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 ヨハネは言った、「まむしの裔(すえ)よ、悔い改めに応(ふさ)わしい実を結べ。心の中で自分たちには父祖アブラハムがあると思ったりするな。私は言うが、神はこれらの石からでもアブラハムの子らを起こすことができるのだ」
(マタイ伝福音書3章8節)

 

 12月25日、クリスマスの日が近づきつつあります。クリスマスはご存じのようにイエス・キリストの誕生をお祝いする全世界あげての祭日であります。

 キリストは、どのようにして生まれられたか? まず新約聖書の巻頭、第1ページに、マタイ伝は長たらしく、イエス・キリストの系図を書いております。片カナで人の名前が40人以上も次々と出ていて、誰しも読んでウンザリします。

 しかし、聖書は「まずイエス・キリストの系図から読め!」と言わんばかりに、その系図を、れいれいしく第1章に載せております。

 たぶんその理由としては、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とありますように、ナザレのイエスこそ、神様が「我が友、アブラハムよ」と呼んで尊んだ信仰の父・アブラハムの子であるということを言いたいためでしょう。また、ユダヤの国を最初に統一したダビデ大王の子孫であるということを、誇らかに宣言したいからだろうと思われます。

 イエス・キリストが誕生する以前から、もし、メシア(キリスト)、すなわち神の霊が注がれた不思議な人物が生まれるとするならば、それはダビデの系統から生まれるだろう、と預言者イザヤなども言っていまして、当時の人々に広くその事が信ぜられていたからであります。それにしても、この系図を読んで疑問に思うことがあります。

いかがわしい4人の女

 ユダヤの国では父方の系図を示して、母方の系図は載せないのが原則ですのに、何ゆえか、母系の名を数人、掲げております。しかも、その母系の名前が、信仰深いアブラハムの妻サラとか、イサクの妻となったリベカや、サムエルの母ハンナのように最も尊崇さるべき信仰婦人の名前を挙げるのならば、「この母にして、この子あり」で、何も奇異に感じませんが、どうも系図に載せてはイカガワシイと思われる4人の女の人の名前が載っています。

 「タマルによってパレスとザラが生まれた」と書いてありますが、タマルは舅のユダを欺いて姦通した忌まわしい女です。なぜ、こんな不義の子をでかした女の名を書かねばならぬのでしょうか?

 また、ボアズの母ラハブにしても、エリコの町の遊女でして、ヨシュアがエリコを占領する前に送り込んだスパイを上手に匿(かくま)ってくれた、いわゆる料理屋の仲居さんというか、機転のきくヤリテ婆さんで、こんな外国人の売笑婦を母系として生まれてきたのがイエス・キリストである、などということは、そっとして書かない方がよかろうのに、と思うのです。仮に事実であるにしても、ないにしても、どうかと思います。

 また、ルツという女の名前が出ておりますが、彼女はモアブ人ですのに神を信じて、貞操堅固に、よく姑のナオミに仕えて、ユダヤのベツレへムまでやって来たのですが、民族の血統の純血を重んじるイスラエル人の間では、ルツは公けの席に出ることもできない、肩身の狭い女でした。

 もっとひどいのが、ソロモン王の母です。その母は美人のバテセバですが、わざと「ダビデはウリヤの妻によってソロモンを産んだ」と記録しております。ウリヤが前線に出征中、ダビデはバテセバと不倫な仲になりまして、ダビデ王は、この人妻をめとろうとして、忠臣ウリヤを討ち死にさせました。そのウリヤの妻たりし女を母としてソロモンが生まれた、という書き方は、ことさら汚らわしい印象を読者に与えるような書きぶりで、どうも感心できません。4人の女の名前が揃いも揃って汚れた、不幸な女性なのです。

 また、聖母マリヤがイエスを身ごもったいきさつにしても「聖霊によって身ごもった」と大胆に書いておりますが、

 「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身ごもった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになるのを好まず、ひそかに婚約解消しようと決心した」と書いております。

