不信仰に対して怒る

 マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。4日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」
(ヨハネ伝11章32~40節)

 ここでイエスは、マリヤが泣き、また彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり「激しく感動し」とありますが、ギリシア語原文には「霊において」という言葉があり、「感動する」は「憤慨する」で、怒りに震える状況をいいます。霊において憤慨されたのです。

 ここでキリストが激しく怒りたもうたのは、何に対してか。信じないこと、不信仰に対してです。マリヤは不信仰なことを言い、ユダヤ人たちも「盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」などと言う。なぜ信じないのか、信じさえすればよいことが始まるのに、と思われるからです。「もし信じるなら神の栄光を見る」(40節)と、イエス・キリストは言われた。信じることがなかったら、神の栄光も現れなければ、何のよいことも起こってこない。聖書の世界において大事なことは「信じる」ことです。何はなくとも信じなくてはなりません。私たちにとっていちばん悲しいことは、信じることができない、ということです。

 信仰なさる方でも、よく「うちの息子は信仰がなくて……」などと平気で言う人がいます。人間の心に信じる心がなくなったら、霊界を垣間見ることもできない。また、自分で自分を信じることができなかったら、未来を切り開くなんてとてもできません。

惑乱し、涙するイエス

 また、33節に「心を騒がせ」とありますが、原文の「ταρασσω タラッソー」は「惑乱する」という言葉です。また、「イエスは涙を流された」(35節)とあります。

 このように、イエス・キリストの心が非常に混乱したという。「イエスほどの人が惑乱するなんて」と言いたいところですが、イエスはご自分を「人の子」と呼ばれた、人間らしい人間です。人間は、激しく情動が起こるときに、血液が逆流するようなこともあるのです。また、心が混乱するものです。すればこそ人間なんです。聖書には、それが率直に書いてあります。

 キリストが惑乱したり、憤慨したりした、などとそのまま訳したのでは、今の行ないすましたクリスチャンには不都合でしょう。だが信仰とは、赤い血の流れている人間が惑乱したり、心が騒いだりしてしかたないような中にあっても信じてゆくことであって、冷たい教理を信じるということとは違うのです。

 日本では昔から、聖人君子はどんなことが起こっても慌てない、騒がない。そのような人が英雄や偉人だと思われている。しかし聖書は、イエス・キリストは惑乱した、という。また、私は子供の時から、「男は泣くものではありません」といって育てられてきました。だが、実に泣く時は泣き、喜ぶ時は喜び、怒る時は激しく怒り、「災いなるかな!」と言って、頑(かたくな)な宗教家たちを呪うことまでされたのがイエスです。一般のクリスチャンの考えているイエス・キリストの人間像と、だいぶ違うことがわかります。

 イエス・キリストは人間らしい人間であり、血も涙もある人であった。聖書が伝えているのは、このような激情的なキリストです。イエス・キリストが、激しく泣き、激しく惑乱するぐらい感情を表した人であるというならば、私たちイエスの弟子である者も同様でありたいと願います。

愛の雰囲気が人を癒やす

 今の日本のキリスト教では、「三位一体」や「贖罪」などの教理を理性で信ずることが信仰であって、このような豊かな感情を伴うものが信仰だとは思われていません。「どうも幕屋の信仰は感情的でいけない」というのが我々に対するキリスト教界での評判です。しかし、牧師や神学者が何と言おうが、「互いに泣く時は泣こうじゃないか」というのが私の主義です。私自身は、激しく泣き、激しく喜べるから幸福です。もし、泣く時に泣くことができないなら堪りません。

 人間には、心理学的に「知・情・意」の心の働きがあるといわれます。だが、宗教は全人的なものであり、一個の人間全体のことであって、それを知情意に分割して教えようとするところに今のキリスト教の間違いがあります。宗教において大事なのは、情意、特に感情というものです。

 知性とは、人間の外側で見たり、聞いたり、感じたりするものを自分に取り入れ、また自分の外側の世界に対処するためのものです。ところが、「自分はこうしたい」と内側から込み上げてくる感情は、魂の内部から来るのです。頭からは来ない。宗教が魂の内側のことであるならば、感情を無視した宗教というものは非人間的な宗教です。西洋のキリスト教は、そうやって宗教を非人間化するのです。感情が失われると、魂もやせ細って情動せず、信仰は力を失います。

 だが、キリストの信仰はこのように、知性だけの信仰ではなかった。霊が惑乱し、マルタとマリヤが泣くのを見て、共に泣いた。こういう情動は神学からは生まれてきません。

 人間の情意は、幼い時に養われます。子供が小さい時には、ほんとうに愛情をもって可愛がって育てることが大事です。そうでないと感情を失います。

 イエス・キリストはなぜ偉大であったか。イエスは豊かな感情をもっておられました。また、自ら十字架にかかりに行かれるほどの意志力がありました。そして、実に聡明です。これは、一つに聖霊の恩化によるものとはいえ、母マリヤや父親のヨセフによって、よほど慈しみ深い愛情をもって育てられたことによると思います。そうでなければ、このように偉大な人物は生まれません。こんなことは神学の教育などではなく、家庭の教育から出てくるのです。

 感情は幼い時に育つものですから、幼い時に厳しく道徳で育てられた人は、どうも理屈っぽく弁解が先だって、いけません。もし、自分がそうだとお思いなら、今からでも遅くはありません。努めて自分の心をほのぼのと労り、大事にしてやることです。

 多くの人が言います、「幕屋に来ると、どうして私はこんなに変わるのだろうか」と。それは温かい雰囲気があるからです。幕屋に特有の温かい愛の雰囲気、これが人の魂を癒やすのです。私の聖書講義なんかが癒やすものか。大事なことは、お互いの魂を神の大きな愛の中に生かしてあげることです。そして、励まし慰め合いながら信仰してゆかなければ、魂は成長しません。

三位一体:父なる神、子なるキリスト、聖霊の三者は1つであり、それが唯一の神である、というキリスト教の教え。

(1963年)

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