クリスチャンとは、「キリストのもの」という意味です。キリストとは、ヘブライ語の「メシア」のギリシア語訳で、「油注がれた者」の意です。油は聖書ではいつも神の霊、聖霊のことであります。
私たちもクリスチャン、「キリストのもの」と呼ばれるならば、普通の人間とは違って、小さいながらもキリストに似て、聖霊の油を注がれた人間でなければなりません。そうでないならば、クリスチャンと称することすら憚らねばなりません。「キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず」(ロマ書8章9節)
聖霊の油注ぎ
聖霊の油注ぎは、ただ自分一個の救いのために必要なばかりではありません。一人の真に油注がれた者が出ると、世の中が一変し、歴史が革(あらた)まるという事実であります。
20世紀最大の哲学者に数えられるベルクソンは、その哲学の結論として『道徳と宗教の二源泉』という著述を残していますが、そこで言わんとするところは、「因習的な一般の道徳、宗教に対し、英雄の叫び声ともいうべき神秘な宗教、神秘な道徳がある。閉ざされた(因習的な)魂に対し、開かれた(英雄的な)魂がある。新しい文明が創造される時には、まずそれに先立って、神秘な開かれた魂、霊的な人間が発生する」ということです。
同様なことを、歴史学者のトインビーも申しています。「歴史の最大の問題は宗教である。少数の神秘な人物たちが、歴史を創造してゆく原動力である」と。事実、一人のイエス・キリスト、続いて十二使徒、さらに幾千、幾万の霊的人間が発生したことによって、歴史は紀元前、紀元後と大きく分水嶺を画するほどの転換をみました。これ、否定しようのない歴史の事実であります。
新約の時代のみでない。旧約聖書の時代を見ても、同様です。一人のモーセが現れると、エジプトの奴隷の桎梏(しっこく)に喘(あえ)いでいた十二部族が解放され、一民族イスラエルが誕生します。またギデオンが、サムエルが現れると、彼らの歴史に新しい歩みが刻まれます。そしてついに生まれたのが、サウル、ダビデ、ソロモンの諸王によるイスラエルの黄金時代であります。このことはさらにヨーロッパや東洋の歴史についても同様であります。
歴史を動かすエネルギー
私がかねてから興味を抱いておりますのは、今から100年前、中国に起こった太平天国の運動です。昔からキリスト教の伝道の難しいといわれるあの中国大陸に、原始キリスト教の旗印を掲げて、一時はほとんど全土を席捲せんばかりの勢いを示したクリスチャンの群れがあったのです。
その一群の指導者は、明朝の重臣の血筋を引く、洪秀全(こうしゅうぜん)という青年でありました。彼の父がまずキリスト教の感化を受けましたが、息子の洪秀全は特に信仰に熱心でありました。そしてある時、神秘なエクスタシー状態になって、不思議な経験をした。白髯(はくぜん)白衣の老人が現れて、彼を祝福し、「お前は偉大な事業をなさねばならない。今の諸宗教は、みな悪魔を拝んで、造り主なる我を忘れている。お前はわしに仕え、すべての悪霊を調伏(ちょうぶく)せよ。真の神を拝する太平天国を作れ」と告げ、王位の印璽(いんじ)を与えた。
この幻を見てから、彼はしばらくの間、夢遊病者のごとくでありましたが、正気づくと彼は人格一変、不思議な力に満ちた人物に変わっていた。不思議な魅力を帯びて、若い洪秀全にふれると、偉い家柄の者たちも彼に頭を下げざるを得ず、多くの者がコンバージョンし、礼拝の時など激しい霊打ち、異言、預言、神癒(しんゆ)などの奇跡が起こりました。そこで「拝上帝会(はいじょうていかい)」という信仰団体が生まれ、洪秀全は数千人の信徒の指導者となりました。これを知った清朝の軍隊は迫害を始めました。しかし、異民族清朝の腐敗しきった官僚政治に塗炭(とたん)の苦しみを嘗(な)めていた中国人たちは、拝上帝会の人々の溢れるような愛と規律正しさに魅かれて、次から次へと洪秀全に従い、その群れに加わった。洪秀全は革命軍の総将として、南シナの広東から始めてまたたく間に南京を占領、大きな版図を支配下に収めつつ、北京城外まで攻め込むに至りました。
ところが、防ぎきれなくなった清朝政府は、英仏両国に援助を求めた。洪秀全にとって、これは意外なことでした。キリスト教を国家の最高方針としようとするのであるから、当然自分たちを助けてくれるはずの西洋キリスト教諸国が、腐敗した偶像教の清朝を助けて、自分たちを圧し潰(つぶ)そうとする。一方、英軍の指揮官になったゴルドン将軍も割り切れなかった。キリスト教によって太平天国という理想国を建てようとする革命軍、その兵士の厳粛な軍紀、占領された土地の人民の平和な幸福なありさま――まさしく太平天国の名に恥じない状況が生まれつつあったのでした。
しかしさすがの太平天国も、強力な外国軍隊によって、ついに潰されてしまい、洪秀全は悲憤のうちに斃(たお)れてしまいました。
