【第1連】 | |
---|---|
老いゆけよ、我と共に! 最善はこれからだ。 人生の最後、そのために最初も造られたのだ。 我らの時は 聖手の中にあり 神言い給う 「全てを私が計画した。 青年はただ その半ばを示すのみ。 神に委ねよ。全てを見よ しかして恐れるな!」と。 |
Grow old along with me! The best is yet to be, The last of life, for which the first was made: Our times are in His hand Who saith “A whole I planned, “Youth shows but half; trust God: see all nor be afraid!” |
ロバート・ブラウニングのいくつかの詩、この「ラビ・ベン・エズラ」や、「ある文法学者の葬儀」「プロスピシー」「アソランドヘの跋詩(エピローグ)」などを読むことで、私は雄々しい信仰を学びました。また、この詩を通して幕屋の方々を励ましてきました。この詩をよく読むことによって、若い皆さんも精神革命を起こすと思います。「信仰はまさにかくあるのか。それならば私もそのような信仰を学ぼう」と。そのことで信仰がほんとうに変われば、自分の生活内容まで変わってきますね。そして、難しい、下り坂になった今の時代に向かって立ち上がり、太刀打ちしようという意欲も湧いてくると思います。
間違ったメガネでは
私がブラウニングの詩を講義する大きな理由は、一般のキリスト教の信仰が、どうも聖書的でないからです。聖書はヘブライズムで成り立っています。しかし、西洋から伝わってきたキリスト教は、ヘレニズム(ギリシア思想)による、西洋流の解釈が主流なんです。それで、どうしても聖書が生き生きとして伝わってこないわけです。
例えば、このごろ私は、だいぶ視力が衰えてきたなあと思います。どうも聖書がよく見えないといって、別の人のメガネをかけても、字は読めません。同様に、私たちも聖書を読むときに、西洋からのキリスト教会流の神学で読んでもわかりません。
それで、聖書を読むのについては、ユダヤ思想といいますか、ヘブライズムというものが何であるかを知らなければ、聖書の信仰が身につかないのです。ここでのヘブライズムとは、思想だけでなく、聖書の宗教、その信仰にある生き方、それらの背景にある歴史や文化、社会などを含んだ広い意味を指しています。
これは、信仰以前の問題です。そして、そのような態度がなければ、聖書の信仰はわかりません。聖書の福音を日本に土着させるためには、私は幕屋の人たちにヘブライズムというものを、どうしても教えたかったのです。
ところで、聖書はヘブライズムに基づいて読むべきだ、聖書のもともとの信仰はこうである、ということに気づきましたのが、英国の詩人、ロバート・ブラウニングでした。彼はこうした見方で、幾つもの詩に書いています。彼は、ヘブライズムに深い造詣をもっていましたが、その対極にあるヘレニズムについても、十分によく知っていました。

東京・代々木での講話風景
この詩では、表題になっていますラビ・ベン・エズラの言行録を取り入れて、その思想を紹介しています。これを通して、ユダヤ人が、いかに高邁な精神をもつ民族であるか、また聖書をどう生きるかということがよくわかります。この「ラビ」というのは、ユダヤ教の先生という呼称です。
私と一緒に老いゆけよ
この詩は、32連からなる長いものですが、今日はこの第1連だけを読みます。
私と一緒に、老人に成れよ! と命令形です。ベン・エズラをして、ブラウニングはこう叫びかけています。それは青年、また自分の後輩に対して、私と一緒にどこまででも人生を歩いてみるんだぞ、そうでないと私が言うことはわからないぞ、というのです。
「老いゆけよ! 私と一緒に。私と一緒にずんずん年取りなさい」。こういう考え方が違いますね。普通だったら「年取りたくないなー、老人になりたくないなー」とみんなが言います。
