聖なる歴史を担う者 第3回

世の罪を負う小羊としての死

罪のないイエスを殺そうという発言を、大祭司という最高の宗教家がした。表面だけを考えたら、それだけでも宗教の名に値しません。しかし聖書は、このことを通して神の御手が働いている、というのです。それはどういうことか。

当時のイスラエルでは毎年、過越の祭になると、祭司たちが民のために神殿で犠牲の小羊をほふり、その血を祭壇に注いでおりました。その小羊と同じように、エルサレムに上ってきたイエスを犠牲にしようというのです。

もし、イエスが何か悪いことをしたというならば、死刑になっても仕方がないことです。けれども、イエスには何の罪もなかった。それなのに、なぜ犠牲として殺されなければならないか。これこそ、キリストが贖いの小羊となって死んでゆかれ、その流された血汐によって人類が救われるためなのだ、ということをヨハネ伝は言わんとしているのです。

聖書は、見える出来事はマイナスでも、マイナスの中に、次にはプラスになるということを見ています。たとえ悲観的な出来事が私たちの目の前にあっても、その背後に神の御旨を読んでゆくのが信仰の心です。神は愛ですから、そのことを通しても最善が始まってまいります。

聖書は、イエスがキリスト(救世主 メシア)であり、贖い主である、神の愛の現れである、ということについて、至るところで訴えております。このように、イエスを殺そうという陰謀が行なわれつつあるという痛ましい出来事からも、なお「神はその独り子を与えたもうほど、この世を愛してくださった」という神の愛を読み込もうとする。これが聖書の読み方というものです。

聖書の選り好みをしない

今のキリスト教は、信仰をただ部分的に、十字架なら十字架、復活なら復活、再臨なら再臨という一つのことに絞って、「十字架、十字架」「ご再臨、ご再臨」などと言います。

それに対してピーパー博士は、「今のキリスト教はただ、聖書のある部分にとらわれて、全体を見失っている。そして、自分に都合の悪い、自分が体験できないことについては、ここはおかしい、といって取り去ってしまう。自分の信仰を基準に聖書を切り刻んでゆく。これは聖書の学び方ではない」ということを強調しています。

新約聖書は、登場人物がキリストに触れて体験したことを書いているのですから、そのまま読まねばならないのに、「ここは読めない」と言ってわからないところを省こうとします。

私は若い頃、ある無教会の先生の講義を何度か聴きました。その先生が言います、「聖書の学び方は、鯛の煮つけを食べるようなものだ。最初はうまいところから食べたらよい。そうして、骨とか頭などの食べられないところは残したらよい。同様に聖書も、読めないところ、信じられないところまで信じようとするから無理がある。魚の骨を無理に食べようとして、骨がのどに刺さって苦しむようなものだ」と。

当時の私は、なるほど上手な読み方だなあと感心しました。これは何も無教会だけでない、現代の多くのクリスチャンの読み方です。ここの聖書の記事は自分の歯が立たないからといって残す。そして、それをつまらないもののように思う。

だが、ピーパー博士は、「それは人間が自分本位に読もうとしているのであって、聖書から教えられようとする人の態度ではない。聖書の言葉は意味が深く、わからないところがある。だが、わからねばこそ、わかるまで学び、それを体験しなければならない」と言っております。

生きてみてわかる信仰

ここで、最高議会で判決が下り、イエス・キリストが殺されることになった。嫌なことです。けれども、信仰は外側の出来事を見ることではありません。私たちは、どんなことがあっても、自分をこの地上に造り出したもうた神の御心は何だろう、と思って神を見上げておりますと、人と違う答えが出てきます。そして、いつも神様が愛して守ってくださると思ったら、消極的にならずに、どんなときにも自信をもって歩いてゆけます。私たちの小さな人生の歴史を歩いてみて、信仰がわかるのです。それを歩くことはしないで、神学書だけ読んだって、本当の信仰はわかりません。このように、男、女にかかわらず、皆、歩かねばなりません。

本当の信仰は、危ないところを突破してみて、マイナスの中にプラスを見つけて、「ああ、神様は御愛でした」といってだんだん練習を積んで習熟してゆきます。そうしたらもう、その人には大人(たいじん)の風格があって、「ああ、頼もしいなあ」と言われるような人間ができ上がってきます。

このように、イエスを殺せという決議をしたような宗教会議の背後にも、なお神の御手の働きを見失わないのが、当時の初代教会の信者でした。ここに大事な、聖書の読み方があります。

どうぞ私たちも、聖書を歴史として読むというとき、自分の小さな歴史を通してでも信仰を読み込みとうございます。

(1963年)