お互いクリスチャンであろうというならば、どうかこの歴史を動かすほどのエネルギー、この実力あるキリストの福音を身につけたいものです。今の時代が物質文明に酔いしれている時に、私たち霊的に目覚めた者は、もう一度自覚を新たにいたしとうございます。その意味で、サウル王の油注ぎを語るサムエル記のこの一節は、カリスマ的人物はどのようにして生まれ育つかについて、尽きせぬ教訓を私たちに与えてくれるものであります。
カリスマ的人物の発生
モーセに率いられて出エジプトして以来、イスラエルの民は、周囲の諸民族とは異なった政治的形態をもっていました。エホバご自身を王とし、その御意(みこころ)を承(う)けた預言者や士師たちが民を指導するという、神政による十二部族同盟、これがモーセ以来の国家理念でした。
しかし、預言者サムエルも漸(ようや)く年老いた頃になって、民の中から、自分たちも周囲の異民族なみに王をもちたいという声が上がってきました。サムエルは「イスラエルの王は神ご自身以外にない」と極力反対しましたが、神に祈って「今は彼らの希望を容(い)れよ」との御示しに、とうとう王を選ぶことになった。ここからサムエル記上9章の物語が始まります。
サウルの父キシの数頭のろばがいなくなった。そこでキシは、その子サウルに言った、「しもべをひとり連れて、立って行き、ろばを捜してきなさい」。そこでふたりはエフライムの山地を通りすぎ、シャリシャの地を通り過ぎたけれども見当らず、シャリムの地を通り過ぎたけれどもおらず、ベニヤミンの地を通り過ぎたけれども見当らなかった。
歴史というものの始まりは、輝かしいものではありません。むしろ当たり前以下のような、卑賤(ひせん)な状況の中から新しい歴史が発生する。
「キシという裕福な人」といっても、ベニヤミンは小さな氏族で、しかもやせた荒地に住んでいるのですから、大したことはありません。その子サウルは体格が立派で美貌であったとはいえ、まあ普通の人間でした。恐らく当時30歳くらいのはずですから、もう独立してよい年頃なのに、まだ部屋住みで、親の言いつけならば、いなくなったロバを捜しにでも出かけてゆく、平凡な人間でありました。
しかし、どこまでも忠実に捜し回った点は大事です。「小事に忠なる者は、大事に忠なり」。この世の小さな仕事でも忠実に成し遂げ、立派に成功するようでなければ、ましてや神の国の番頭役に取り立てられた時に、神の無限の富を支配できたりしようか。どんな商店や工場で働いても、ほんとうによくやる。それがやがて神の国を任せられた時にも、よくやる性質と変わります。
この世の事すら満足にできないような者は、伝道なんかできません。昔から“でも坊主”という言葉があります。他の仕事が何もできないから、坊主にでもなろうか、というような者ばかりがなるとき、宗教は駄目なんです。今日キリスト教が振るわんというのも、1つには、一流の大学にパスできず、二流の大学にも落ちるような者が、仕方がないから〇〇大学神学部にでも行こうかというわけで行くから、駄目なんです。もちろん例外もありますが、そういうたるんだような精神からは、カリスマ的人物の発生は望むべくもありません。
ロバよりも尊いもの
どこまで行ってもロバは見つからず、精も根もつきはてた時、サウルはハッと気づくところがあった。「ロバよりも、息子がいつまでも帰ってこないということになると、年老いた父にはモット大変だゾ」。父親の所有物のために一生懸命歩き回っていたサウルでしたが、失われた物を外に捜して、「これはもう取り返せない」と思い当たった途端、「ロバよりももっと大事なものがあった!」と、自分の尊さを感ずるようになった。ここに宗教心の発生があります。
何かこの世の事に行き詰まり、財産、健康、地位など後生大事に思っていたものをなくして、目先真っ暗となる時、ハッと、それ以上に失ってはならなかった大事なもの、霊魂の世界の存在に気がつくのです。有名な宗教心理学者のウィリアム・ジェームズは、「宗教心は、人が何か不如意 something wrong を感ずるところから発生する」と言っております。外側の物事が順調に行っている間は、問題を感じない。しかし何か調子が狂いだすと、自我というものが目覚め、その解決を求めて魂の世界に飛躍してゆくキッカケとなります。
奴隷にすすめられて
ここでもしサウルが信仰の深い人であったら、「そうだ、この近くには預言者サムエルがおられるはずだ、すぐ訪ねよう」と自分のほうから言い出すはずですけれど、下男のほうから言い出しています。しかも「神の人がいる」とだけでは主人の気持ちを動かすのに足りないと思ったのか、「尊ばれている人、この世的にも有名な人がいるんです」と言った(尊い人は不適訳)。そう言われないと、行こうという気にならないから、サウルも情けない男です。宗教人の値打ちは、この世的な名声などとは全然違うことです。けれどもサウルばかりでない、すべて初歩の人を導くには、情けないことだが、こんな誘い方も時には要るものです。
しかし、とにかく大王サウルの発生は、まず卑しい奴隷が彼を神の人の所に導いたことから始まったのでした。それなら私たちにも、自分が王様にはならなくても、王様を生まれさせる手伝いはできそうです。それは非常に尊い、かつ生き甲斐のあることです。一人のカリスマ的大人物が生まれるためには、その陰に多くの人の協力があるのです。決して自分ひとりの力でカリスマ的人物になれると思い上がってはなりません。
