私たちはよく「全力を尽くす」という言葉を使いますが、果たして私たちは、人間というものの全力を知っているでしょうか。「人間の全力は、決して使い尽くせるものではない」という事実、あなたにとってこれほどの大真理の発見はないでしょう。
今日、私はここで皆さんと共に、もう一度、神によって造られた人間というものを謙虚に見直し、人間の全力とはそんなに底の見え透くほど浅いものかどうかを考えてみたい。私は決して、人間はすべての知恵や力を尽くすことはできない、と思います。なぜなら全能の神は、人間をご自分に似た「神の肖像(にすがた)」として造られた(創世記1章27節)ということは真実で、この真理を認識なさるならば、今日ただ今から、あなたも私も生き方が全然違ったものとなるはずです。
神の聖手によって創造(つく)られた「人間」の奇しさ、尊さに目覚められると、必ずやあなたは新しい息吹と希望に、この一年をフルに生き抜き、年の暮れには相集うて、「天のお父様、私にも今年こそ、まことに最大の年でした!」と大発見を感謝されるに違いないのであります。各自が信仰の花束で飾られ、湧き上がる喜びの中で、今年はクリスマスを迎えたいと存じます。
奇しく造られた人間
詩篇139篇は、私の特愛の詩でありますが、お互いこのような信仰で貫き通すことができるならば、なんと幸せであろうかと思います。この詩はイスラエル史上最も偉大な王であるダビデの詩とされていますが、実に神によって造られた人間を、ほめ賛え、ほめちぎっております。
主よ、あなたはわたしを探り、
わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
遠くからわが思いをわきまえられます。
あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、
わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
全天全地を創造し、これを支えるもの、これキリストの霊です。全宇宙に満ち充ちている聖霊を離れて生きることは、不可能である。暗闇をもつんざいて来たりたもう神の光、神の遍在から、逃げも隠れもできないことを賛嘆しつつ、詩人は13節以降でなお詠いつづけます。
あなたはわが心腸(はらわた)をつくり、
わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。
わたしは恐るべく、くすしくつくられました。
わが魂はあなたの御業を最もよく知っています。
わたしが隠れた所で造られ、
地の深い所でつづり合わされたとき、
わたしの骨はあなたに隠れることがなかった……
神よ、あなたのもろもろの御思いは、
なんとわたしに尊いことでしょう。
その全体はなんと広大なことでしょう。
わたしがこれを数えようとすれば、
その数は砂よりも多い。
わたしが目ざめるとき、
わたしはなおあなたと共にいます。
精緻に造られた人間の尊さ
「わが母の胎内でわたしを組み立てられました」とあるが、母の胎、子宮は、人が生まれ出る前の小宇宙であり、生命造化の宮殿であると思います。
賀川豊彦先生は、婦人科の器官と構造を研究しつつ、「いかに子宮が大宇宙の智慧(ちえ)と愛を凝らして新生命を育成するように巧妙にできているか、その神秘に驚いて、今さらのように『造物主の愛』を知った」と言われたことがあります。隠れたる神秘なところで、なんとデリケートに人間は造られたものか、と私も深く驚きあやしむばかりです。
この詩を読むたびに私は、この自分の片手をも愛おしみ、尊く思う気持ちでいっぱいになります。他人様のことは知りませんが、かつては卑下しきっていた自分の生涯を、かくも変化し霊化せしめたもう神様を、今は夜も眠れぬほどに賛えて賛えてやみません。
宇宙の底辺において神がいかに精妙に私たちを組み立て、造り成したもうたか。私たち人間はなんと優れて尊く造られたことよ、と私は詩篇139篇の詩人と共に御業を賛えます。
例えば、人間の脳細胞の数は約150億といわれます(現在は「千数百億」といわれる)。優れた電子計算機の能力も、愛情の機微をとらえたり、見えない精神世界を洞察したり、宇宙を司る神を見抜くような人間の能力には及びません。あるイギリスの神経科の医師が計算してみたら、人間の頭脳程度の電子頭脳を造るには、3兆ドル以上を要すると発表しています。3兆ドルといえば、現在の日本の国家予算の約千倍です(1960年当時)。日本ほどの大国が一千国集まって、全予算を注ぎ込んでみてやっと、一つの人間らしい電子頭脳ができるかもしれぬということです。人間の霊魂が無限に価値あることに、私は驚きあきれます。
これは小さな事例にしかすぎませんが、お互い奇しく造られていることをあまりに知らなさすぎるのではないか。私たちはもっと、自分がもっているのに知らずにいる尊いものに気づくべきです。そして隠された、無尽蔵の、優れたものを使うことです。自分の中の隠された能力を、今までほんの一部しか使っていなかった。否、使うすべさえも知らなかった。しかし、これをフルに使ったら、どんなに大きなことができるかを思うと、未来が希望でなりません。
賀川豊彦(1888~1960年)
大正・昭和期のキリスト教伝道者、社会運動家。神戸のスラム街での伝道や生活協同組合の運動などによって社会改良を目指す。自伝的小説『死線を越えて』は当時のベストセラーとなる。
サタンよ、死んでしまえ!
