今日はヨハネ伝11章1節から学んでまいります。ここからラザロの復活の記事が始まります。

イエスの愛された人々

 さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
(ヨハネ伝11章1~5節)

 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とある、マルタと妹のマリヤ、またその弟のラザロとは、どういう人たちだったのでしょうか。「このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女」(2節)とあります。ルカ伝7章36節以降に、マリヤという名はありませんが、匿名の女のことが書かれています。

 ある時、1人のパリサイ人がイエスを家に招きました。すると、その町で「罪の女」といえばすぐわかるような、汚らわしい過去をもつ女が、その家にイエスがおられることを聞いてやって来た。

 イエスの足元に来て、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して、香油を塗りました。パリサイ人はそれを見て、心の中で、「もしこの人が本当の預言者であるというならば、自分に触っているのが、どんな女であるかわかるはずだ」と言った、という記事があります。イエスはこの女をかばい、パリサイ人に対し懇ろに、「多く罪を赦された者は多く愛する」というお話をなさいました。

ラザロたちの住んだベタニヤの村(現代)

 この女がマリヤであります。マリヤは「罪の女」と言われて、町じゅうから辱められておりました。人に言えないような恥ずかしい過去がありました。そんな汚らわしい女に触られていて平気なのか、というのがパリサイ人の言い分です。だが、イエスは黙って、その女のなすがままにさせて弁護なさいました。これがイエス・キリストの姿です。

 また、弟のラザロは、他の福音書には「らい病であった」と書かれています。らい病は当時、最も忌み嫌われた病です。イエスが特に愛した3人の姉弟、それは町じゅうの嫌われ者でした。しかし「このラザロを主は愛しておられた」。このことは私にとって、どれだけ慰めであるかわかりません。人は私の過去を咎めて、この人はああだった、こうだった、とあることないことを言います。しかし、そんなことはどうでもいい。私は今、主に愛されているラザロです。昔は心のただれきった人間であったけれど、今はキリストの愛の瞳の中に入れられている私自身を思う時に、「神様、もうこれで十分でございます」と言うことができます。

パリサイ人:ユダヤ教の掟を厳格に守り、民衆を指導していた宗教家たちのこと。

神の霊によって生まれ変わる

 よく、多くの人が私に「どうしたら私は神に愛される人間になることができるでしょうか」とご質問になります。私も昔はそういう質問をしたものです。しかし、今ではそういうことを言わない人間に変わってしまいました。それは聖霊を受けて、ある聖書の言葉を経験したからです。

 ヨハネ伝3章でイエスは、当時の立派な宗教家であったニコデモに対して、「あなたは新しく、神の霊によって生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。人間としてこの世に生まれてきたように、今度は神の霊を受けて霊界に生まれなければいけない、地上から天国に生まれなければならない、と言われたのであります。

 どうでしょうか。果たして私たちは地上を歩きながら、私の国籍は天にあり、私のホームは天です、というほどに天を慕っているか。また、地上をさながら天国のように歩いているかどうか。

 聖霊を受けて、新しい霊的な生まれ変わりを胸の中に経験されるならば、すでに天上の雰囲気に包まれているような光景に出合うのです。もしクリスチャンといいながら、このことを知らないならば、なんと哀れむべきものであろうか。

 「どうしたら先生のような信仰生活を送ることができますか」と言われるけれど、私は皆さんと同じ人間であって何も変わりがありません。しかし確かに違うというのであれば、わがホームはすでに天である、ということであります。地上に何をもち、何を蓄えようが、私にはちっとも楽しくない。天上のことを思い、霊界を夢み、自分が地上に霊界の一部をもっていることをひたひたと感じるときに、幸せだなあ、とつくづく思います。また、この聖霊を慕うたくさんの兄弟姉妹たちにこうやって囲まれている自分を見ると、なんと嬉しく、有り難いことかと思います。

 「聖霊によって新しく生まれる経験をしなければならない」。これは、キリストが今日も同様に言われている言葉です。そして、どのような罪や病を身にまとっていても、ひとたびキリストの霊を受けて新たに誕生した者を、キリストはこんなにも愛されるのです。ここに、イエスがマルタとその妹弟マリヤとラザロを非常に愛しておられた理由があります。地上においては全く気の毒な人たちです。しかし、イエス・キリストはこういう人たちを見て愛しておられたことを読むときに、聖書は2000年前の物語ではない、私の物語だ、そう思います。

あらゆる出来事を通して神の栄光を

 ひとたびキリストの息吹に触れ、キリストの霊が脈打つようになってからというもの、自分でもその変化に驚く経験があります。マリヤも、拭おうと思っても拭いきれない過去の罪に苦しんでいました。若い娘が一度純潔を失いますと、どれほど一生涯悩むか。「私の犯した罪を忘れてください」と言っても、現実はどうにもなりません。

 拭うべくもない罪に苦しんでいたマリヤ、しかしイエス・キリストに触れた時に、心が変わり、全世界に彼女の名前が伝わるような聖女と変わりました。マルコ伝を読むと、イエスの頭に香油を注いだ女について、イエスは「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(14章9節)と言われました。こうしてマリヤは、イエス・キリストに愛される者となったのです。

 救いとは精神的な救いだけにとどまりません。マリヤの兄弟ラザロはらい病の爛れた体だったようです。このラザロが死にました。しかし、イエス・キリストに触れる経験は、霊肉共に救われることです。「ラザロは死に至らない。神の子がそれによって栄光を受けるために、神の栄光のためにこの病気があるのだ」と、イエスは言われました。

 キリストの目には、一切合財が神の栄光を現す出来事に見えたのです。その病は神の栄光のための病である。つまり、このことを通して神の子イエス・キリストが栄光を受けるためであると言われるのです。「栄光を受ける」とは、ただ輝かしいことが起こるという意味ではありません。「栄光」という言葉は、目に見えない神様が、見えるように現在するときに使われる言葉です。私たちはあらゆる出来事を通して、神の栄光を現す生き方をしなければなりません。

(1963年)

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