原始福音とは、キリスト教の一流派ではない。

 イエス・キリストの宗教的本質を滴々(てきてき)伝承する霊的本源である。キリストの血に贖罪(しょくざい)されて新生した魂が、生けるキリストと偕に歩く信仰生活の体験として、福音書の原始イエスに直接に従い学ぶことを指向する霊的な伝統である。

 キリスト教の教会・教派を問わず、もし原始福音を少しも有せず、また、その教会の信者や教派の教師が原始福音を目ざす心を全く欠いでいるならば、名称はともかく、もはや本質的にはキリスト教と称しがたいのである。それは、新約聖書の中心である福音書と使徒行伝の信奉を抹殺することとなるからである。

 原始福音とは、キリスト教の本質であり、キリストの生命の現象への呼称であって、キリスト教のアルパにしてオメガなるもの、これ原始福音であるといってよい。信仰は原始福音に学んで出発し、原始福音に終わるだけで充分である。もしキリスト教から原始福音を取り去れば、キリスト教たる所以(ゆえん)のものを失い、キリスト教は死物のミイラに化してしまうのである。原始福音はキリスト教の一派ではない、キリストの宗教そのものである。

 世界にも、日本にも、いろいろとキリスト教の教派があるが、それらが多かれ少なかれ、原始福音を指向しつつある限り、それはキリストの命脈を保つものとして、私たちは尊んでゆかねばならぬ。ここに私たちが教派の差異を超えて、交わりの一致と寛容な心をもって敬愛する所以がある。

 宗教の目標は、伝承の敬虔な儀式や教義への知的な遵奉(じゅんぽう)にあるのでなく、各人が霊的な回心を得るにある。単に道徳的な悔い改めにとどまらず、旧来の性情が一変して、無明の闇に迷う心が霊的な光明に輝く喜びに交替することである。心が輝き、愛が湧き、善き意志が起こり、奇跡的な能力が賦与(ふよ)される新生聖化の経験である。

 クリスチャンになるということは、外面的に教理や信条を告白することでなく、内面的にキリストの血である聖霊の生命を領有して、神の国を生きてゆくことなのである。これを忘れているのが現代キリスト教の伝道ではあるまいか。

(1962年)