に人が来たら、顔を見ただけでも迎える人からワーッと喜びが伝わるようでないならば、私はイエスの宗教でないと思う。

 今、K君が長崎の集会の話をされたが、外側は何もないようだが、燃え上がるような愛があるという。私が熊本で伝道していた頃もそうでした。私たちはもう一度、これを回復しなければならない。ただ会うだけで、燃え上がる愛の雰囲気が沸き起こる。その時に、過去の自分に何があっても、それは灰になってしまい、今は炎となって燃えているお互いを見ることが大事です。

 この燃え上がるような熱情、これは旧新約聖書を一貫するものです。

 イエス・キリストがエルサレムの神殿で、商売をする者たちを追い出して宮潔めをなさった時、「神の家を思う熱心、われを食らえり」という旧約聖書の言葉どおりであった。またイザヤ書には、「(神は)おのが民を救われる熱心を見させて」(26章11節)、「主は熱心を外套(がいとう)として身を包まれた」(59章17節)などとあります。この燃え上がるような熱心、それに身を包んでいる姿、これが神の姿、キリストのお姿です。

 聖霊を注がれて、この宗教的な霊的熱情を燃やしている者が、次から次に人を燃やすのが聖書の宗教なんです。一人のモーセが、燃える柴の中に語られる神に出会った。そして、イスラエルの民の心を燃やし、エジプトの奴隷状況から解放した。私たちもそうでなければなりません。

(1964年)