「神の人の所に行くのはよい。しかし何を手土産に持っていこうか」。パンでも残っていたら持っていくのだが、と言うのですから、アキレます。後世にまで大預言者として聞こえたサムエルも、お稲荷(いなり)さんなみにバカ扱いされている。しかし、それというのも一般の宗教家がつまらんからです。
4分の1シケルは2~4グラムに当たりますから、小さな銀片、まあせいぜい100円玉1個といったところです。それをサムエルへの土産にするというのだから、宗教をバカにしています。「言われることは何でもそのとおりになる」といっても、国家の基礎を造るほどの大預言者とは見ていない。安っぽい辻占いの易者程度にしか見ていません。情けないことですが、宗教が力を失っている場合はムリもない話です。
しかもサウルは、「そうか、お前が金を出すんなら行こう」と下男のヘソクリでなら行くというのですから、これまたアキレタ話です。およそ宗教心も何もないことがわかります。ちょうど特別聖会に誘われて、「わたしが金を出すから」「そんなら行こうか」といった程度です。カリスマ的大王サウルの出発も、初めはそんなでした。大切なのは、それから先――神霊の注ぎを受けるに至ることにあります。
失われた魂の回復
先見者は、神からいろいろなことを黙示されて、「幻に見る」ほうの預言者です。預言者はむしろ「神の声を聞く」ほうです。サムエルは、「我聞く、エホバ語り給え」(サムエル記上3章10節)と言って、聞くほうの預言者です。皆さんでも、ほんとうに神に聞く態度を続けておられると、神はいろいろなことを、声ならぬ声で示し給います。人間の知恵や工夫ではどうにも解決つかぬ切実な問題に迫られる場合に、次元を異にした、思いがけない解決、宗教的解決があることに気づかねばなりません。真の信仰のあるところ、必ず解決があります。神の霊的な力が働くからであります。
もう10年ほど前、私が熊本におりました頃、こんな事がありました。ある日のこと、付近の村から、一人のお百姓の奥さんが訪ねてきました。
「聞くところによると、先生は偉いお方で、いろいろなことを教え、また当てなさるということだから、お願いがあって伺いました」と言われる。
「何ネ?」と聞きますと、「うちの馬がいなくなった。先生、あの馬はどこに行ったか教えてください」
私はちょっと度肝を抜かれました。「品評会にも出た立派な馬で、元気にしておったのに、ある朝、起きてみたらいなくなっていた」と訴えます。考えたってわかりっこありません。しかし私の目にはフト映るのです。
「その馬は茶色で、こんなこんな体格の、頭を上げ気味の馬ですネ」
「ハイ、そのとおりです」
「その馬は、二の岳(たけ)の麓(ふもと)におるのが私の目に映る。そこには小川があって、ささ藪(やぶ)があって、数軒の家がある。その部落の中の空いた馬小屋に、50がらみの小柄な男が、その馬を連れて入っていくのが見える。しかし、どうもその家の男ではない……そういう情景が私には映るが、それ以上はボクにもわからん。何かのヒントがありますか?」と言うと、
「ない」と言います。
「最近、その馬を買いたいとか、良い馬だとか言って、ようすを見に寄った小柄の男がおりゃせんか?」
「いや、どの人でもうちの馬を見たら、良い馬だ、と言いますから」
「いや、何か目つきの違う男がおりゃせんか」
「そう言えば一人おった」
「そうすると、その線から辿って、二の岳の麓の部落と何か連絡がつきゃあせんか。………」
などと言って応待したが、自信はありませんでした。
ところがしばらくして、その婦人がやって来て、「先生、不思議です。先生のおっしゃったとおりの所に見つかりました。馬盗人もつかまりました」と言われたから、我ながら驚いたことでした。
その頃はそんなことがよくあって、またよく当たったものでした。しかし、ある時からもう私は、そういう話をもってこられても、滅多に乗らなくなりました。失くなった物を取り返すことはできても、その人自身の魂を取り返す真の伝道にはならないからです。
宗教は、見失っていた自分の魂を回復することです。国家、民族を建て興すほどの力があるのが宗教です。安占い師や千里眼程度では困ります。
しかし、宗教は神秘な力のあるものですから、皆さん方も霊的なものを受けられた以上は、日常の茶飯事にも霊眼を利かせることを練習なさったらよい。意外な発見をなさるでしょう。私なんかでもできるのですから、皆さんにだってきっとできます。何か困ったことにブツかった時、静かに目をつむって、考え事するんでなく、「何か自分に映らんかな?」と祈り心地でいなさると、パッと映ります。
霊的な新世紀の到来
中近東方面では、町は大抵テルといって城壁をめぐらした丘の上に建っていました。その丘のいちばん高い所は、「高き所」と言って神の礼拝所になっており、サウルたちが着いた日はちょうど祭りの日で、サムエルも来ることになっていました。水汲みの女たちが祭りの次第を詳しくサウルに説明してやっているところを見ると、サウルはよほど宗教については何も知らなかったものと見えます。
