【第5連】  
In the world’s broad field of battle,
In the bivouac of Life,
Be not like dumb, driven cattle!
Be a hero in the strife!
この世の広い戦場においても、
人生の露営においても、
唖のように追われる家畜のごとくあるなかれ!
闘争場裡(とうそうじょうり)の英雄であれ!

 この句は非常にいいですね。人生の大きな戦場において英雄であれ、人生の露営(ビバック)においても英雄であれ! 羊や牛馬などの家畜が群れをなして追われてゆく。シェパード犬にワンワン吠えられながら、羊の群れが唖のように黙々と荒野の涯を行進してゆく。そのようであるなかれ、というのです。闘争においてはヒーローであれ! どうぞ皆さん、台所の隅っこにあっても女主人公(ヒロイン)になってください。随所に主となれ! 人生のわび住まいをするような露営の時でも、英雄であれ! 原始福音の群れはヒーローでなければなりません。

 どのような場所においても、いつも人生は戦いであります。戦う限り、勇者でなければなりません。丈夫(ますらお)でなければなりません。これが私たちがキリストから召された理由であります。「汝ら世にありては悩みあり、されど雄々しかれ、我すでに世に勝てり」(ヨハネ伝16章33節)と、キリストは言われました。私たちは負けるために、悲しむために信仰するのではありません。この地上で勝つために信仰するのであります。このように、人生観、信仰観(考え方、信じ方)を切り替えねば、せっかく年頭に祈った祈りも、ついに実りません。

 時代の流れ、思想の流れのままに「あっち向け、ハイ。こっち向け、ハイ」というような人には信仰はわかりません。主体的信仰というものが、わかるものでない。組合運動の指導者から、「組合でこう決議したから、さあストライキをする。さあスクラムを組め、さあ街頭を行進せよ」とハチ巻させられ、組合の宣伝カーにアジられて歩く。私はあれを見ると、「ハハァ、家畜の群れが歩いている、かわいそうに」としか思わんですね。本当に死活問題で戦っている労働運動ならわかるけれども、年中行事としての闘争であって、やれ組合の団結とか規律とか、やかましいことを言って手かせ足かせ、時間まで制限されて束縛される。あれは盲従する家畜の群れでしかない。私たちは決してそうあっては相ならぬ! こういうことは信仰に相通じます。

アウトサイダーを誇れ

 全天下が真理に背いても私だけは背きません、というような人間を作らなければ、原始福音運動は展開できません。「闘争場裡の英雄」を造るということがまず信仰の第一歩です。大きいものに巻かれ、大衆の勢力によって生きていこうなんて言う者には、絶対に信仰はわかりません。いつの世にも、正義を踏んで生きる人はまことに少ない!

 今より600年余りも昔のことですが、南北朝に分かれて天下を争った時代がありました。南朝の人々は、吉野山に後醍醐天皇を奉じて、山間に蟄居し、雨露をしのがねばなりませんでした。しかしこの時、全日本が足利氏に靡(なび)きましても、楠木氏や新田氏、北畠親房らは共に大義を立てて南朝への忠節をまげませんでした。枕する所だにない山中に行在所を置き、60年もの年月、戦って屈することがなかった。これまた、楠木氏らが人生の露営において英雄であったことを示すものであります。

 一方、九州においても菊池、阿蘇氏が決起し、楠木氏や新田氏が滅びた後まで戦いつづけました。その後にも、私の先祖、手島石見守(いわみのかみ)は、後醍醐天皇の助有(すけあり)親王を奉じて、英彦山権現に数千の山伏を集めて立て籠もり、吉野朝が京都に帰って合体した後まで、なお戦いつづけました。ついに豊臣秀吉に滅ぼされるまで、大義を高唱して已むことがありませんでした。

 頼山陽が「菊池武光」を礼賛して――

 勤皇の諸将前後に没し
 西陲僅かに存す臣武光
 遺詔哀痛なお耳にあり
 竜種を擁護して生死を同じうす
 (「西陲(せいすい)」とは国の西端、「竜種(りゅうしゅ)」とは皇子のこと)

と詠んだが、それ以上に殉忠の節義に手島氏は子々孫々まで生きました。天下の形勢が逆転しても、正義の戦いに露営をしのいだ私の祖先――この血すじが、私をして今も叫ばせます。100人中99人が妥協しても、私は「ノー」という。私は世のアウトサイダーであることを誇りにさえしています。