人間、誰でも年取ります。そして、体力や記憶力などがどんどん衰えてきます。だが霊魂は、日増しに成長することができる。だから地上で、霊魂を成長させるだけ成長させてから、次の世界に行かなければならない。霊魂というものは、永遠の世界に属する、老いることを知らない存在だからです。そこで、死に瀕するような危険な時にも怯まずに進めば、霊魂が目覚め、向上する。こういった思想が、ブラウニングの根底にあるわけです。
今は物質文明がどんどん進歩して、便利で、安穏に生きられる時代になりました。そうすると魂を奮い起こしてでも困難に挑み、冒険してゆこうなどという気が起こりません。それでは霊魂はついに目覚めません。霊魂が目覚めないならば、年取りたくないのは当たり前です。そのうちに肉体は衰えてゆき、何も残らないからです。
そうではなくて、私と一緒にずっと年取ってゆけよ、と自分の後輩に言うわけです。
最善はこれからだ
最善は これからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。
どうしてか。それは最善がくるからです。The best is yet to beは、最善があろうとしているが、まだ君たちには、それが来ていないじゃないか。人生の最後が最善だ、それはまだ来てない。最善に向かって、私と一緒に歩いてみたら、たどり着けるんだぞというんです。人生の最後が最善であるということを発見する。素晴らしい句じゃないですか。
for which というのは人生の最後、すなわち晩年のためにですね。人生の最初、青年期は、晩年のために造られた。しかも、その人生の最後が最善であるために造られた。それで晩年が祝福され、最善でなかったならば生きる甲斐がないのです。
紅葉は要らないといっても
私の高商時代の同輩を見ますと、お互い年取ったなあと溜め息つくんですね。やあ、俺も定年退職してね、その後は、まあ子会社の重役などになっているよ、などと言います。しかし何だか、以前のような威勢のよさがないんです。
そこで何とかしようと、精力剤というのを飲みます。元気になって若返るよと、みんなが飛びつくんですね。とにかく栄養をとれば若返り、長生きできると思います。しかし嘘ですよ。寄る年波にはかないません。生きているもの皆、年取ります。やがて死にますよ。
また、女の人とお話しても、「お若いですね」と言うと、おばあさんでも喜びます。おかしなもんでね、本当は、「なんと立派なおばあさんでしょう」と言われるのを喜ぶべきですけれども、それを嫌いますね。おばあさんと言われたくない。老人になりたくないというのです。
あるご婦人は、私は昔は美人だと言われたけれども、だんだん年取って、今は角の生えた般若の面になった、と言って老け込むまいと頑張られる。自分の美を失うまいとして、いろいろ顔に塗ったりします。でも寄る年波にはかないませんよ。そして出来上がった鬼みたいな顔、何だか頑張って老年と戦ってみたけれども、負けたというような顔をしています。そうではなくて、人生の晩年、年取ったのに、ほんとうに素晴らしい心の境地をもっているということが大事です。
今は春を過ぎて、もう夏です。ここの庭の緑は、今が盛りです。植物の葉としては、それをいつまでも保とうとしても、保てません。しかしこの庭の葉っぱも、秋には素晴らしい紅葉を見せますよ。植物でも紅葉を示すのに、人間だけ、私は紅葉は要りません、私は緑でありたいといって頑張ったら、いよいよ変に萎れて、枯れてしまうことになります。
それで人生は、朝あり、昼あり、夜来たる、やがて地上から消える。神様は、晩年をほんとうに飾ろうとしておられる。だのに、それに背くということは、天理に、自然の法則に悖(もと)ります。
晩年は人生の黄金時代
私はこの代々木に住んでいて、毎朝早く、明治神宮などを散歩します。夜が明けるころは、辺りが美しいですね。また夕方も、きれいな夕焼けを見ると、ああ晩年もかくあれと思います。先日、グアム島に行きました帰りに、真っ暗になる少し前、なんと素晴らしい茜色じゃありませんか。私はその美しい空の色を見たら、ぽろぽろ涙が出て困った。神様は一日が終わろうとする時を、なんと美しく天地を飾られますことか。
