大浪関とビタ銭

 明治年間のことです。大浪(おおなみ)という力士がおりました。この力士は非常に体格もいいし、稽古熱心だが、土俵に立つと負ける。あれだけの体をして、あれだけの技をもっているのに、どうして負けるのだろうかと、皆が不思議がりました。

 ある高名な禅師が大浪関の不評判を耳にして「ひとつ、わしが大浪に会ってみよう」と言った。「老師がそう言われるのなら連れてきましょう」というわけで、大浪が連れてこられた。

 すると老師が大浪に「騙されたと思って、わしの言うとおりにせい」と言って、大浪をお寺のお堂に籠らせた。そして老師が言うのに、「よいか、どのように眠くなろうとも今夜一晩、寝てはいかん。そして、目の前の仏を睨みつけて、こう言え、『おまえが釈迦(しゃか)か! おれは大浪! おまえが釈迦か! おれは大浪!』と」。大浪は言われたとおりに「おまえが釈迦か! おれは大浪!」と言っていたら、だんだん瞼が重たくなってしょうがない。けれども、絶対に寝てはいかんと言われたから、つねったり、いろいろするけれども眠くてかなわない。それで、お尻の付近を痛くしたら眠らないだろうと思って、煙草入れの飾りにしていたビタ銭をお尻の下に立てて一晩過ごした。

 その翌日以来、土俵に立ったら、今まで負けてばかりいた大浪が、小結だろうが関脇だろうが大関だろうが、鋼(はがね)のようにバンと跳ね返して負かしてしまう。始末に負えないくらい強くなった。それで、どういうわけでこのような天下無敵の力が一夜にして与えられたのだろうかと皆が驚いた、という話があります。

本来の面目を発見

 それである人が、「どうしてあなたは一夜にしてあんなに強くなったのか」と聞くと、「あの夜、老師に言われたとおりに、『おまえが釈迦か! おれは大浪!』と繰り返しているうちに眠たくなって、尻の下にビタ銭を据えた。その時、『ああ、おれもこのビタ銭のようなつまらんものだ』と情けない気持ちになった。

 ところが、そのうち夢見心地になって尻の下のビタ銭がどんどん波打つように増えてきた。夢か幻か、自分はビタ銭の大波の上に浮かんでいる。その時に、今まで自分はビタ銭のようにつまらない奴だと思っていたのに、そうではなかった。ビタ銭を尻に敷いているおれが大浪だ、という大きな気持ちになった。

 その気持ちのまま次の土俵に立ったら、今までどうしても負けていた相手がビタ銭に思えてきた。それで『おれは大浪! どんな者が来ても、ビタ銭だ、エイッ!』という気持ちで取り組んだら勝ったのです」と言いました。

 どうでしょうか。大浪という力士は本来の面目ともいうべき、もう1つの「我」を発見したのです。ビタ銭のように卑しく、小さく情けない自分だと思っておったのに、急に「大いなる我」、大浪の自覚に立った。その時に、それまでの自分を踏みつけてしまうような、大きな自分が現れてきたのです。

神と結合する宗教体験

 宗教はこれです。宗教は、神に通じる魂、神が喜ばれる大いなる我を目覚ましめることにあるのです。常識的な、小賢しい、利己的な心が神に通じることはありません。誰にでも神に通じる心はあります。しかし、多くの人はそれを押しのけて、自分中心な、小心翼々としている我を大事にして生きております。そして、不安に戦(おのの)き、自分を守るのに精いっぱいですから、人とぶつかって、争いごとばかり、確執ばかり起きてきます。すべてを包容して生きるというような、本来あるべき大きな自分というものが現れてはきません。

 私たちは「信仰、信仰」と言いますけれども、もう一ぺん目覚める必要があるのではないか。目覚めた、大いなる我が神を信じるのでないならば、キリストの言われるように神様と1つになることはありません。もし目覚めているならば、人の目には卑しく見えても、神の目には尊く見える、神様が握って放さないとまで言われるぐらいの者となります。そのような魂の目覚めは、行き詰まって逃げ出したくなるような状況で、「神様!」と叫びだすときに起こってきます。

 今まで「神なる我」などと聞いてはいても、他人事のように思っていた。しかし、それが目覚めだし、やがて自分の心をすっかり占領しはじめると、それまでの自分はどこに行ったかわからないくらいに、もう1つの我が輝き出てまいります。

 神様を「貴神(あなた)は」と外に拝していたのに、聖霊が自分を占領し、自分を通して語るほどに現れてくださる。これが、キリストが「わたしと父とは1つである」と言われた宗教体験です。

 どうぞ、それくらいまでに全く神に握られて生きたい。

 そのためにはどうしたらいいのか。今までのあなたの心の使い方が間違っていたのです。もう1つの我があるということを知らずに信仰していたために、どうしても信仰が伸びなかったのです。もう1つの大いなる我が力をもってきたら、今までのだめな我はいつの間にか消えてしまいます。これが目覚めさえすれば、信仰はぐんぐん成長するでしょう。

 キリストが、「父がわたしに下さったのは、すべてより大いなるものである。それをわたしの手から奪い去る者はいない。神様も握って手放されない」というような密接不離な、神と人間との結合関係、このことが大切であります。

(1963年)

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