神よ、どうか悪しき者を殺してください。
血を流す者をわたしから離れ去らせてください。
彼らは敵意をもってあなたをあなどり、
あなたに逆らって高ぶり、悪を行う人々です。
19節から急に、「悪しき者を殺してください」などという句が出てくるのは、おかしいとお思いになるでしょうが、そうではありません。こんな素晴らしい神様が、着々と計画して人間を育成しつつあられるのに、この神様に手向かったり背いたりする存在に対して、死んでしまえと言うのです。 ここで、神に抵抗し仇(あだ)する者を「悪しき者」というのです。
自分の周囲から、また自分自身の獅子身中の虫から、あなたを無価値のごとくに、無力のごとくになさしめる囁きが少しでも聞こえたら、それはサタンだ。この19節で「サタンよ、死んでしまえ!」とダビデが言っているとき、なんとダビデの歌にふさわしい、強い信仰思想ではありませんか! 神の特愛の寵児として尊く造られている、ということを幼い時から自覚していたからこそ、少年ダビデは何の屈託もなく、石を手に大敵ゴリアテに立ち向かうことができたのです。ダビデの生涯は、この自覚に貫かれています。
私たちが、今年をほんとうに最大の年たらしめんとするならば、まず必要なことは、神にある自尊心を喚起することであります。神によって造られた霊魂を、限りなく尊んで生きる心が起こること、これ信仰者の第一歩です。神に愛されている自分の尊さを知ることなくして、積極的な信仰、ゴリアテにも立ち向かう信仰は建設なしえない。これまで、どうもすべてのことに消極的で退嬰的であったというなら、そんな自分には、今日ここできっぱり別れを告げようではありませんか。ダビデは、「そんなやつは、殺してしまえ!」とさえ言っています。
もしあなたの精神に溌剌さが失われ、信仰が消極的なあきらめとなっているならば、それはサタンの怪霊に憑かれている証拠です。目覚めて悔い改めてください!
どうか、これまで無価値、無力のごとくに生きてきた過去を葬るための葬式の日として、今日、新しくもう一ぺん誕生しとうございます! 自分自身でさえ知らなかった本性に目覚め、自分の中の眠れる巨人を揺り起こして、信仰の戦いを進めてゆきとうございます。
いまだ試されざる可能性

手島郁郎と那須純哉選手(熊本駅にて)
昨夜のこと、この夏を私の所で過ごした那須純哉君が帰京するというので、私は、「那須君、君は実力は日本一でありながら、水泳連盟の選考にもれてローマのオリンピックに行けなかった。オリンピックに出た人は、あれで『精いっぱいやった』と言っている。しかし、君は精いっぱいやれなかった。君の可能性はいまだ試されていないんだ。だからこそ希望がある。米国のトロイ選手は2分12秒08(200mバタフライ)で優勝したが、君が全力を挙げて泳ぐときに、この記録を破るくらい易しいことだ。このことは、ずっと君の練習を見てきた私がよく知っているとおりだ。
去年(1959年)、日米対抗の大会で世界新記録を打ち立てた君も、今の君も、那須純哉という人間には何ら変わりがない。ただ、周囲の空気はいろいろに変わってきたであろう。悪辣な批評が毒ガスのように君の神経をマヒさせ、殺してしまおうとするかもしれぬ。もし、『おまえの実力はこれくらいでしかない。無力だよ』という囁きが少しでもあったら、敢然としてサタンの囁きに『否、ノー!』と言って応戦せねばならない。隠れもつ宝を再び自覚したら、『眠れるジャイアントよ、起きよ』と呼び覚まして、2分10秒を切る世界一の能力を、余すことなく発揮してもみよ。これは今後一年の、君の課題だよ」と言って励ましたことでした。
那須純哉(1939~1967年)
立教大学出身の元水泳選手。1959年、200mバタフライで世界新記録を樹立するが、翌年オリンピックの出場権を逃す。後に原始福音の伝道者となり、多くの人に感化を与える。27歳で召天する。
「あなたは尊いのです」
私自身、若い頃、大へん劣等感に悩みました。けれどもある時、今は亡き先妻が旅先から一通の手紙をくれました。それを読んで、忽然と自分に目覚め、勇気を奮い立たせたことでした。