ドブ沼から白蓮は咲くように

 おおよそ、偉人や聖者の出生伝説というものは、皆から尊敬されるように、飾り立てて書かれるものですのに、日蓮上人でも貧しい漁師の子でしたが、お母さんが太平洋から昇る日の出を孕んだ夢を見て、身ごもったとか、誕生の朝は、海に白い蓮華(れんげ)が一面に咲いたとか書いてあるのに較べますと、キリストの伝記は、まるで悪意を持つ人が書いたのではなかろうか、とさえ思われます。もうちょっと、婉曲に上手に書いたらよさそうなものに、と信者なら誰しも思うのですが、しかし、それでこそ福音なのです。それでこそ福音の福音たるゆえんです。

 忌まわしい血統の中から、イエス・キリストは私生児として生まれた。キリストはドブ沼のなかに咲く白蓮のように生まれられました。処女マリヤは聖霊に息吹かれてイエスを産んだ。どんなに忌まわしい私生児の評判が立っても、神はメンデルの遺伝の法則を打ち破ってでも、イエス・キリストのような神の子を、人類の中に生み出すことができるのだ、そのことを言いたいために、聖書はかく書いたのです。

 それで、洗礼者ヨハネは、不信心な人々に対して「まむしの子らよ! 自分たちの父にはアブラハムがある、などと心の中で思ったりするな。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのだ」(マタイ伝3章9節)と言って、血統書なんか無視しております。何という大きい慰めの言葉であり、また希望の福音でありましょうか。

 私たち、どんな罪に汚れた人間であっても、もし神の息吹にあずかるならば、聖霊にバプテスマされるならば、どんな忌まわしい運命のもとにあえぐ石ころのような人間でも、神の子に尊く一変することができるんだ、と言い切っております。これが福音であります。これを体験したのがイエス・キリストの十二使徒たちですし、その他、多勢の弟子たちでした。また使徒パウロでした。聖霊が臨むと、本当にすっかり変わって、神の聖者となりました。

石ころからアブラハムの子が

 世の偉人や英雄の伝記を読みますと、私たちは、その偉大さに驚きますが、しかし自分を顧みては、あまりの自分の貧しさに、劣等感に悩みます。しかし、イエス・キリストの誕生は、私たちより以下でした。泊まる宿もなく、馬小屋のわらの中に生まれました。無学なナザレの田舎大工の子でしかなかったイエスは、伝道しつつも旅して、枕するところなく、人々から迫害に迫害されつつ、逃げまどったあげく、最後には十字架にかかって、死刑囚となって死にました。すべての人々から捨てられたのに、キリストは、今や全世界から仰がれる神の人なのです。忌まわしい、腐り果てた人間の血統の中から、このようにも聖き神の子が誕生してくるということ、これが福音でなくして、なんでしょうか。

 不潔な血統を嘆く人々よ、どうぞ聖書をお読みください。イエスの系図には、わざと姦通の罪を犯したタマル、遊女として肉体をひさいだラハブ、夫に死別して異国の丘で泣く女のルツ、ダビデに夫のウリヤを殺されて嘆くバテセバなどが記されています。

 彼女たちは、女として決して恵まれた結婚生活をしたわけではありません。しかし、このような悲しみ泣く婦人たちを母として、神はイエスというキリストを誕生せしめられたのです。

 どうか決して過去に悩み、宿命に泣き、ご自分をあきらめられたりする必要はありません。呪われた家系を嘆き、忌まわしい過去に泣く方たちよ、今まで、どのように惨めで恥ずかしい存在であっても、なに悔やむことは要りませんよ。神の力は因果を変える力があります。路傍の石ころのような人すら、神の聖霊に息吹かれると、神の子として生まれ変わる。ウジ虫が蝶々になって空を飛ぶようにも、突然変異いたします。イエス・キリストの系図にこそ、限りない希望が漲っているではありませんか。

 どうぞ、湧き立つキリストの生命を、あなたもお受けになって、喜びと希望に胸ふるわせて生きてくださるよう、私は祈っています。

(1972年)

ガリラヤの虹