復活節にちなみ、手島郁郎の聖書講話「キリストの復活」の最後の箇所を抜粋して掲載いたします。
なおこの聖書講話は、手島郁郎が1969年に東京・全国町村会館で講じたものです。

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 御使いは女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』……」。そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」
(マタイ伝28章5~10節)

 「女たちが主が復活したもうたことを弟子たちに知らせるために出かけようとしたら、バッタリ主に出会った」と書いてありますが、信仰というものはこれが大事ですね。

 どうして私は信仰が進まないんだろうかと言うよりも、もしも御言葉を聞いたならば出かけなければダメだということです。従わなければ、それを行なわなければダメだということです。

 もし考えてばっかり、「復活のキリスト」と言って瞑想しておるならば、復活のキリストではありません。復活とは、どういうことか。マルコ伝を読んでみると、若い天使が現れたと書いてあります。これはやっぱり、復活の若さ、バイタリティーというものを表現していると思います。

 人間が死んで、それでおしまいならば全く絶望です。しかし人間は、死んでも死なない、生き返るというか若返る生命がある。それに触れた者は、すぐ行動ができます。そして行動に移った人間には、ハッとイエスは現れるんです。

 なぜ自分の信仰は進まないだろうかと言う前に、聖書はちゃんと教えていてくれるですね。天使が告げるように出かけないから、進歩しないのです。疑って実行に移れないからです。しかし御言葉に従って動き出してみると、女たちはばったり主イエスに出会った。十字架上にかかって死んでおったはずのイエス様が、復活の霊体をもって現れた。

 ここで、復活ということと霊魂は不滅であることとは違います。ヘブライ思想では、体無き生命なんて考えられないんです。それでイエス様は姿を現された。

 そのイエス様が何と言われたかといいますと、原文は「汝ら恐れるな、行けよ、告げよ」と3つの命令形で書かれています。すなわち復活のキリストに出会うということは、「恐れるな」「行けよ」「告げよ」との3つの言葉を賜るのであります。

 霊的現象に真っ正面にぶつかると、人間は恐れを抱きますが、それを乗り越えて恐れず出かけていき、そして兄弟たちに語り告げなければなりません。しかもここでは、復活のキリストは「わたしの兄弟たちに」と言われた。「弟子たちに」と言われてもいいはずですのに。

 それで復活のキリストに出会う者は、静かに瞑想しておる状況において出会えると思うべきでありません。主の御言葉に従って歩く者に、いつも主は生きて、いかにありありとありたもうかを、私たちの常識を破るように教えてくださいます。

——祈ります。

 神は目には見えませんけれども、「主よ、従います。御声をかけてください」と言って従う者には、ありありと助け、導いてくださいます。奇跡を見せてくださいます。否、奇跡じゃない、事実を体験せしめていただけます。考え事にしておる間はダメです。どうか主と共に歩きとうございます。

(1969年 東京・全国町村会館)