「主はサムエルの耳に告げて言われた」は、原文を直訳すれば、「サムエルの耳に隠されなかった」。サムエルだけには秘密をあらわにされた、ということです。
当時、イスラエルの十二部族は、ペリシテ人の支配下にあり、武器も取り上げられ、いろいろな年貢を搾り取られ、大変苦しんでいました。その呻きが、雄叫びの祈りがついに天に届いた時に、神はその民の悩みを顧みられる(「顧みられる」の直訳は、「訪れられる」です)。
神が訪れ給うということは、神の霊が一人の人に訪れ、この人を通して、ありありとした働きを顕(あらわ)し、その祝福を多くの人に及ぼしめ給うことです。モーセがそうでした。エジプトの地に奴隷の境遇に苦しむイスラエルの民の叫びが天に達した時、神は一個人モーセを訪れ、彼を起こすことによって民全体を顧み、ついに出エジプトなさせ給いました。ギデオンの時もそうでした。このサムエルの時もそうです。またダビデ王朝が衰えて、長年の間、民が諸異民族に苦しめられ、暗黒の死の影に座するような苦しい状況が絶頂に達した時、ついに神は民を訪れ、イエス・キリストを起こし給いました。処女マリヤは「はしための卑しいさまを顧みてくださった」と歌う時に、それは決してマリヤが自分一個の救いを喜ぶのでなく、いやしい自分を通して、いやしめられてきた民全体に祝福が及ぶことを預言しているのです。
私たちも今、同様に苦しい時代に生きています。物質的なものはどんどん進歩してゆきますが、その陰で人の魂はかえって荒廃し、真に人間らしい生きる喜びは失われてゆきつつあります。しかも科学の力で、恐るべき大量殺人兵器が現実に造り出され、いつ全人類が吹っ飛んでしまうかわからぬような状況が急を告げています。
しかしその中から上がった叫びはついに天に響いて、今や神は、地球人類を訪れつつあり給う。神の霊的新時代が到来しつつある。その兆(きざ)しはありありと見えはじめています。今、全国津々浦々に次々と生まれつつあるキリストの幕屋の民はその初穂です。私たちは自覚を大きくもたねばなりません。私たちが救われたのは、決して自分一個のためでない。小さく見える一個を通して、多くの人々に祝福が及ぶためであります。一人ひとりが、多くの民に、永遠の祝福の基となるのであります。
大いなる使命に目覚めよ
高き所の祭りの場に行けばサムエルに会えることは、先刻教えられて知っているのです。にもかかわらずサムエルの家を探そうというのです。「まあ私には、そういう礼拝とか集会とかいうことはどうでもいいんだ。失われたロバだけが問題なんだから、祭りの前にちょっとサムエル先生に個人的にお目にかかればいいんだ」。よくそんな人がおります。
「先生にぜひ個人的にお目にかかりたい」
「何です?」と言うと、
「実は私は病気でして、そのうえ仕事のほうもこんなこんなで破産しそうなんですが、どうしたらよいですか」
「そんなら集会に来てください」と言うと、
「いや私のは個人的問題でして」などと言われる。
これは、カリスマ的霊的解決ではありません。多くの霊的な兄弟たちが熱く祈っているような霊的な場にあって、最もよく解決されるのであります。サウルはまだ個人的利得だけにとらわれて、宗教的な場を敬遠している様が見えるのであります。
ただロバのことばかり思っていたサウルに、やっと出会ったサムエルの言葉は、さすが大宗教家、およそ意想外、スケールが違います。サウルの言い分を聞く前に、「まず高き所に上れ、集会の場に行きなさい」と命令します。易者のようなことはしません。
「ロバはとうに見つかっているから心配せんでもよい。ロバは帰ってもどうせまた死ぬ。それよりも根本的な自分の霊魂の問題を解決せずに何になるか。お前にはもっとはるかに大切なことがあるのだ。……自分の直弟子や民の長老たちが一緒に食事をすることになっているが、お前もパンが尽きはてているなら、一緒に食おう」
サウルの求める以上に、サウルの一切の必要を見ぬいて、それを与えようとしている。これが真の宗教家です。
「まず私の所に一泊しなさい。あなたの心にあることをみな示そう」。ただロバのことだけではありません。ペリシテ人の圧制下の同胞の苦しみは、サウルの心の中の大きな問題であったでしょう。またサウル一個としても、年30幾つにもなって独立もできず、親のもとで下男がわりの仕事に使われているような状態では、自らやりきれない思いもあったでしょう。サムエルは、そういったお前の心にある一切の問題を透視し、解決してやろう、と言うのです。
一切の問題の解決、これが本当の宗教であります。何か魂だけの解決、あるいは物質だけの解決というような部分的解決しかせぬものは、本当の宗教ではない。
「イスラエルのすべての望ましきものは誰のものか」。今はそれらはすべてペリシテ人の手に抑えられている。しかし、いつまで苦しみに耐えているのか。民の呻きは、今や天に達した。神の特愛のやからベニヤミンの族よ、今こそ立て。サウルよ、お前は30過ぎてなお自分一個のことも構いきらぬ状態でいいのか。大概でもう目覚めよ、大きな使命のために生きる者となれ! 民族の救いに立ち上がれ!