「ああ神様、あなたは祝福の主です。こんな素晴らしい晩年を与えてくださって感謝にたえません」と、私は毎日、感激です。多くの人は、宝くじでも当てたら、少しお金でも握ったら、地位が上がったら、それを祝福のように思うかもしれません。私はそうじゃありません。物質的なものは何も持っていません。しかし多くの人たちと共に信仰し、共に学ぶことができるのは、なんとありがたいことだろうか。今の願いは、若い諸君が私と一緒にやって、私のごとくなってほしいと、私はそのことを祈っています。
私も以前と違って、体がいろいろぎこちなくなってきています。そうすると、死ぬ時が近いんだなという意識が絶えず離れないですね。しかし、この世を去る時に立派には去ってゆこう。すべきことはしておこう。神様、それを教えてくださいというような気持ちでおります。私には、老人になることと、死ぬことについて、いささかの不安もありません。
我らの時は、神の聖手に
次に、
我らの時は彼の手、神様の聖手の中にあった。「時」というのは複数で書いてありますから、青年期、壮年期、老年期、晩年期ですね。このHis が大文字で書いてありますのは、「神の聖手」という意味です。詩篇の31篇15節に、「私の時はあなたの聖手にあります。私を私の敵の手と、私を責め立てる者から救い出してください」とあります。
私たちが危機に瀕する時も、そうでない時も、私たちの運命というものはすべて、神の聖手の中に握られている。こういうことを危機に際して、よく考えることが大事ですね。
「神様、もうだめです。私はもう終わりです」と早まらないことですね。「神様、あなたはここまでお導きくださいました。まだこのままでは死ねません。終わりたくありません。神様、どうなされるのですか」 とそこに祈りが始まります。我らの人生の時は、神の聖手の中にある。私たちの運命を掌握してくださるお方がある。自分が運命の主人公ではないのです。
全体を計画されたお方
Who というのは聖手のお方です。すなわち「神が言い給う、 我がすべてを計画したのである」と。
A wholeとは、一つの全体ですね。この言葉は注目を要します。神様が、全てを全一なものとして計画されたのです。人生の晩年、最後、または人生の始まり、青年期などというが、それは、ばらばらじゃないんです。生まれてから、青年時代、壮年、老年、晩年に至るまでを、一つの全体として計画していると言われるんですね。
これが大事です。神様、私はまだ青年です。貴神(あなた)は一つの全体として私を掌握しておいでになられるのなら、次はどうなるんでしょう、と神に問いかけるところにお互いの祈りがあります。
ですから、ばらばらに部分、部分で、その時には儲かった、その時には栄えた、若い時は蝶よ花よと言われた、という考え方をしている場合には、信仰はわからない。一つの全体ですから、最後まで見なければ、全体を見たことになりません。
半ばだけで判断するな
それで、
青年は、人生の半分を示すだけだ。 青年期は人生の半分を、ほんのちょっとの一部分を示すだけですから、それで全体を判断したらいけません。若者が、いま自分は不遇だ、月給が安い、あいつに負けている、などと劣等感をもったりします。けれどもそれは、神様がどのような経過、プロセスを通して、一人ひとりの魂を導いておられるか、一人ひとりの魂の生まれが違うように、全部が違うことを知らないからです。青年期に、自分の惨めさを嘆くことはありませんよ。まだ半分しか示してないのなら、これからどのように変わるか、わかるものですか。
自分の現在だけを見て、また周囲と見くらべて、自分の惨めな状況だけを気にするなら、それは信仰ではありません。
全てを見るまでは
「神に信頼せよ。信託せよ」トラストバンクという銀行があるでしょう、信託銀行。信託せよ。信じて託せよ。今はまだ半分、それが今後どのような事業になって、大きい利子が付くかわかるものですか。だから現在だけを見て悩むべきではありません。そんな時には信仰がありませんね。むしろ、「神様、どうしたらいいでしょうか」と、私たちの時を握り給うお方に聞くことが大事です。
その次は、「全てを見よ、さもなくば恐れるな」です。全てを見るまでは恐れるな、とも訳せます。それは神様が、A whole I planned 一つの全体として一人ひとりの人生を計画しておられる。 だから、 全体、全てを見よ。一つの全体として晩年にまで続く自分を見るならば、恐れないでよかろうじゃないかというんです。
