パウロは奥地をとおってエペソに来た。そして、ある弟子たちに出会って、彼らに「あなたがたは、信仰に入った時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊があることさえ、聞いたことがありません」と答えた。「では、何にバプテスマされたのか」と彼が聞くと、彼らは「ヨハネのバプテスマを受けました」と答えた。そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改め(メタノイア)のバプテスマをしたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に言ったのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名にバプテスマされた。そしてパウロが彼らの上に手を按(お)くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言で語り、預言をした。その人たちはみんなで12人ほどであった。
(使徒行伝19章1~7節)

 初代教会においては、ヨハネの悔改めのバプテスマに対して、イエスの聖霊のバプテスマとも呼ばるべき、不思議な経験が信仰の基礎でありました。これこそ初代教会のキリスト教を、他の宗派と画然と区別して特徴づけるものでありました。現代においても、イエスの宗教の根本的特質は永久不変で、強く保持されねばなりません。

 キリストの聖霊にバプテスマされる体験を欠いでは、キリスト教も成立しないのであって、もし、この体験が失われているならば、是が非でも、その回復のために真剣に祈り努力されねばなりません。

 初代教会の信者たちも、この聖霊にバプテスマされるまでは、実に無力でした。けれども、一たび五旬節の日にエルサレムの二階座敷で聖霊にバプテスマされるや、すばらしい宗教的活動を開始いたし、世界的な大宗教として展開して行ったのでした。

 聖霊のバプテスマは、単なる悔改めのバプテスマとは、異なるものです。イエスの弟子たちは主イエスの生前に、世より聖別せられ(ヨハネ伝17章17節)、また、復活のイエスにふれて霊的な平安も持っていました(ヨハネ伝20章21節)。けれども、それだけでは一個人の救いでした。彼らが全員一致して、迫害にもめげず、大活動を開始しだし、集団的意識を燃え立たせましたのは、実にペンテコステ以後の事であります。同じく宗教的活動上、私たちに必要なものは、この力ある福音経験であります。現代のキリスト教が見失っているものは、聖霊のバプテスマのエネルギーであります。キリストの御霊にふれて、罪を悔い、罪から聖別せられ、人間は回心します。しかし、それだけに止まってはなりません。もう一段と深い経験──キリストの御霊に満たされて、各々自分の内奥から洪水のごとくに聖霊の力に圧倒される神秘な体験に躍入されることであります。この熱火のエネルギーが信仰の原動力であり、このキリストの指導下に、伝道は不思議な進展を実現してゆきます。