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 イエスは言われた、「人の子が来たのも、仕えられるためでなく、仕えるためであり、多くの人の贖いとして、自分の生命を与えるためである」と。
(マタイ伝福音書20章28節)

 キリスト・イエスはその全生涯を通して、神の心を表しつつ生きられました。神の慈悲ぶかい御心には、人間が罪のために魂を亡ぼしつつある事実が、とても耐え難いことでして、何とかご自分の身を削ってでも、救いたがっておられるということを示されました。その贖罪愛は十字架の死に極度に表れて見られます。

 神の贖罪思想は、キリストの宗教の根本的性格と言えます。もし、単に神の存在を信じているだけであるならば、その人の宗教心は何かしら満足したようでも、ただそれだけでして、心の底から熱い感激が湧き起こったりしません。しかし、ひとたび、神に贖われた経験をお持ちになると、熱い感謝の涙が溢れてきて、生きる感激でたまらなくなるでしょう。

 「贖罪」とか「贖い」(貝へンに売ると書きますが)、こういう言葉は、現代の日本人には全く聞きなれぬ、見なれぬ文字となってしまいましたが、古代の日本人には最も深い感動を呼ぶ出来事でありました。

 万葉の歌人、阿倍女郎(あべのいらつめ)の歌に

わが背子はものな思ほし事しあらば
火にも水にも吾なけなくに

とあるように、古(いにしえ)の日本婦人は「夫のために、愛する男子のためには、いつでも自分の身を犠牲にして、火の中にも水の中にも飛び込みますから、どうぞご安心なさい」と言って、大和撫子の意気さかんでありました。

(1973年)