命を捨てる力をもつ

 「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」
(ヨハネ伝10章17~18節)

 「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さる」、ここにキリストのお気持ちがよく表れています。私もキリストに愛される人間になりたい。そのために私は、自分の命をいつでも捨てる覚悟をしておく必要があるし、捨てねばならないと思っています。

 けれども、「捨てるのは、それを再び得るためである」とある。その命は、いつでもまた再び受け取ることができるのです。また、「それを受け取る力がある」と言われるように、命を捨てるといっても、着物を脱いでまた別の着物を着るように何でもないことだ、とキリストは言われる。これは永遠の生命を知っている人の言葉です。ヤドカリは、次から次に自分のすむ貝殻を替えます。私たちの人生、地位が変わり、環境が変わり、状況が変わる。しかし私たちの魂は、いろいろに住みかを変えながら、永遠にまで生きてゆく。地上のさまざまな姿にしがみつくことなく、天国を指して、次から次に状況を脱ぎ替え、脱ぎ替えしてゆくのが私たちの生涯です。

心砕けた者に

 私たち、神に導かれる生涯を送ろうと思うならば、ひと足またひと足、羊が導かれるように御声に従って生きるということをしないと、次の御声がかかってきません。だが、私たちはなかなか神の声を聞くことができない。それは、神の霊を受けて、もう一つの新しい心を頂くということを願わないからです。この新しい心を頂いたら、その心を用いてどんどんよい場所に行けます。

 「どうして私は乏しいのだろう」と嘆く人があります。それは、神の示されるよい土地に行こうとする心がないからです。多くの人は、素直な、神の声を聞くような心が与えられると素晴らしいことが次から次に連続してくる、ということを知りません。何か物質的にちょっとでも恵まれたり、よい地位にでも就くと神様に感謝します。しかし、新しい心を頂いて心が変わっても、「恵まれた」とは言いません。けれどもこのほうが、本当はずっと有り難いことなのです。

 旧約聖書の中にも、「石の心を除いて、肉の心を与える」(エゼキエル書36章26節)などのように、新しい心が与えられると書いてある。その時に、神の御声を聞くことができるのです。

 私たちの幕屋では、回心(コンバージョン)して、こんな喜び、こんな嬉しい心持ちがあるだろうか! と思うことがあります。これは神から全く新しい心、神の声を聞くような心を与えられているのです。

 どうしたらその新しい心が与えられるか。神は、私たち人間には遠い存在に思えるかもしれません。しかし聖書には、いと高き神が、心へりくだった、心砕けている、傷心(ブロークンハート)の者に近寄ってきてくださる、ということが書いてあります。人間の理性こそ万能だ、などと傲慢なことを言っている者には語りかけられない。しかし、石のような心が砕けるときに、いと近くに神を知り、神が語りかけてくださることがわかります。私たちにとって、そのようにありありとした神の御声を、日々事ごとに聞きながら生きることが信仰の生涯です。

預言者たちに響いた声

 旧約聖書のアモスという預言者はいちじく桑の木を作る者であり、羊飼いでした。でも、「私は宗教家ではない。しかし、神の御声がガンガン鳴り響くから預言するのである」と言いました。

 預言者エレミヤも、「主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません」(エレミヤ書20章9節)と言った。神が圧倒するように語りかけてくる。それをありのまま伝えれば、人々は彼を気違いだと言う。しかし、確かに語りかけるものがあって、黙っていれば苦しくなって困るほどだ、というのです。これは預言者たちに共通の心持ちでした。

 私たちはどうでしょう。このような経験に入っているだろうか。もし入っていないならば、そのような経験を求めてみたい。私たちが、もしこの境地に達するなら、普通の人間を脱して違う人間になるのです。神の声を聞くからです。

 今の時代、利口な人が幅を利かせる時に、私たちは少数でもいい、宇宙の偉大な声を聞いて生きるような、不思議な人生を歩いてゆきたい。そうでなければ聖書が証しされません。どうぞ、私たちは群を抜いたクリスチャンでありとうございます。

(1963年)

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