魂が目覚める時

 何かの教えを伝えるというのが普通の宗教でしょう。しかしキリストの宗教は、人々の魂を目覚めさせ、信じる心を奮い立たせ、素晴らしい生命を受け取らせるところに主眼がありました。

 「伝道」という言葉がありますが、「道を伝える、宗教を伝える」などということが、そもそも間違いのもとです。私も、何かを教えようとしてきませんでした。私はいつでも、皆様がたの胸を揺るがして、魂の目覚めを起こすことを願ってきました。大いなる我ともいうべき、尊い魂を目覚ましさえすれば、あなたの内にも驚くべき神の力が、神の生命が流れていることをご発見になるのです。目が塞がれている間はどんな美しい光景のお話をしてもわからないように、私の伝道は一貫して、魂を目覚ましめることにあります。

 平生は、目覚めていなくとも生きられるでしょう。だが多くの場合、何か病気にかかったり、何か躓きがあったり、失敗や不運のあげく、「神様!」となぜ言いだすか。それまでは、常識的に普通の歩き方をしておればよかったんです。しかしながら、恐ろしい状況に陥ってどうにもならなくなると、「神様、助けて!」といって叫ばざるをえなくなります。

詩篇46篇に、

神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない……
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」

とありますが、大戦争、大地震、洪水のような状況に直面すると誰でも慌てます。けれども、この詩人はそのような時にも慌てない。どうしてかというなら、彼は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という神の声を魂に聞いて、もう一つの「大いなる我」に目覚めたからです。

大いなる我に生命が臨む

 人間は強い刺激を受けると、普通はそれで、くしゃっとつぶれてしまいそうになります。弱い、肉なる自分は卑怯で、「ああ、これ以上の刺激は嫌です」と言いたいものです。

 しかし、もう1つの我が立ち上がると、「よーし、やるぞ」と勇みだす。困難に対して挑もう、突破しよう、前進しよう、ここから引き上げられよう、というもう1つの我があるのです。宗教は、この大いなる我を目覚ましめるものです。

 多くの人の信仰を見ていると、大いなる我という我は育てずに、小さな我のだめさをつついて、「なんて自分はだめなのだろうか」と嘆いておられる。しかし、すべてに対して恐れがちな自分、卑怯で消極的な、罪なる自分を問題にしている間は救いはありません。

 ところが、大いなる我、神なる我が、キリストの生命を受けてぐんぐん強まりだしますと、いつしか小さな我、罪の自分は影を消してしまいます。ないとは言わないけれど、ほんとうに小さくなってしまう。そして、「こんなとき、昔だったら恐れてばかりいただろうけれども、今ではなんでこんなに勇み立つことができるのだろうか」といって、今までとは違った自分を発見するものです。この大いなる我を目覚ましめることが大事です。

抜山蓋世の力を引き起こす

 イエス・キリストが「わたしが父なる神様から与えられているものは、大いなるものだ」と言われているが、父から与えられたイエスの弟子たちの多くは、とても大いなる者ではありませんでした。イエスが十字架にかけられるとなると、恐れて逃げ去ってしまうような弱い者たちでした。しかし、神様は彼らの中にある大いなるものを握っておられた。それを握った以上、神は放さない、と言われるのです。

 もしお互い、神からすぐ離れがちな自分があるというならば、あなたの心のあり方が間違っているのです。神の御手に握られる魂は、いつも光り輝いて希望と愛と喜びに満ちている。信仰に満ちている。神のごとくに無限に赦し、無限に愛し、無限に信じる。背かれても信じるような、大きな我というものがあるのです。しかし、今はそれが眠っている。目覚めだしたなら、そして神様がそれを握りだされたなら、キリストはその魂を通して大いなることをなさいます。

 こういう霊的な啓発は、普通の世の中ではなかなか行なわれません。これは教育の仕事ではありません。宗教の仕事なのです。religion レリジョン(結合)というけれど、何が何と結合するのか。大いなる我と呼ばれるもの、私たちの魂が神と結合するのです。宇宙の根本である神に握られだしたら、運命は劇的に逆転しはじめます。魂が目覚めるならば、抜山蓋世(ばつざんがいせい)の驚くべき力が自分にあるということを知ります。

 ですから、霊なる我・大我と、肉なる我・小我を対等においていてはいけません。聖霊が私たちに臨むというのは、霊なる我に臨むからです。ひとたび魂が目覚め、聖霊が臨んで霊なる我が力強く息づいてきさえしましたら、今までは奴隷のように小さく縮こまって生きていたのに、ぐんぐん押しまくって勇者のごとくに立ち上がることができます。

 そのような2つの自分がある、ということをよくお考えになることが必要です。キリストが、御手に握ったら放さない、と言われる霊魂が皆さんの中にあるのです。

(1963年)

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