「貴方(あなた)は、なんと優れたご素質をおもちでしょう。貴方は何でもおできになります。今後、貴方の未来がどのように開けてゆくだろうかと思うと、おそばにいる私は、どんなに嬉しいことでございましょう。どうか、今からグライダーを習いに行かれるのならば、いらっしゃってください(手島郁郎は熊本での教員時代、グライダー部創設のため、長野県霧ヶ峰で操縦の講習を受けた)。しかし、天から落ちるにはまだ早い。もっと尊いご使命のため切にご自愛ください……」
私はこの文面を読んで、どんなに感激して泣いたことでしょう。私はそれまで、誰からも尊敬されなかった。劣等な自分を見ては、自分にあいそを尽かしていました。
けれども、妻から「貴方は尊い」という手紙をもらった時に、「嘘でもよい。しかし、そうありたい」と、むくむくと新しい自覚が起こりました。妻のため、子供のためにも、自分は尊くあろう、尊い生涯であらねばならぬ、と幾度もひるみがちな自分を励ましてきました。この手紙こそ、天使の文字ともいうべきものでした。
私はほんとうに無力な、愚かなつまらん人間です。しかし、一人からでもよい、自分の知られざる価値を発見してくれるならば、その人を辱めぬためにでも生きたい。ましてやキリストに見出され、実にキリストに知られし私たちです(ガラテヤ書4章9節)。大声に「アーメン! まことにそうです」と叫んで、神の自己表現に自分を提供したい。今そうでなくとも、今後の10年間においてでも自己完成しよう、と誓わずにはおられません。
キリストに掌握(つかさど)らしめよ
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、
わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。
わたしに悪しき道のあるかないかを見て、
わたしをとこしえの道に導いてください。
「神よ、どうか、わたしを探って」とありますが、人間は我流で歩いていると、とんでもない方向に歩いてゆきますから、神様に自分の歩き方、信仰の仕方を点検していただかねばなりません。「自分は正しい、自分は悔い改める必要はない」などと言う人があります。しかし、それは実に天を畏れぬ人の言葉でして、私たちはいつも神の御前に「神様、私に間違いがあったら、どうか教えてください」と祈らなければなりません。
最先端の電子計算機は学者や技術者たちでなければ使いこなせぬように、人間の頭脳がそれをはるかに凌駕(りょうが)するほど精巧な機構(メカニズム)であるなら、普通の人の心ではその頭脳を使いこなせません。どうしても、己を義とする自我を十字架して、キリストの神我があなたを使いはじめられるように、キリストの神霊にご自分を提供しなければならない。キリストヘの従順、ここに信仰の奥義があります。「どうぞ神様、貴神(あなた)が私の大師となり、この頭脳を、この体を縦横に駆使してみてください。そして人間の尊さを余すことなく現してください」と祈らざるをえません。
神ご自身が、ご自分の肖像(にすがた)として、私たち人間をいと微妙に造られた。造りたもうたのが神ならば、これを用いたもうのも、また神であります。
使徒パウロも、「汝らの心を(この頭脳も)全くキリストに掌握(つかさど)らしめよ」(コロサイ書3章15節)と言っております。パウロは、またモーセや預言者エリヤは、なぜあのような偉大な生涯を送ることができたのであろうか。彼らといえども、私たちと同じ血が流れ、同じ感情をもつ人々でした。けれども、彼らの祈りには不思議な力がありました。自我に死んで超我(魂)というものを活かし、神に聴いて生きたからです。魂を、全く神の自由に使われる道具として生きたからです。この信仰の秘密を知りさえしたら、誰でも超自然的な力を体験できます。
自分に全く死んで、無我になって聖霊に生かされるとき、隠された宇宙大の能力を現しはじめ、どんなに外側は卑しく小さくとも、どえらいことがその人にどんどん起きるものであります。
