■この講話は1973年、手島郁郎の晩年に幕屋の青年ゼミナールにて語られたものです。 戦後日本の精神的荒廃と宗教の役割について語っている本講話を、敗戦70年によせて掲載いたします。

青年ゼミナールで語る手島郁郎(1973年)

青年ゼミナールで語る手島郁郎
(1973年)

 今日から、原始福音とは何か、私たち幕屋の信仰の根本的性格というものをお話ししてゆこうと思います。私の言う信仰が一般のキリスト教と違う、ということを皆さんも知られるでしょう。

 初めに、マタイ伝の「山上の垂訓」の一句を読んで、それを諸君が注解してみてください。

「恵福(さいわい)なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」(マタイ伝5章4節)

 これはどういうことですか? この句のとおり、悲しむ者は、ほんとうに慰めを得るのでしょうか? 上っ面の慰めならば、どうせ気休めにしかならず、実際に、窮地に陥ったときには何の役にも立ちません。周囲にいる人々の人生を救い、やがては社会、国家、民族を救うほどの力をもつものが宗教であって、根本的な慰めを与えるのでなければ福音とは言えません。このような宗教こそ、男にとって命の賭け甲斐があるもので、今いちばん宗教が大事だと思います。

 ここで「恵福なるかな」という語は、ギリシア語原文で「μακαριοι(マカリオイ)」という言葉です。これは単に「幸福だ」という意味ではなく、「祝福された」という意味です。「祝福された」ということは、誰か祝福する者がいなければなりません。誰かと言いますと、それは神様です。

 私たちは、ひとたびキリストに贖われ、神の霊が自分の内に突き上げはじめると、「祝福されているなあ」という感謝が溢れてきます。悲しんでいるにもかかわらず、聖霊の祝福というものがやって来ると慰められる。神に祝福されて初めて、人は慰められるのです。

 うらぶれて貧しい不幸な一生。生まれてこなければよかったと思うような不毛な人生。しかし、神はそのような者の胸の奥からも、尊い永遠の生命を憤き出させてくださいます。これこそ贖われた者がひとしく体験する喜びであり、ここにキリストの宗教の目的があります。

(1973年)