神の霊が働くとき
全イスラエルを率いて起(た)てよ! とのサムエルの言葉は、サウルの気持ちにはあまりにかけ離れたものでした。イスラエルの中でもとりわけやせた地に住む小支族ベニヤミン、その中でも自分の属する部族は特に卑小である。古代社会では、部族や家柄が非常に物を言った時代です。そんなつまらぬ私に、何をあなたは期待しようと言うのか。そんなことより、私は、失われたロバでも帰ってくれて、まあまあ小さく平和に暮らしていったほうがよい。自分の生涯を小さく小さく考えていたのがサウルでありました。しかしどんなカリスマ的人物も初めはこうなんです。
ギデオンがそうでした。ミデアン人の圧迫がひどかった時で、ギデオンは麦打ちをするにもミデアン人に掠奪(りゃくだつ)されないために、わざわざ岩穴の中に隠れて打つくらいに、小さく縮こまって生きていたのがギデオンでした。その彼に天使が顕れて、「大勇士よ、主はあなたと偕(とも)におられる。行ってイスラエルをミデアン人の手から救い出せ」と言われた。彼は「こんな卑しい家柄の弱いつまらぬ私が、どうしてそんなことができましょうか」と尻込みしました。しかし小さな2つの奇跡を通し、確かに神の霊が自分と偕に在ることを示され、思い切って起ち上がりますと、奇跡が続出する状況が展開し、ついにイスラエルを救う者となりました。
「つまらぬ自分に、とてもそんな大事業は……」と思う。そうです。人間業ではとてもできません。しかし神の霊が働きはじめるならば、全然違った状況がたちまちに現出します。卑小な人間を通して、驚くべき神業が実現します。皆さんも小さなしるしを見たら、大きく信じ、大きなしるしを期待しはじめなければいけません。こうしてサムエルが、初めは信仰も何もないサウルを、神の器に仕立てようと導く導き方が、ありありと記されています。
神の国の逸材よ!
サウルは、小さな銀貨一つ、しかも下男のを取り上げてサムエル大先生を訪ねたのに、サムエルはそんなサウルを食卓の最上座にすわらせ、取っておきの肉をサウルにだけ食べさせるという。最大級のいたれりつくせりの丁重なもてなしようです。ももの肉はむしろ肩の肉と訳すべきでしょう。肉としてもいちばん美味しいところですが、なお宗教的意味から言って、肩やももは手足を働かす大事な付け根であって、これを食べさせることによって、神がサウルを自分の手足として用いようとしておられることを表しています。
「神の油注ぎをすべき人物はどこかにいないか?」と探していたサムエルに、やっと示されたサウル。ちょっぴりの銀を土産にやって来た、宗教心も乏しいこんな男に油注いでやったって、使いものになるだろうか?
けれども神の示されたこの男に、何とまあサムエルは懇切丁寧な、一生懸命な歓待をしたことか! それほどに神の人となるべき器が少ないのです。これは伝道をしていたらほんとうにそのことを痛感します。これは、というような人間がなかなかいないのです。しかしもし見出したら、私は「この人を何とかものにしたいなァ」と痛切に思います。一生懸命、ご馳走したり何したりして大事にします。ここでも、ロバ捜しにきて路銀を使い果たしたようなみじめな青年サウルを、何とかして神の国のため一役果たす人物に仕立てたい、とサムエルが一生懸命になっている情景がわかりはしませんか?
