寂聴の祈り

 もう1つ、クエーカー派の人は「inner voice インナー ヴォイス (神の)内なる声」を尊んで大事にいたします。クエーカー派の集会に行きますと、皆黙って静かにしております。神の声を聴きたいからであります。彼らの信仰の特徴は、内なる静けき声を静かに聴くことです。

 私が昔から強調しているのも「寂聴」ということです。私は自分の部屋でも声を上げて祈ることは、絶えてありません。私は声1つ上げません。神は私のすべての必要を知りたもうのですから、「神様」と声を上げてせがむのでなく、「神様、どうしましょう、どうぞ御声を聴かせてください」と静かに耳をそばだてて聴きます。それは外から耳に聞こえる声ではなく、内側に聞こえてくる声です。その御声を聴こうとするだけです。

 こういう公の集会では、自分の意志を表現するために声を出しますよ。しかし、独りで祈るときに声を立てたことはありません。私の祈りは寂聴の祈りです。そして「寂聴庵」といったような若い人たちの修養道場を熊本に作っておりました。静けき声を聴くのが私の信仰の狙いです。

 私も昔は、雑念が出てくるので「神様」と声を出して祈っておりました。声を出して祈ると惰性から抜け出せるし、よく集中できるからです。しかしある時から、声を出す必要がなくなりました。今は静かな祈りを楽しんでおります。もう眩いように、自分が御光に撃たれて酔うような経験があります。それは酒を飲んだ時に、はるかに勝る喜びです。キリストの御顔を見上げるだけで、満ち足りるような光があります。これを「内なる光」と呼ぶのです。この内なる光に撃たれることが信仰生活にとって大切であります。

 「わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言われるとき、キリストは普通の人の知らない、妙なる不思議な光をもっておられた。これを私たちも、ぜひものにしなければなりません。

すべてを見透して

 そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」
(ヨハネ伝11章11~16節)

 イエス・キリストは「わたしたちの友ラザロ」と言われた。「わが友ラザロ」と言われるほど、キリストの目には、世に捨てられたラザロが尊く見えました。私たちはどんなに人から忌み嫌われてもいい。主が「わが友よ」と御声をかけてくださるなら、それで十分であります。

 「眠る κοιμαω コイマオー」という語には「熟睡する」という意味と、「永眠する、死ぬ」という2つの意味があります。「わたしは彼を起こしに行く」の「起こす」という字は、「眠りから覚ます」という意味です。弟子たちは「昏睡状態程度だったら救われるでしょう」と言いました。

 するとイエスは、あからさまに彼らに言われました、「ラザロは死んだ。わたしはあなたがたのために喜ぶ、わたしがそこにいなかったことを。あなたがたが信じるために(直訳)」と。「喜ぶ」と言われるのには、2つの意味があります。1つは、弟子たちが信じるようになること。もう1つは、ご自分はそこにいないのに、すでにすべてのことが見透すようにわかっておられる、ということです。多くの人は両眼で見ないと信じないが、自分はそこにいないけれど、内なる光によって千里眼のようにありありと見ることができることを喜ぶ、と言われるのです。

 イエス・キリストの弟子であるならば、クリスチャンであるというならば、小さいながらもこれに似た不思議な経験をもたなければなりません。

大きな祝福を受け継ぐ者

 こうして聖書を読みますと、キリストのご生涯が目に浮かぶようです。愛する者ラザロが死んでも慌てず、騒がず、すべてがお見透しであった。なぜか。内なる光があったからです。内なる光に照らして、遠くの出来事が目の前で起こっているように見ることがおできになりました。

 信仰といえば、普通は罪や病気から救われることくらいに思いますけれど、それは消極的な信仰です。しかし、キリストは離れている所のことも見透しておわかりになり、死んだ者も蘇らせるほどの不思議な栄光をお現しになった。積極的な信仰とは、私たちがそのような大きな栄光を、祝福を受け継ぐ者となることです。

 世の中の人は外なるものを受け継ぐことを喜びます。たくさんボーナスをもらい、お金を貯めるのも嬉しいでしょう。しかし、私たちは内なる光を継ぐ者になったことが幸せです。何はなくとも、内なる光に酔うようにしている毎日の自分、嬉しいなあと思います。内なる光を蓄えている喜びの前には、この世の何もかないません。

 ここでイエス様が「もう一度ユダヤに行こう」と言われた時、弟子のトマスは「先生と一緒に死のうではないか」と捨てぜりふのようなことを言いました。だが、イエス様の本心は、もっと驚くべき神の栄光を示すために弟子たちを連れてゆこう、ということでした。内なる光がなく、心が真っ暗な人間は、次の瞬間、何が起こるかがわかりませんから恐れます。しかし、イエス・キリストがなさろうとすることは、前代未聞、死んだラザロが墓から出てくるという、驚くべき復活の奇跡でした。

 私たちは次に何が起こるか、今は真っ暗で何も見えません。しかしキリストが働いてくださるなら、次の瞬間、驚くべきことが起こる。それを大きな期待をもって見守りとうございます。

(1963年)

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