心に灯火をもつならば

 ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。イエスは答えられた、「1日には12時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」
(ヨハネ伝11章6~10節)

 急いでベタニヤに行かれればよいのに、イエス様はなお2日もぐずぐずしておられました。「これは、ラザロを死なせておいて、後に奇跡が起きるなら皆が驚くからだ」と解釈する人もいます。また、わざと遅れて来られたため、マルタとマリヤはイエス様に愚痴をこぼしております。このように彼女たちの不信仰を暴露するためにわざと遅れたのだろう、と言う学者もおります。

 私はそうは思いません。キリストは、どんなときも父なる神の懐の中にいたもうたから、人が死んだといっても騒がれず、慌てられない。泰然自若として生きておられました。すべてのことがお見透しであったからです。ここに、悠々と生きておられたイエス様のごようすがうかがわれます。弟子たちは、「先生、ユダヤ人たちが先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と言っておびえます。マルタたちの住むベタニヤは、イエスを殺そうとした宗教家たちのいるユダヤの地方にあるからです。

 しかし、それに対して何と言われたか。「1日に12時間あるではないか。昼間歩けば人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである」。当時のユダヤ人は、日の出から日没までを12等分して12時間としました。日中に歩くならば、人間はつまずくことはない。石打ちする者がどこにおるかもわかるし、ちっとも怖いことはない。どこが危ない谷であり、坂であり、崖であるかということが、太陽の光によってわかるからです。

 しかし、夜歩けばつまずきます。「その人のうちに、光がないからである」、ここでいう夜というのは、ただの夜ではありません。心の闇、霊的な闇のことです。霊的に真っ暗な者は「ユダヤ行きは危ない」と恐れるかもしれないが、それは心の灯火(ともしび)がないからです。

 キリストは、「我は世の光なり。我に従う者は暗きうちを歩まず、生命の光を得べし」と言われました。信仰とは、この生命の光を得ることにあります。詩篇18篇に、「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます」(28節)という有名な句があります。神は私たちの心の、無明(むみょう)の闇を照らしたもうお方です。キリストにあって新しく生まれた者には、このようにこの世の灯りではない、霊的な灯り、心の灯火が胸に灯される経験があります。

一隻眼開けて

眉間に目をもつ仏像(愛染明王)

 イエス・キリストは、マタイ伝の山上の垂訓にも言っておられます。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」(6章22~23節)

 この「目」という語は、ギリシア語では単数形で書かれています。目は両眼あるものですから、複数形で書かれなければならないはずです。また、「あなたの目が澄んでおれば」とあるが、「澄む απλους ハプルース」という語は、英語では、「single シングル(単一、純一)」とも訳される言葉です。ですから「あなたの目が澄んでおれば」というのは、「あなたの1つの目が純一であるならば」という意味です。もしあなたが、自分にはそういう内なる光がないといって嘆くなら、それは、あなたの目がシングル(単一)でないからです。

 インドを旅行しますと、いろいろ珍しい偶像があります。その中で、眉間に大きな目の玉がついている像があります。そしてこの1つの目に水晶玉などを入れて、心の眼(め)として非常に大事にしております。

 同様に、キリストがここで、「あなたの1つの目が」と言われるとき、これは肉眼でない、心眼、霊眼のことをいっておられるのです。このことを仏教では「一隻眼(いっせきがん)」といいます。「法を読み解く力、物の本質を見抜く眼、見識」のことです。

内なる光が照り出す

 この1つの目が明るくなかったら、その暗さはいかばかりだろうか。また、1つの目が明るかったなら、どんなに体じゅうに後光が射すくらい明るいだろうか、とキリストは言われます。

 ここに心の光、内なる光の尊さがあります。宗教とは、この内なる光が照り出すことです。明かりを消してしまえば、もしここに何かがあっても見えません。光があればこそ存在がわかります。同様に、霊的な光、心の光が灯らなければ、神の存在もわかるものではありません。

 キリストが与えたもう恵みは、ただ病気が癒やされたり、事業が成功したりということだけではありません。この光によって心の内に外に、いろいろなものが見えだす経験であります。

 世界のキリスト教徒の中で、平和を愛し、行ないの立派な群れであるといわれるのは、クエーカー派の人たちです。国際連盟の事務次長であった新渡戸稲造先生も、彼らの仲間でした。

 彼らが非常に尊ぶのは、「inner light インナー ライト 内なる光」です。

 自分の心の内に光がないならば、心の内は真っ暗です。物質が存在しても光が照らしていなければ見えないのと同じように、神が存在しても、キリストが実在していても、内なる光が心の中を灯していない限りわかるものではありません。

 私たちにとって、宗教の議論を聞くよりもまず大事なことは、内なる光が灯されはじめるということです。心の灯火が灯されずに何を聞いたって、ああそうかと思うだけで、そのものを認識することはできません。

 私は今、熊本と大阪を行き来して集会をしておりますが、先日、大阪に来ている間に熊本で、ある青年が書き置きをして家出したことがありました。それを見て、皆が恐れました。「危ない、自殺でもするのではないか」と言って、「阿蘇山に行こうか。あちらだろうか、こちらだろうか」と皆で捜しました。また夜になると、皆が心配し、「警察に捜索願を出そうか」と言います。だが私は、「神様が彼を守りたもう。大丈夫だ。そう自分の心に感じる」と言いました。翌日になると、私が言ったとおりの結果でした。

 このようなことはどこからくるか。これは内なる光が示すからです。内なる光に照らされますと、目で見、耳で聞くほどではありませんが、フッと合点することをいつも感じます。手に取るように、恐ろしいほどわかります。内なる光は危機に際して事柄の真相を示す。これは不思議な経験ですが、皆様がたも信仰生活を進めてゆくうえで同様な経験をもたれると思います。

クエーカー派:17世紀のイギリスで、一職人ジョージ・フォックスを指導者として発祥した、霊的な宗教運動。教会制度や儀式を廃して、共同での神秘的体験を重んじた。フレンド会とも呼ばれ、全世界に広がる。

(1963年)

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