2階の上等な部屋に床を設けてサウルを寝かせ、サムエルは1階で寝ました。最上賓客の待遇です。たぶんサウルも「どうしてこんなにまでしてくださるのか?」と訝(いぶか)しく思ったでしょう。しかし本人は自覚せずとも、サムエルの目には、神に召された人の霊魂の価値は実に大きく映ったのです。
これはサウルだけのことでない。私たち自身、かつては小さく縮こまって生きていたのに、ある時から不思議に身に余る祝福の衣を着せられ、黄金(こがね)の御殿(みとの)に住まわせられるようになったではないか!
これは神が私たちをさらに大きく多くの人のために用いようとしておられるしるしです。
翌朝になると、大預言者サムエル、かつてはミヅパで民を率いて祈り、血ぬらずしてペリシテ人の上に輝かしい勝利を得た、王にも勝る尊いサムエルが、まるで小使い番のように、「もう起きなさい、サウルよ」と、眠たがっている青年サウルを呼び起こす。
同様、真っ暗い20世紀の夜、しかし新しい時代の夜明け前に呼び起こされた霊的一群がある。それは私たちです。眠たがっているような自分たちに、神がもどかしいまでにかけてくださる期待が、どんなに大きいことか! 20世紀のサウルたちよ、目覚めよ!
サムエルより油注がれて
その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わねばならない」
サムエルは、聖所でもない、教会堂でもない、神の霊感が囁くままに、町はずれに下ってゆく道端でサウルに油注ぎしました。建物や習慣が問題でない、神の霊感が囁く場こそ大切であります。その霊感の囁くとき、時を移さずその場で従うことが大切な点であります。
しかも、サムエルはわざわざたった一人の下男をも人払いして先にゆかせました。サウルをサムエルにまで導いた下男は聖霊を受けることなく、下男にすすめられて従(つ)いてきたサウルのほうが大事な生命を受けてしまいました。理屈に合わんが、事実です。「あの人が私を信仰に導いてくれたのに、その誰さんが信仰を離れてしまって、私だけが残ってこんなに恵みを受けている。なぜだろうか」と不可解なことがあります。
しかし神のご計画は人の思いをはるかに超えています。人目にも自分の目にも、つまらぬように見えるこの自分を神は選び、不思議な導きによってご自身へと引き寄せ、物質文明にひしがれた同胞を救う神の大事業に用いようとされる、その事実に驚かねばなりません。
サムエルはこれからサウルが出会うであろう3つの出来事を預言します。第1は、ロバが見つかったと告げる父の使者に会うであろう。しかもラケルの墓のそばで会うという点に意味があります。
ラケルはヤコブの妻でした。ヤコブの第1の妻はレア、その腹から6人の息子が生まれました。ラケルは第2の妻で、ヨセフとベニヤミンを生みました。しかもベニヤミンを生む時は旅の途中、大変な難産で、ベニヤミンを生み落とすや、子供の命と引き換えにとうとう自分は荒野の道のかたわらで命を落としてしまいました。今でもベツレヘムの郊外の道端に小さな墓があります。ヘブロンでは本妻のレアがアブラハム、イサク、ヤコブなどと一緒に堂々とした墓所に手厚く葬られているのに比べると、可哀相なくらいです。
しかし、ラケルが、命を賭けて生んだということは、ただでは済みません。卑しめられたりといえども、ベニヤミンの血筋はついにダビデを、イエス・キリストを、またさらにパウロを生み出すに至るのであります。青年サウルもまたこのベニヤミンの血筋でした。ですからラケルの墓のそばで不思議なことを経験するとは、お前の祖先のラケルの霊が、「わが裔(すえ)より神の器よ、出でよ、出でよ」と叫びつづけて、ついにお前を見出し、どんなに喜んでいるか、どんなにお前を守護しようとしているか、というしるしなのです。そういう時に、もはや「家の父が心配している」などと言われても、決して心ひるむな。「一たび鋤(すき)に手をつけたら、もう後を顧みるな」
聖霊の一群に近づけ
第2は、3人の霊的人物に出会うという預言です。ベテルは当時の最大の聖所であります。そこを目指してやって来る3人の宗教的人物にお前は会うが、彼らは神礼拝の旅をするために、大事な取っておきのパン2つまでもお前にくれるということが起こる。宗教的人間は宗教的人間がわかるのです。
聖霊の油注ぎをされたサウルは、自分では自分の変化に気づかぬかもしれぬが、他の者、とりわけ宗教的人間には目ざとくその変化がわかります。その尊さがわかるから、大事なパンを2つまで与えても、もてなそうとするのです。パンを貰うくらいが何で奇跡かと言うなかれ、見ず知らずの人がそんなにまでしてくれるのは、何か自分に変化が起こっている証拠です。神の霊が臨在しはじめた証拠。これは小さい出来事ながら大きな意味があります。霊化されると、不思議なことに次々とまあよく宗教的、霊的な人間に出会いはじめます。そして、無くて困っていた物が次々と与えられる。「近頃、私は何とついているんでしょう!」、これ霊的新生をとげた私たちが、共通にまず経験する事実ではありませんか!
