義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。
(ヤコブ書5章16節)

数の稀(まれ)なること、
暁天の星のごときは祈りの人です。
祈る人は多くとも、祈りの人は少ない。
祈りの人とは、祈祷をなす人ではない、
祈祷によって生きている人である。
祈って事をなす人である。
祈りに全托して、生活する人である。
祈りをもって、サタンを制する人である。
祈りを通して、科学を学ぶ人である。
祈りによって、病をいやす人である。
祈りによって、境遇を変化しゆく人である。
祈りによって、戦争までする人であります。

 祈祷を最大の武器として、勝ち抜いた人の模範は、神の人モーセでした。モーセは、まず神に問い、まず神に伺い、まず神の囁きを聴いて、万事、その身の進退を決した。神に祈りつつ戦い、神の声に従って民を導き、神の御旨を知って民を治めた。祈祷の力で、敵の大軍をも蹴散(けち)らしました。

ある者は戦車を頼み、ある者は騎兵を誇る。
されどわれらは、われらの神、主の御名を誇る。
(詩篇20篇7節)

 奇跡は信仰の子です。神の力と、神の心にのみ依り頼んで、自分の知恵、自分の才能に頼らず、つねに、ただ神の御稜威(みいつ)によって人生を戦う者が、祈りの人である。まことに祈りは、全天地をも動かすだけのエネルギーをもつ、と知るのが真の信仰人であります。モーセ然り、エリヤ、エリシャ然り、ハンナ然り、ダビデ、使徒パウロまた然り。

 彼らはみな、祈りの驚くべき力を知って生きた人々である。祈って神の力の発動を待ち、超自然的な結果を期した人々である。彼らはひとしく、絶望の谷底から神に叫び、全宇宙の支配霊、キリストの名をさえ呼べば、何でも万事できると信じ、また、そのとおりの結果を体験した人々であります。

 祈りの人とは、祈りの実力と、その応験を知る者のことである。祈る人は多いが、祈りの人は少ない。教会でクリスチャンは祈る。講壇で牧師さんは祈る。祭壇で神父、司教は祈る。彼らの祈りは、神に聴かれんためにあらず、人に聴かせるための祈り、祈りの真似である。「彼らはすでにその報いを得たり。」(マタイ伝6章5節)——それは敬虔そうにスクリーンに映る、映画女優の祈り姿と声色に、なに異なるところがあろう。

 祈る人は多い。しかし祈りの人は少ない。友よ、祈りは全地を動かす神の、その聖手(みて)を動かすことである。否、聖手の手先となって、自ら動くに至ることである。

 私はいつまでも罪責に嘆いたりしない。というのも、主の贖罪愛に嬉し泣きに泣いてしまうからです。主の愛が私の罪をも圧倒して包むからです。

 私は失敗を悔いない。もともと生まれつき出来の悪い私のことです。失敗があっても当然のこと——それよりも、こんな駄目な奴を用いても善き業にかりたて給うキリストの恵みに泣くばかりです。

 元来が鈍物である。しかし、どんなに進歩遅鈍であっても、花は自ら咲く。早春に咲く花あり、真夏の烈日下に咲くあり、秋冷に咲く花あり。秋の七草を春に花咲かせようとて、咲いてくれるものではない。花は自ら開くもの、その日を喜んで私は待っている。いつまでも待っています。

 もし私にも花咲く季節がありとせば、冬枯れの野辺、満目荒涼たる雪の岩陰に、雪を裂いても咲く、あの雪割草ででもあろうか。独り遅れて最後に咲き出ずる花よ、何人(なんぴと)も通る影なき山里に、私も精いっぱいに花を開くがよい。

 「されど人の子の来る時、地上に信仰を見んや」(ルカ伝18章8節)と、寂寞(じゃくまく)たる信仰の来世を想うて、主イエスはお嘆きになった。せめて私も終末の日に咲く魂となって、再臨の主、その御瞳をお喜ばせしたい花でありたい。これが私の希望の希望であります。

 身のほどを知る私は、こんなわけで、いつも希望満々である。人に知られずとも、主に知られたい。夜が暗ければ暗いほど、冬枯れがひどければひどいほど、その日近きを思うて、希望に胸がときめいてきます。まして、この過ぎ越し方を想い、溢るる主の恵みに、感謝はつきません。

 真の祈りは、鉄石よりも固い宇宙意識に、わが祈念を刻みつけてゆくことである。刻みつけた以上は、もう永遠に消えない。やがて事実となって、何らかの形に現象し来るものである。真の祈りなくしてなされた仕事は、どんなに成功に見えても、砂上の足跡のごとく、風過ぎれば跡形もない。

 人々に語るよりも、まず神に語れ。まず神に問え。まず神に聴いて、神学書や宗教書には聴くな。主のごとくに、大いなる叫びと、涙をもって祈れよ。祈りは神聖な労働である。

 神の栄光はどうしたら顕(あらわ)れるか。どんな祈りが聴かれるのか。

 第1に、神のご意思に反すると思うことは絶対に願わない。すなわち、神は最善の愛であるから、神の最善しか、自分にも他にも願わない、想わない。

 第2に、神のご意志にはどんなことでも(たとえ十字架であっても)従順に従います、と祈りうること。

 この条件下に必ず神の栄光は顕れ、神は無限の力をもってどんな弱い者をも助け、協力したもうべき者なることを体験できる。これが私の祈りの秘訣である。

(1956年)