白熱した心で生きる 第3回

教条の奴隷となるな

 今や、時代がずいぶん変わっていっております。それと同じように、宗教に対する人間の受け入れ方も変わってこなければだめです。いちばん悪いことは、「我々の教派では、こうこうなんです。キリスト教の伝統的考え方はこうなんです」と言って、結論を押しつけてくることです。しかし、そのようなものを信じても、生きる力が湧いてくるものではありません。

 たとえばマルクス主義者は、教条主義的に共通の結論を信じています。「世界は資本主義の世の中が行き詰まって、社会主義、共産主義の社会に変わってゆくと決まっている」と信じて、それ以上、考えたり、追求しようとしたりしません。昔の人が考えてくれたことの結論をただ信じている。信仰もそのように教条を信じていては、私たちに救いはありません。

 だが、1つの教条を信じることが信仰と思われていた時代、イエス・キリストが現れ、神の国は言葉ではなく、奇跡を惹(ひ)き起こす力であることを示された時に、人々は驚きました。そんなことがあるだろうかと思いました。しかし、らい病人シモンが癒やされ、死んだはずのラザロまでが蘇ったのを見て、信ぜざるをえなかった。それまで、伝統的に伝えられた教条を信じることを信仰と思っていた人々の考え方が、すっかりひっくり返ってしまいました。そのように、時代が変わったら宗教も変わるのです。

 今、宗教が力を、また魅力を失っているのは、教条主義ともいうべき1つの教理を信じているからです。それが絶対であって、批判なしにそのまま鵜呑みに信じる。それを信仰というのならば、力などは伴いません。どうして私は、「日々に奇跡を見させたまえ」という祈りを祈るのか。これは、「信じる者には、すべてのことができる」という信仰から来るのです。信仰とは、神の力を引き出し、神の力の作用を受けて現状が変化することである、とイエス・キリストはお考えでありました。また、それを体験しておられました。

 もし宗教の力で、ガラッと状況が変わるならば、私たちには希望があります。しかし、ただ自分とは関係のない教条を信じるということが宗教であるなら、人間は1つの主義の奴隷となってしまいます。私たち人間は、動物の域からここまで進化してきました。もっともっと未来に向かって進化、進歩せねばならない。現状では我慢できない、もっと広く大きい、輝かしい状況に入りたい。こういう向上一路の願いがあるなら、ここから本当の聖書の宗教は始まってゆきます。

大宇宙が願いをかなえる

 今日は、新年2回目の集会ですから、この1年のために私は申し上げたい。果たして、あなたは願(がん)をかけて生きているか。神はあなたに志を立てさせ、神の霊的な力を注ぎ込んで、変化させたいと願っておられる。私たちにとって大事なことは、何のために生きるか、何を目標に生きるか、そして目標が定まったなら、白熱的にそれを追求してゆくことです。

 キリストは、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」と言われた。このことは、人間に求めるという心がありさえすれば、大宇宙にはそれを完成させようとする作用がある、ということを意味します。すなわち大宇宙は有機的組織というか、連動装置であるということです。全自動のカメラのように、シャッターボタンを押しさえするならば、ピントや光の具合などを調整する連動装置が働いて、誰にでもきれいな写真が撮れる。自分に「写したい」という願いさえあれば、ボタンを押すだけでいい。

 同様に、人間の心に1つの願いがあると、宇宙というものは連動装置になっていて、その願いがかなうように働くというのです。キリストの信じておられた世界は、共に感応し合う世界であって、人間に何か願いがあるところ、それを満たすものを神はいっぱい用意しておられるというのです。人間が求めないうちは、進歩することも、向上することもありません。

 イエス・キリストの宗教は、神の愛に信じて大きく願うことです。大願にかけて生きることです。イエス・キリストの一生は、願生(がんしょう)の身でした。大きな使命をもってお生きになりました。

偉大な目的に向かって

 ナポレオンがフランスの皇帝となり1年ほど経った時、ロシアとオーストリアの連合軍が攻めてきました。ある戦場で、湖の厚い氷の上を敵軍が敗走しようとした時、彼は、「氷を割ってあの敵兵を全滅させよ」と命令しました。ところが砲弾を普通に撃ったら、氷の上を滑っていって割れはしない。それで、「大砲を上に向けて撃て!」と命じた。それで大砲を上に向けて撃ったら、真上から落ちてきた弾で氷が割れ、敵は溺れて全滅した、という逸話があります。