第3に、サムエルはサウルに命令するようにも、「お前はギベアに行く」と言います。ギベアの町には、ナヨテと言って大勢の霊的信仰者たちが合宿して、サムエルのもとで信仰を学ぶ預言者塾のようなものがありました。そこにペリシテ軍の守備兵がいた。なぜか?
いちばん手強(てごわ)いのは、霊的な信仰者の一群だからです。激しい霊的な運動が起きはじめると、この世の勢力は目ざとく監督し、弾圧を始めます。目と鼻の先に剣をきらめかせる占領軍がいる。そのような中で、神に信じ抜き、霊的信仰を貫いてゆくことは大変だが、やりぬかねばなりません。そのためにこそ霊的信仰の一群は起こされたのです。
なぜサムエルはサウルに命令するようにもギベアの預言者塾に赴かせたか?
人はよく自分ひとりで宗教書のページを繰りながら、「聖霊を受けたい、受けたい」と言います。しかし聖書の示すところは、「上よりの力を受けるまでは都に留まって祈れ」と主に命ぜられて、120人の者が一団となって祈った時、激しい聖霊降臨をみた。このように、私たちがほんとうに聖霊に満たされるためには、聖霊をもつ一群に接近し、そういう者たちと交わりをもつことが、ぜひとも必要だということです。そうでないと、いったん聖霊を注がれても、周囲は全く肉的な人々ばかりですから、霊が冷やされ、殺されてしまうからです。
サウルはギベアの預言者の一群に近づいて、ついに激しい神霊の注ぎ、霊的な生まれ変わりを経験します。「人新たに生まれずば、神の国を見ること能(あた)わず。霊によって生きる者は霊なり」。サウルはほんとうに大発見、大獲得したものです。初めはただロバを捜して西に行った。しかし不思議に導き入れられたのは、預言者たちの世界でした。
リズミカルな楽隊を先立てて、沸きたぎるような聖霊の灼熱(ヒトラハブート)に異言、預言を語りながらやって来る一団に出会った途端、彼らに臨んでいた霊がサウルに飛び火して、彼の口からも異言や預言が噴出しはじめ、一団の一人と化してしまいます。
初めから一人で異言や預言の状態になろうと思ったら、大変難しいです。しかし特別聖会の祈りのような霊の濃厚な場に入ってこられると、いつのまにか次々と皆が異言を語るような霊感状態に入ってしまわれます。場の力というか不思議な事実です。伝道の秘密もここにあります。本を読んだり、説教をしたりではなかなか人は救われません。
「私は回心したい、悔い改めます、悔い改めます」とひとりでやっていても、なかなか新生しません。しかしそんな人がいったん、天の生命が臨んでいる神の子たちの群れの中に、天的な愛がたゆとう場に入ってこられると、傷口から愛がドクドクと流れ込むようにも、いつの間にか同じ天の生命を宿す者に変えられている自分を発見なさいます。
今、全国各地にそのような神の子たちの強力な磁場が次々と生まれつつあるのを見ます時に、これはエライことになる。久しく侮られてきたキリスト教が、真の実力を発揮しはじめる、と感じないではおられません。
手の当たるにまかせて、事を為せ!
ひとたび聖霊の注ぎを受け、霊的新生をしましたら、大事なことは、今までのような消極的な、引っ込み思案に縮こまったような生活をサラリと脱ぎすてて、大胆な、思い切った、積極的な生活を開始することです。神が偕におられるのだから、何も恐れることはいりません。神が囁きかけ、霊感し給うままに、もうどんなに大きな、とてつもないことにでも突進してゆく。必ず成ります。考えられないようなことが次々と実現して、驚くべき奇跡的な生活が始まります。「これだけの事が、わずか一年の間に?」と怪しむくらいに充実した建設的な生活が始まります。ロバ捜しくらいで明け暮れしていたサウルが一変し、強大なペリシテ軍に、アンモン軍に向かって突撃すると、大勝に次ぐ大勝、ついにイスラエル王国の王にまでなりました。
「手の当たるにまかせて事をなせよ」。孔子はやっと年70にして、「その心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」――自分の欲するままに何でも行なって、しかも人の道を踏み外すことがないという境地に至りました。しかし私たちは年若くとも、聖霊が臨んだその日から、欲するままに歩いて、しかも踏み外すことはありません。今までは「こうしてはいかん。ああしてはいかん」と律法や道徳に縛られて歩いていたが、もうこれからは手の当たるにまかせて事を為せ。これが新約の信仰です。道徳に縛られて生きている間は道徳の奴隷です。道徳を踏んまえてもっと偉大なことを為す。これ神の子の歩み方です。
パウロは言いました。
「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下(もと)にはいない」(ガラテヤ書5章18節)
「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ロマ書8章14節)
道徳にはもはや縛られず、神の霊にだけ導かれて生きる生涯、これが福音的人生です。神のなさり方は、人間の道徳やちっぽけな常識とは違います。神の霊が臨んで大きな事をなさる時に、私たちも思い切った歩み方をせねばなりません。どうかせっかくの地上の人生、思い切って、手の当たるにまかせて事を為す生涯を歩こうではありませんか!
