キリストの宗教は愛の宗教です。神は愛である。その愛は人間の愛と違い、義なる愛です。しかし、人間は果たして、神の愛というものを知っているか、どうか、大きな疑問です。愛らしきものを知ってはいても、真の愛、天的な愛というものを知っていないのです。

 ヨハネ伝8章ほど、イエスの愛を、神の愛の性格を、ドラマチックに描き出した箇所はありません。

 世の多くのクリスチャンは、十字架の愛を信ずると言います。そしてイエスの生涯から十字架という事件だけを切り離して、十字架にだけ贖罪の愛があるかのように言います。しかし、イエス・キリストには生涯を通じて、常に驚くべき神の愛が流れていた。人の血管のどの部分を刺しても、血が噴き出すように、福音書のどの頁にも贖罪の愛が噴き出しています。

 私はこの箇所を講義する時ほど、神に赦(ゆる)されている自分の発見を喜ぶことはありません。私なんか皆さんの前に立って、とうてい聖書講義できる資格の人間ではありません。けれども、あえて立ち訴えることができるのも、私の知っている愛が、かくのごとき無限の赦す愛だからです。「赦さるること少なきものは、愛することも少なく、赦されしこと多きものは、愛することも多い」(ルカ伝7章47節)

 ここに書いてある記事は、いかにも生き生きとして写実的です。ヨハネ伝的ではなくて、その筆致はルカ伝的です。主イエスならでは、このような感動すべき光景があり得るとは考えられません。イエスがあまりに姦婦(かんぷ)に対してやさしいので、風紀上、たぶんルカ伝から省いたものでしょう。それをヨハネ伝の編者が捨ておけず、ここに拾い上げて付加したものと推定されます。