手島 郁郎

 今日はヨハネ伝3章の、イエス・キリストとニコデモとの対話の記事を読んでまいります。ヨハネ伝は何か一つの真理を語ると、後に例話をもって説明しています。それで、2章の終わりで「信じる」ことについて前置きをして、3章の例話へとつながっております。

 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
(2章23~25節)

 「人々は……イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」とありますが、原文では「信じる」も「任せる」も同じ「πιστευω(ピスチューオー)」という動詞を使っております。ここだけを読んだ人は、私は信じているのに、イエス様は信じてくださらないのか、という疑問が湧くだろうと思います。

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講義中の手島郁郎(1973年)

 だが、「それは、すべての人を知っておられたからである」という。宗教は人を救うためのものですから、人間は何であるか、を知らなければ、ほんとうに人を導くということはできません。キリストは、人の中に何があるか、彼らがどのような信仰であったか、を知っておられたのです。

(1973年)