これが信仰ですよ。人は、未来を見る目がありませんし、力がありません。前途は、お先真っ暗です。誰でもみんな、未来に悩みます。未来に不安を覚えます。そしてまず自分を信じられません。特に青年時代には、まだ何やってもしくじりが多いし、何もかも未経験ですからね。青年期は、肉体の最も盛りですが、心や霊魂の問題になると始まったばかりの時で、一切が乏しく、自分に自信がありません。神を信ずることすら自信がありませんよ。
内村鑑三は言いました、「自分にとっては、信仰すら神から賜るのだ。自分で信ずる力はない」と。信仰すら神から賜る。それを祈るのが祈りだという。力ない人間であることを謙虚に知るなら、「神様、どうかあなたに信頼する心も、あなたがお与えてください」と願うことです。
しかし、神様は一つの全体としてお造りになったのですから、何があっても、それで一喜一憂すべきでありません。そうすると信仰の視野が大きくなるでしょう。自分についても、また人に対しても、見る目が違ってきます。皆さんがこんな人生観をもとうとされることが大事ですね。
不遇なブラウニングにも
この詩の作者・ブラウニングは、長い不遇の時代が続きました。男盛りの年30過ぎまで、彼の詩集は全然売れませんでした。その当時、女流詩人として非常にもてはやされたエリザベス・バレットという人がいました。このエリザベスが彼の詩を読んで、その素晴らしさにびっくりしました。やがてブラウニングは、この6歳年上のエリザベス・バレットと結婚しました。有名な女流詩人が皆に紹介、推薦しましたので、それからというもの、今まで埋もれていたブラウニングの詩が、脚光を浴びるようになりました。
神様はある人を世の中に登場させるために、いろいろなことをなさいますね。神様は一つの全体として人を導きつつあられる。そういうことがなかなかわからない。
人生の途中で、断片的な知識で判断したってだめです。信仰は生きることだ。生きながら学ぶことをいうんだ。ヘブライズムとは、生きることです。だから聖書に、「義人は信仰によりて生くべし」とあります。全てを見るまでは恐れるな。人生の全てを、大きいスケールで見ながら生きることが大事ですよ。
芝居でも全部見てみなければ、わかりません。今は大変な状況だ。まあ悲惨な場面だ。これならもうおしまいだ。しかし舞台が変わると、今度はハッピーエンドにもなります。シェークスピアは、人生はドラマだと言いました。舞台が変わらなかったら劇になりません。芝居になりませんよ。ドラマチックな人生を生きようと願うなら、どうぞ私の舞台を変えてください、と祈ることです。そして、神様が舞台を変えようとされる時に、怯まずに、ハイと言って従う心用意を、いつもしておくことが大切です。
永遠の世界
今まで学んだことは、老年は素晴らしいけれど、青年はつまらないというのではありません。青年時代が目的でなくて、人生の晩年のために青年時代はあるということです。すなわち、春夏秋冬があるように、春はいちばん楽しい、いい時季です。しかし、日照りの夏を経て、秋が来ます。やがて秋が去って、冬が来ます。そして、また春がやって来ます。
四季がめぐりますように、もう一度人生の始めと終わりとを繋ぐものがある。神の聖手が繋ぎたもう。それで、死を超えても、なお息吹き返す生命のエネルギーというものが、条件さえ整えば、現れてきます。
人は皆、人生の冬・老境に立った時、死んで冷たくなったら、もうおしまいと思う。次の未来に向かって、未知の世界に踏み出す時に怯みます。悩みます。ところが聖書は、次には隠された永遠の世界があるというのです。人間は、その永遠の中に生きることができる。永遠は、虚無の世界、無時間ではありません。そこが、単なる人間にはどうしても考えが及ばないんです。目に見えるところしか判断できない。見えない精神的なものがわからない。
それで、地上で充実して生きた者は、次の世界では、もっと充実して生きることができます。聖書的、あるいはヘブライズムの死生観では、生命が最も充実してきた盛りに、次の場に行って、もっと生き生きした世界に帰る。ここに惑いがなくなります。死を見ずに、知らずに次の世界へ移されるというのです。
(1972年)