私たちの内に潜在している能力(potential power ポテンシャル・パワー)、これを開発しないで一体何を教育し、何を啓発しますか。人間――この未知なるもの、まだまだ多くの未開発の宝を蔵しています。自分の内をまず開発し、かつ心の奥底までキリストに支配せしめるならば、私たちの内に無尽蔵の宝庫のあることを知るでしょう。そして、聖書の人物と同様に、否、それ以上に神の栄光を現しうる者となされることでしょう。
ポテンシャルヘッド
私は先日、熊本県南の人吉に行く汽車の窓から、球磨川に最近造られた人造湖と発電所のダムを見た時、魂に強く打たれるものがありました。それは、あの球磨川を、ただ眺めているだけならば単なる観光地でしかないが、この激流の水を水管で落下せしめると猛烈なエネルギーを得られるわけです。これは水の力ではない。宇宙の引力の利用です。高所より低所に流出する落差、位置のエネルギーを使うだけのことです。この流れる水のもつpotential head(ポテンシャルヘッド 潜在的な位置落差、位置水頭)を開発するために上流を堰き止めて、水を落としてやると、大電力、大工業力とは化して、産業文化に大貢献する結果となりました。
私たちに、今まで何がいちばん不足していたかというと、自分の潜在力を開発してこなかったことではないか。伝説に富んだ球磨川、その流れをただ眺めることのように、自分の過去を回顧したり、あるいは、今は流れも絶え絶えな熊本市内の川の水を見るようにも、無力な自分の、表面のみを見て首うなだれているならば、それは、自分を冒涜するのも甚だしい。
あなたは知らなかったのだ、隠された無限のエネルギー源を! 皆さん、あなたの中に潜在し、漲っている目に見えぬ宇宙の力を、落差を利用して逆落としに落としてみようではないですか! 信仰は大冒険です。清水の舞台から思い切り飛び降りるごときことですよ!
あなたがもし今、人生の困難な問題に堰き止められて行き詰まっているというならば、ここで思い切り、堰を打ち破り、霊魂を逆落とししてみることです。困難が大きければ大きいほど、ポテンシャルヘッド、落差は大きく、そのときあなたは自分自身を疑い見るほどに、無限の力があなたに貫通することを発見なさるでしょう。「下には永遠の聖腕(みうで)の力あり、怖るるなかれ」です。

球磨川の人造湖(瀬戸石ダム)
今まで困難にぶつかると、あなたはひるみ、負け犬のように、スゴスゴと引き下がっては、未知の力をついぞ試したことがない。そして、もうそれだけの無力な自分だと思って卑屈になられていたでしょうが、いま一度、自分がこの神の大能の力の管となりうることを発見し、思い切り神霊の力に用いられると、魂はむくむくと大闘志を湧かしてきます。
神が為したもう
詩篇139篇、この詩を心から歌わしめないものがあるなら、それはサタンだ。長年、信仰しながら、この詩の歌えぬ人は、そんな信仰はやめたがよい。我らは、サタンの否定の力に向かって「ノー!」と応戦して、神の子の尊さを、今日もほめ歌い、ほめ賛えたい。
ここで一つ、思い切り神我の潜在性を開発しようではないか。そして神から流出する潜在力を、この土の器を通して逆落としにして、目に物見せてゆこうではないですか。
主イエスは、「わたしに信ずる者は、わたしの為す業を同様にするであろう。またこれよりも大いなる業を為すであろう……わたしの名によって何を願うとも、わたしはこれを為す。父が子によって栄光を受けるために」(ヨハネ伝14章12、13節直訳)と言われて、キリストは真理の御霊として、助け主として、常に奇跡的に私たちを通して必ず活動することを約束しておられます。ぜひ、キリストの御名を呼んで、大いなることを祈願し、私たちの内に働くキリストの力で大いなることの実現を期待せねばなりません。キリストの御力をちっぽけに信ぜず、大いなる神として信ぜねばなりません。
信仰とは、神の力にすがること、そして見えない神の力を信ずる魂の力を啓発することです! どうか今、暗い人生観を葬り、積極的な、輝いた人生観にご自分を切り換えて、「私は無限に尊い神の子です。どうか神様、使ってください」と、超我を活かして進みとうございます。
(1960年)