 信仰はキリストへの節操にあります。世がすべて賊となっても、主(きみ)に二心を持たず、

 山は裂け海はあせなむ世なりとも主に二心わがあらめやも

 この心を魂の主であるキリストに持ちつづけることであります。世のクリスチャン、世のキリスト教徒がどのようにあっても、私はキリストの弟子らしく、真っ直ぐに生きたい。どんなに迫害を受けても、どんなに中傷誹謗を受けても、私は原始福音の戦いをする。自分のしたいこともできず、冷や飯を食わされて、嫌な思いをするような時にも、「主よ、貴神(あなた)は知り給う。私は貴神の奴僕(しもべ)であり、貴神の子です。私は貴神の道を歩きます」と言って過ごすべきです。プロテスト(抵抗)の信仰を持たねば、時代に抜きんでて自分を全うすることはできません。

人生の露営を潜っても

 誰でも、人生の大きな広い舞台に立ってヒーローになることは、何でもない。しかし、小さな狭い人生に閉じこめられているとき、野営の枕をしなければならぬ時に英雄であることは難しいことです。

 これまでに私はずい分多くの若い人たちに結婚のお世話をしています。幕屋の若い男女はいつも無から出発しなさる。何もない仮住まいの四畳半から、スモール・ビギニングの生活が始まる。月給も安い、露営の生活のように悪い環境である。しかし、そんな中でも貧乏ゆるぎ一つしない家庭を形成してゆく。これが幕屋婦人の姿です。「嫁入り道具なんか要りません。四畳半で結構です。私はこんな貧乏世帯を張っているけれども、ヒロインですよ」と言い得てこそ、本当に人生を生きている人の姿です。人生の淋しいキャンプ生活においても英雄でなければ、どうして広い闘争の庭に出で立つことができましょうか!

 貧しいということは、少しも恥ずかしいことではない。私たちは絶対に萎縮したりしない。どんなに乏しくとも、決して貧乏じみないことです。味噌をなめても、茶をすすっても、人生の侘び、寂びを味わうような、露営の勇者でなければなりません。何を持たずとも、破れ天井から月の光が射しこんでも、「風情があるなあ」といって、わびさびを楽しむような風流人でなければ、信仰はわかりませんよ。

 東洋人の信仰の心はこれです。西洋人の信仰とは違いますね。影はやくざにやつれても、心の錦を見てくれ、と言って、私たちは誇りをもって生きます。

 盗人にとり残されたる窓の月 (良寛)

 今の時代は、ひどい物質主義になって、何か物を豊かに持っていることが幸福の基準のように錯覚している。物質に取り巻かれていなければ生きられない。なにが無い、かにが無い、だからできない、環境、境遇が悪いからできないという。それは生命が死んでいる、萎縮している人の姿です。

 本当の生命というものは、環境に負けません。環境に負けるような生命――それはリアルなものでない、empty(空虚)なものだからだ。現代は亡霊のような生命がウヨウヨしている。しかし、私たちにとって“Life is real!”です。露営の人生を潜った魂は強い。唖のように追われる家畜(ドリブン・キャトル)の群れにはなるな! これがむつかしい。しかし、諸君はそれをなさねばならぬ。でなければ信仰ということはわかりません。

In the world’s broad field of battle,
In the bivouac of Life,
Be not like dumb, driven cattle!
Be a hero in the strife!
この世の広い戦場においても、
人生の露営においても、
唖のように追われる家畜のごとくあるなかれ!
闘争場裡(とうそうじょうり)の英雄であれ!

 さあ、諸君よ、声を出していつもこの句を口ずさんでください。私は散歩する時でも、「追われる家畜になるな! 闘争場裡のヒーローであれ!」と自分を励ますのです。

 どうか、皆さん方も、今年中この詩をもって、ご自分を励ましていただきたい。そのことなくして、今年の最終段階において、「ああ、よかった」ということはないからです。ただ信じて待っておればよいというものとは違います。かく願ったならば、どのようにしても、自ら挑んで獲得するのが、私たちの在り方ではありませんか!

 露営の筵(むしろ)の中にいても、随所に主となれ! 環境の支配者(マスター)であれ! 私はいつでも、息子たちに言いきかせてきました、“Be a hero in the strife!”と。若いんですから、理屈を越えて、「そうだ!」と言って自分を励ますんです。時に妥協したり、萎縮したりすると、「どんな時にも負けるな。それくらいのことで負けてどうするか、やるんだ」と私は言う。これは信仰からくるんです。

 「世に勝つ勝利は、我らの信仰」です。キリストと共に生きている私たち、キリストの霊を受けた、勝利の生命を賦与された私たちが、どんな時でも負けてよかろうか。この信仰、この人生観を確立しなければ、私たちはしぶとく生きることはできません。

(1960年)

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