奇跡的生涯が始まる
サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った。「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。その所のひとりの者が答えた、「彼らの父はだれなのか」。それで「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのが、ことわざとなった。サウルは預言することを終えて、高き所へ行った。
サムエルから油を注がれ、今後のいましめを与えられ、師のもとを辞してひとりでその道に歩みだした途端、サウルは自分の内に、今までとは全く違った新しい心(直訳、もう1つの心)が生まれ、むくむく胎動しているのを覚えます。ロバ捜しをしていた頃の小さく縮こまった心とは打って変わって、力強い、大きな希望にワクワクと胸がふくらみ、熱いものが滾(たぎ)る気持ち。霊的な世界に触れ、新生命が芽生えはじめた時、お互いが経験する事実です。
するとその途上、サムエルの預言した3つのしるしがみな実現し、預言者の一団にふれて、サウルは突然、激しい御霊の注ぎを受け、沸騰するように異言や預言が、彼の口から噴き出します。神秘な状況にひたることは、確信と行動力の源泉であるとベルクソンも言っています。
今日のクリスチャンは、こういう経験を知りません。かえって「感情的興奮」ぐらいで片づけてしまう。そして、「私はイエスを主と告白する。聖書には『聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできない』とある。だから私も聖霊を受けているのである」などと、信仰箇条を承認することが聖霊を受けたしるしのようにゴマ化しています。全然逆です。激しい御霊注ぎを受ける状況があるのです。聖書はそのことをここにはっきり記しています。
柘植不知人(つげふじと)と言って、大正年間、日本の各地にリバイバルを起こした霊的な伝道者がいました。彼は長い間、山の中で真剣に祈った末に、ついに徹底的回心の経験を得て山を下りてきますと、大阪の梅田駅近くを歩いている時に突如上より大いなる力が自分を覆い、五体に満ちわたった。腹の底からゲラゲラ笑いが噴き出て、電車に乗って止まらず、ハンカチで口を押さえるようにして帰ったが、目汁鼻汁、賛美の歌は止めようもなく、またそのときの喜びはたとえようがなかった。そしてそれ以後、奇跡的な伝道が始まったことを自伝に記しています。
この宇宙に存在する生命に2種類あります。1つは、卵からヒヨコが生まれて、だんだん大きくなってゆき、また小さな苗木が1年ごとに年輪を増し加え大木になってゆく普通の動植物の生命――これは時間的生命です。人間も小さい時は幼稚ですが、年を取るにつれて利口になり成長して大人になってゆきます。これは時間的生命です。
ところがもう1つ、無時間的生命、あるいは永遠の生命というものがあります。時間と関係なしに、一挙にして新しい存在、神の人と呼ばれるような人間を生み出す生命です。教育によったり、修養を積んだり、時間的生命の年輪を数えることによっては、決して新しい人間は発生しません。しかし永遠の生命がガーッと臨む時、時間の年輪と関係なしに、新しい神の人が生まれるのです。
サウルもあまりにその変貌が激しいので、30息子でうだつの上がらなかったサウルしか知らなかった人々は、「一体何事が起こったのか」と怪しむほどでした。勇士ギデオンの誕生が、ダビデ王の誕生が、そしてペンテコステの日の120人の新生が同様でした。卑怯未練なペテロも人格一変、大胆なペテロとなり、奇跡的な生涯が始まりました。私たちクリスチャンは、このような天の生命を受けることが肝心です。修養努力では、人間はついに救われません。しかしもう1つの生命が与えられれば自(おのず)と神の子に変えられるというなら、大きな希望です。
聖霊の注ぎを受けたら、なお7日間、ギルガルの預言者塾に滞在するよう、サムエルはサウルに命じています。ここがまた大切な点です。すぐ家に帰ったりしたら、せっかくの聖霊が失われて元の木阿弥(もくあみ)になりやすい。それで、なお7日の間、ギルガルの預言者たちと一緒に暮らさせ、彼らに溶け込ませるよう仕組むところが、さすがは大サムエル、宗教人養成の微妙な要点を心得ています。そしてサウルはその7日間が終わってもなお家に帰らず、預言することを終えると、高き所に行きました。礼拝の場に向かった、宗教的生涯にふみ切った、ということです。私たちも尊い聖霊の賜物を受けたら、もう以前の肉的な雰囲気とは交わることなく、自分を聖別し、霊的生涯をいよいよ清められ、高められてゆかねばなりません。その時、私たちを通して、新しい霊的世紀が始まるのであります。
(1964年)