アルプスを越えるナポレオン
(デヴィッド画)

 このような知恵は、「戦いに勝つんだ」というはっきりした目標、激しい意欲から生まれるんです。当たり前に大砲を撃ったって、ぶ厚い氷を割るなんてできません。しかし、できない、と言えばそれまでです。天に向けて撃つなら、引力の力で真っ逆さまに落ちて氷を割ってくれる。

 人間が白熱的になって、物事にぶち当たると、どこからか不思議な知恵が与えられるものです。かくしてナポレオンは、「私の辞書には不可能という文字はない」と言いました。

 ナポレオンは、「古代ローマ帝国の復活」という大きな幻をもっていた。そうして、その幻のゆえに、もうわが身ありとも思わなかった。それでたびたび危険な目に遭いましたが、彼はそれを恐れませんでした。ここにナポレオンが、宗教に似た1つの信念をもっていたことがわかります。このように、激しい求め心と、はっきりした目的があるところ、それに伴う知恵も出てくるのです。

白熱した願いが奇跡を起こす

 私は毎年、正月になると、「願(がん)に生きる」ということの大切さを申し上げます。それがなければ、宗教はその人のものにならないからです。信仰の旨しさ、また神の力というものは、願をかけて生きている人でなければわからないのです。もし大きな願をかけて、「このことをなさせたまえ」と言って生きているなら、少しくらいのケガや不利益は覚悟の上です。やがて宇宙の連動装置はガーッと働いて、その人の願いを成就するのです。

 しかし、「私は願をかけ、それについての設計図も描いたけれど、どうしても動きださない」と言う人がいます。それは、模型の機関車でも電池が切れたら動かないように、その人に信仰のエネルギーが足りないのです。ちょっとでもその願いが動きだすために必要なのは、人間の熱意というか、熱願です。それが物事を動かし、自分の置かれた状況を展開させる力をもつのです。そのことがわかれば、ますます神の生命を求め、祈ろうという気持ちになるでしょう。

 「幕屋の人々の間では、どうしてあのような不思議な奇跡が次々に起こるのですか」とよく聞かれるが、それは熱っぽい信仰があるかどうかの問題です。そのような信仰のあるところ、奇跡も伴います。熱意、それは私たちの大きな資本です。熱情をもって生きるということほど幸福なことはない。白熱した信仰、白熱した感情で生きるときに我を忘れます。恐ろしさも忘れます。また利害に惑わされたりしません。大きな願いが燃えているからです。

 私たちに白熱する意志というものがあったら、驚くべき業ができる。後でそれを人は奇跡と言います。大事なことは、熱い信心をもって何かをするということです。このことをやりだしたら、一人ひとりが自分の尊さを知ります。私たちはお互い何もない人間です。しかし、なぜこんなに不思議なことが日々起こるのか。それは私たちが神に愛せられ、神に用いられているからです。

 どうか、私たち皆が白熱した気持ちで生きたい。それが奇跡を起こすのです。白熱した気持ちであるときに、恐れず現状を打破してゆけます。有り余るような世界から豊富な力が引き出せる、これは私の知っている奇跡です。人間の心が白熱すると、そこに不思議な状況が起きます。冷たい鉄というものは、そのままではどうにもなりません、しかし熱く熱したら、軟らかくなってどんな形にでも変化します。それと同じように、あなたの信仰が白熱さえしたら、状況はガラッと変わるというのです。どうぞ熱い祈りを神に上げたい。熱く心燃やされて、毎日生きたい。

 マリヤのように、1年分の生活費に相当するものを捧げて生きるときに、不思議なことが起きます。そのような勇気が今の人にはないんです。だが、神が共にあって助ける、それをありありと感じさえすれば何でもできます、何も恐れません。

 どうぞ神と共に歩き、天の万軍の天使たちと共に歩いて、祝福に満ちた不思議な1年を、これからスタートしたいと思います。

(1964年)