聖なる歴史を担う者 第2回

オットー・ピーパー博士を迎える

O・ピーパー博士と手島郁郎(1963年 高野山聖会)

 このたび、世界的な聖書学者として知られるオットー・ピーパー博士(プリンストン神学校教授)が、原始福音運動に共鳴されて、その応援に来日されることになりました。ピーパー博士は、組織神学というものに疑問を抱き、「聖書的現実主義(ビブリカル リアリズム)」という立場に立って、新約聖書の時代そのままの現実感をありありと認識すべきことを、聖書研究の目標としました。

 私は戦後、独立伝道を志して、それまでやっていた事業も捨てて、新しい門出を決意しました。その頃、『The Christian Century(ザ クリスチャン センチュリー)』という雑誌でこの人の論文を読んで、私と同じ聖書観をもつ人のあることを知り、どれほど自分の信念を固めることに役立ったかしれません。老博士が日本の幕屋運動に深い関心を寄せられたのも、我らと同じ聖書的信仰に立っているからです。

 ピーパー博士も、「キリストは『見よ、我はすべてのものを新たにせん』と言われるが、欧米キリスト教文明が急速に崩壊しつつある今日、聖霊の注ぎをもつ集団から、新しい文明の先導役が出てくると思う。日本に興った原始福音運動こそ、それではないか」と言われました。

 日本のクリスチャンは、ピーパー博士のことをほとんど知りませんが、彼は若くして、ドイツのゲッチンゲン大学で組織神学の助教授となり、次いでミュンスター大学の教授として、有名なカール・バルトとも同僚となった人です。彼らは親交を結びつつも、激しく神学的論争を戦わしました。ピーパー博士は単なる神学者ではなく、国際的な政治、社会問題についても進んで活動し、第二次世界大戦の頃は、ドイツにいて激しくナチスを非難し、ヒットラーの政治に抵抗したために、国を追われて命からがら英国に亡命しました。やがて米国のプリンストン神学校に新約学の教授として迎えられました。今や、アメリカでも指折り数えられる聖書学者です。

千人の心で歴史をつむぐ

 そのような方を、ただ私たちの幕屋だけで招待するのでは失礼になるので、先日、東京へ行ってキリスト新聞社の編集長や東京神学大学学長などにお会いしてきました。神学大学の学長は、我々の小さな群れがピーパー博士をお呼びするというのを聞いて、びっくり仰天されました。

 数年来、私たちは日本のキリスト教界から、多くの誤解や罵詈讒謗(ばりざんぼう)を受けてきました。しかし、我らの小さな歴史が、国際的舞台にいよいよ描かれはじめるのです。千数百の男女が、日本の宗教の霊山である高野山に集まって、ピーパー博士を迎えて大聖会を開く。これこそは、歴史的聖会として後世に伝えられるエポックメーキングな出来事です。ここに、歴史を体当たりで書く、「Holy History(ホーリー  ヒストリー)」(聖なる歴史)を我らの手で書く、ということが始まるのです。

 ところで、東京のその方々が言われるのに、先日もある有名な神学者を日本に招聘するため、キリスト新聞社が音頭を取ってキリスト教会に呼びかけたけれども、十分な資金が集まらなかった。それがキリスト教界の実情だという。

 我ら幕屋の一群は、この世的には貧しく卑しい者たちばかりです。しかし、一人の力は弱いけれども、千人の力が一つになるから、いつでも私たちは強い。高野山で、千人でピーパー先生をお迎えしたいのです。ここに、この聖会の歴史的意義があります。

 どうぞ全国から集まってください。聖霊という一つの磁力が働いて招かれたエクレシア*こそ、我ら幕屋です。原始福音千人の兵卒で歴史をつくると思えば、「ここに歴史あり」ということが、皆様もご理解になれると思います。「一千の大和心を縒(よ)り合わせ ただ一筋の大綱にせよ」と、天の声が聞こえてくるようではありませんか。


* エクレシア

 「(神に)呼ばれた者たちの集団」を意味するギリシア語。日本語では「教会」と訳されている。

霊的な力ある宗教への反発

 ここで47節に「祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して」とありますが、議会というのはサンヘドリンと呼ばれたユダヤの宗教議会のことで、今でいう最高裁判所と国会を兼ねたようなものです。わずか一人のナザレの田舎大工であるイエスについて、このような議会を開かなければならないというのは、いかにも大げさです。最高の要路の人たちが皆そこに集まって、「えらいことになった」と言う。そして、イスラエルの誇りであり、宗教の華(はな)ともいうべきイエス・キリストが現れたことに対してこういう企みをする。イエスの出現が、また死んだラザロを蘇らせるほどの霊的な力ある宗教が、こういう偉い人たちには恐ろしいのです。

 イエス・キリストはナザレの田舎大工です。無視したらいいんです。しかし、無視できないのはなぜでしょう。霊的な反発というべきものがあるからです。皆さん方も、いろんな人から非難の声を受けることがあるでしょう。聖霊に満たされ、こんなに喜んでいるのだから、「よかったですね」と言ってくれそうなものなのに、牧師などは妬んでケチをつける。

 今から10年前、私が熊本で伝道を始めてまだ数年の頃のことです。東大総長まで務めたことのある無教会の偉い先生が、一生懸命に私を目のかたきにしました。「九州に手島というのがおるが、もしアレと交わったり、アレの本を読んだりする者とは絶交する」などと言いました。私のような九州の田舎者を、著名な先生が目のかたきにする必要はないはずです。けれども、無視できないんですね。これが宗教病という病気です。

マイナスの中にプラスを見る

 ところが50節を読むと、時の大祭司カヤパが、「一人の人が人民のために死ぬべきだ、全国民が滅びないようにするためには」と言いました。愛国という名に隠れて一人くらい殺してもいいじゃないか、というのです。このようにイエス・キリストを殺そうという陰謀が着々と進みつつある時に、それに対して聖書は何と言っているか。これが大事です。

 51節に、「このことは彼が自分から言ったのではない」とあります。無意識で言っている。神が背後におられて言わしめている、というのです。イエスが殺されようとしていることも、「ただ国民のためだけでなく、各地に散らされている神の子ら(イスラエルの民のこと)を一つに集めるために死のうとしているのだ」と言って、カヤパの言葉を善意に解釈しています。

 そのような殺人の陰謀に対しても、神の御手を、神の摂理を読もうとするところに、聖書的な見方があります。これが信仰の心です。

 私たちの人生においても、聞くだけでも嫌なことが起きることがあります。だが、どんな出来事が起こっても、神様はそのような迫害や殺人という出来事の中にも深い思い量りをもっておられる、ということを知らなければなりません。信仰はマイナスの中にプラスを見つける心です。

(1963年)