【第2連】  
Life is real! Life is earnest!
And the grave is not its goal;
“Dust thou art, to dust returnest,”
Was not spoken of the soul.
人生は現実である! 人生は熱誠である!
そして 墓場はそのゴールではない。
「汝塵なれば、塵に帰る」とは、
魂について言われたのではなかった。

 Life is real! 「人生はリアルである」 Real リアルという意味は、真実というより、むしろ現実ですね。理想主義者(アイディアリスト)に対して、現実主義者(リアリスト)という言葉があるように、生きるということはありありとした現実なのであって、抽象的な議論ではありません。

 人生を何か夢のように虚無的な、はかないものと思っている者に対して、私たちは「ライフ・イズ・リアル! 人生はありありとした現実だ! 現実に生きていない人生は人生ですらないんだ」、「君の人生は抽象や議論や理屈かもしれない。だが自分においては、切実な現実なんだ、リアルなんだ」と言い切って生きることによって人生が変わってきます。さあ、諸君、「ライフ・イズ・リアル」と大声で言ってごらん!

 Life is earnest! 「人生は熱誠である」 Earnest アーネストという意味は「熱心」とか「真面目」という意味です。生きるということは真っ直ぐなことであり、熱心なことである。生命というものは率直なものです。バラの木に菊の花が咲くということはない。バラの木はバラの花を咲かせます。

 また、生きるということはアーネスト、熱意です。熱心です。ひたぶるな者にのみわかるものであります。偉大な生涯を送る人の一貫した特徴は激しさにある。人生の成功と失敗の分かれ道は、ひとえに熱意熱情の有無にあります。

墓場は人生の終点にあらず

 And the grave is not its goal. 「そして、墓場は人生の終点(ゴール)ではない」 多くの人が何故この世に虚しい夢を抱くかというと、墓場までの人生しか知らないからです。私の母でも死にますと、多くの人がお悔やみに来ます。「本当に悲しゅうございましょう。お悔やみ申し上げます」と言われますから、私はウッとにらみます。なぜ私を悼むのか。私の母は、墓場が人生のゴールとは思ってはおりませんでした。墓場を超えた世界を知っておりました。

 永遠の人生を生きる者には、墓場はただ一つの点(ポイント)、転換点である。否、むしろ本当の大いなる生命への出発点であります。そこからさらにより高い永遠の人生が始まるのです。

 幕屋の告別式ほど、世に素晴らしいものはありません。私たちは声の限りに「行ってらっしゃい! 勝ってくるぞと勇ましく、誓って地上を出かけてください。凱旋バンザイ!」を叫びます。これこそ、本当の宗教の来世観ではないでしょうか! 死を痛ましく、悲しく思うなら、それは、本当に救われていないからです。これまでに天翔っていった数多くの幕屋の兄弟姉妹たちを見ても皆、勝利の生命、キリストの生命で死を蹴破って生きているではないか。それで、どうか年とった方たちも、もう私の地上の生涯はゴールに近づいたなどと絶対に言うべきでない。いよいよ息を引き取る時こそ、天の父なる神の懐に、天上の幕屋に帰っていく尊い機会であります。

 死は墓場でない! 人生の終着駅でない! より輝かしい世界に入れるということを、老年の方は特にお信じください。「よっしゃ、もう墓場の先はいよいよ天が開ける。この体を灰にして、不死鳥のごとく飛んでいこう」と思いますと、来世は本当に輝かしいものになります。

死は永遠の世界への跳躍台

 死んだらもうおしまいだと思っている人と、死を越えて永遠の世界に生きようと思っている者とは、生き甲斐が違います。生きる気魄が違います。私はいつでも死を思う。死んだらよかろうなあという逃避的な気持ちではない。死んでもっと良い場に打って出て、やってやってやりまくりたいと思っております。霊界は地上界以上にもっと大きな働きの場です。伝道の場です。

 ですから死は悲しいものだと考えない。これが大事です。死と生――それは素晴らしい非連続の連続だ。死は喜びである。幕屋人にとって、死は勝利だ、死は復活だ、天への凱旋だ!

 地上限り、肉の生命しか知らぬ世の人は、「もう死んだらおしまいだ」と、短い人生を小刻みに、死ぬまい死ぬまいと、か細く生きています。年とった70、80の爺さん婆さんが、養老年金を貰って細々と暮らしている。私はあんな無意味な生涯は送りたくない。死は、私たちがもっと大きな世界に、三千大千世界に飛躍するジャンピング・ボード(跳躍台)だ。これはただの人生観じゃない。架空に信じていることじゃない。死後の世界が、私にはいよいよ確実なんです!

 『レ・ミゼラブル』という有名な小説を書いた文豪ビクトル・ユーゴーが言いました。

“The nearer I approach the end, the plainer I hear around me the immortal symphony of the world which invites me.”
「人生の終わりに近づけば近づくほど、いよいよ明らかに私の周囲に聞く、私を招く来世の不滅のシンフォニーを。」

 これが本当の宗教に生きる人の人生観であります。否、人生観ではなく、実験であります。私たちも老年になりまして、ぜひともこの実験を、墓場の彼方が恋しくて嬉しくて有難くてならないように来世の声を聞きたい。来世から不滅の音楽を聞くほどの霊覚者になりたいものです。

 天国の音楽に比べれば地上のシンフォニーなど、とても比較にならないものです。時として私は瞑想中、地上から取り去られて天上に引き上げられ、未来の世界からの呼び声、不滅のシンフォニーを聞くことがあります。それは体の外から聞こえてくるのではなく、私の身体が楽器のように打ち震うのです。あたかも天使が私の胸をオルガンにして、あるいはハープにして、あるいはバイオリンにして妙なる音楽を奏でているかのように、天のリズムが私を身震いさせる。ああ、もし私に五線譜を書きうる才能があるならば、この天界のシンフォニーを地上の音楽に翻訳するのですが!

 墓場が人生の終着点ではありません。“Dust thou art, to dust returnest” 「汝塵なれば、塵に帰る」(創世記3章19節)という言葉は、霊魂については言われていません。肉体は塵であるから塵に帰る。しかし、「魂はこれを授け給いし神に帰る」(伝道の書12章7節)と書いてあるように、魂は永遠に生きる。地上はつかの間であって、私たちは永遠に生きるのであります。このことを自覚しますと、地上の短い生涯もあくせくしたりしません。肉体は朽ちても、霊魂は朽ちません。

英詩講話『人生の詩篇』より

(1960年)

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